第2章4話 交錯する日常 (謙一郎 in オーストラリア)
——守山謙一郎 in シドニー
チェンジリング2日目。
目を開けた瞬間、世界はやけに明るかった。
カーテンの隙間から、遠慮のない太陽光が容赦なく差し込んでいる。
白い天井。やたらと高い天井。
そして、どこからか聞こえてくる——波の音。
守山謙一郎は、広すぎるベッドの中で静かに考えていた。
まず、一昨日から整理しよう。
一昨日は、確かに長野にいた。
診療を終え、剣道の稽古をして、帰宅して、風呂に入り、いつも通り布団に入った。
そこまでは、間違いない。
そして昨日の朝、目を覚ましたらここだった。
オーストラリア。
シドニー。
しかも、“フィン・モーガン”として。
なぜか、フィン・モーガンとして生きてきた記憶も、頭の奥にある。
波の読み方。
サーフボードの扱い。
海に入る前の、あの独特の高揚感。
だが同時に——
55年間、日本で、医師として、守山謙一郎として生きてきた記憶も、
はっきりと存在している。
二つの人生が、どちらも現実の顔をして、
同時にこちらを見ている感じだった。
そして何より恐ろしいのは、
周囲の人間が、俺を“フィン・モーガン”だと
一ミリも疑っていないことだ。
違和感を覚えているのは、俺だけ。
昨日は混乱のあまり病院へ行った。
英語で、必死に説明した。
「自分が自分でない」と。
結果は、「ストレス」。
……国をまたいで人格が変わるストレスとは、一体なんだ。
説明すればするほど、
「よくある」「休め」「波でも見てこい」
話はそんな方向へ流れていき、早々に帰された。
よくあるって、何だ。あるわけがない。
仕事はどうやら社長だったらしく、
部下たちに丸投げした。
大丈夫かどうかは、正直わからない。
フィンの記憶を辿る限り、
彼はすべてを自分で判断してきたタイプらしい。
フィン、つまり俺抜きで会社が回るのかは不安だが、
今はそれどころじゃない。
空いた時間で、真っ先にやったのは情報収集だった。
オーストラリアの雄大な自然に気を抜くと、
自分が何者なのか分からなくなりそうだったからだ。
名前:Finn Morgan
年齢:57歳
出身:オーストラリア(シドニー)
家族:4人家族(元妻、息子2人)※子どもたちは自立
職業:経営者(エネルギー産業)
体格:178cm、マッチョ
容姿:金髪青眼のナイスガイ
趣味:サーフィン、パーティー
性格:陽気、ムードメーカー、実は強がり
身長が少し近いくらいで、あとはほぼ別人だ。
性格は正反対だが、「実は強がり」という点だけは少し可愛い。
そもそも、この状況はどう考えても入れ替わりものだ。
日本で流行っているやつだろう。
普通は魂だけが入れ替わるものじゃないのか。
どうせなら俺も金髪青眼にしてほしかった。
オーストラリアの気候のせいか、思ったより冷静だった。だが、楽天的ではない。
元に戻ることを諦めて、
フィンとして生きていくつもりは毛頭ない。
まずはフィン・モーガンとして生活しながら、
情報を集め、糸口を探し、
必ず元に戻る。
そう心に決めた。
さて、ここまでが昨日の話だ。
そしてこれから、フィン・モーガンとしての一日が始まる。
——朝7時。
謎のVIPと行く、サーフィンから。
守山謙一郎は、まだ知らなかった。
この朝が、昨日とはまったく別の地獄の入口だということを。
◇
集合場所のビーチは、朝からやたらと眩しかった。
白い砂、低く唸る波、健康的すぎる空気。どれも今の俺には過剰だ。
「Morning, Finn.」
背後から声をかけられ、反射的に振り返る。
そこに立っていたのは――昨日、記憶を漁る中で何度も写真で見た顔だった。
元妻のジョディ。
正確には、フィン・モーガンの元妻。
俺にとっては初対面で、人生に一切関係のないはずの他人。
なのに彼女は、あまりに自然に微笑み、俺の腕に軽く触れた。
「久しぶりね。相変わらず朝早いのね」
周回遅れで、ようやく理解する。
フィンのスマホに書かれていた「VIP」の文字。
――それは、元妻のジョディのことだった。
(VIPとか変な書き方せずに、普通に“元妻”って書いておけよ。
……まぁ、俺にとっての早苗もVIPみたいなもんかもしれないが。
それにしても、どういうつもりで別れた妻とサーフィンするんだよ)
離婚などしたことのない謙一郎には、元妻との距離感が分からない。
「やぁ。久しぶり。元気だったか?」
口が勝手に動いた。
英語は問題ない。問題は中身だ。
この男は、どう振る舞えば正解なんだ。
とにかく、俺の中の“陽気な男”を引っ張り出すしかない。
陽気な男は、さっさと波に乗るだろう。
「さて、さっそく波、いくか?」
気まずさを誤魔化すように最大の笑顔を作り、
謙一郎はサーフボードを指差した。
「今日はいい波よ。あなた、最近忙しそうだったから」
……最近どころか、昨日からだ。
そのツッコミは心の中だけにとどめた。
ウェットスーツに着替え、ボードを抱えて海へ向かう。
知識はある。だが、身体は脳内イメージ通りに動かない。
まずはパドリング。
ボードが走り出す感覚をつかみ、
タイミングを見て一気に立ち上が――れなかった。
情けない声を出し、そのまま海に飲み込まれる。
ジョディは息をするようにテイクオフしていた。
こちらは、たまたま失敗した風を装いつつ、もう一度トライ。
……失敗。
頭では分かっているのに、身体がまったくついてこない。
「フィン、テイクオフを何度も失敗するなんて、どうしたの?」
ジョディが不思議そうに声をかけてくる。
日本、それも海なし県で生まれ育った人間が、
知識だけで突然サーフィンできるようになるわけがなかった。
「ハハハ。今日は、なんだか波との相性が悪いみたいだ」
必死に取り繕う。
「やっぱり仕事が忙しいのね。
無理して私とサーフィンしなくていいのよ。
あなたはいつもそう。全部自分で決めて、全部一人でやって……」
言葉な端々に不穏な空気を感じ取るが、
海水が容赦なく口と鼻を塞ぎ、返す余裕がなかった。
もう一度トライしたが、結果は同じだった。
「今日はやめておきましょう。体調悪いんじゃない?」
「……そうだな。今日はこのへんで一旦やめておこう」
助かった。
これ以上やったら、本当に溺れる。
内心ほっとしながら、海岸へ戻る。
波打ち際まで来たとき、ジョディがこちらをじっと見つめてきた。
「どうかした?」
「……いや。ほら、あのことなんだけど」
「あぁ、あのことか。どうした?」
(やばい。“あのこと”って何だ。全然分からないぞ)
「やっぱり無理よ。」
(なんだなんだ?!何が無理なんだ?)
「――いまさら、あなたとよりを戻すなんてできないわ」
Oh my god。
そんな話になっていたのか。
生粋の日本人のはずなのに、心の中で思わず英語が漏れた。
なぜか、この男の記憶は重要な部分だけ抜け落ちている。
と、とにかく返事を。
「あぁ……そうか。分かった」
「……はあ。やっぱり、あなたはいつもそうね。
少しも揺らがない」
落胆した顔がみえた。
返答を、間違えた気がした。
心の中は揺らぎまくっていたが、
フィンを演じることに必死で、それを外に出せなかった。
もう取り返しはつかない。
俺の返事で、よりを戻す可能性を潰してしまったのかもしれない。
ついさっきまでは、海で溺れかけていた。
今は、この気まずい空気に、静かに溺れている......。




