終幕
海の匂いがこの澄み切った世界を満たす。
空は青かった。
まるで、何も無かったかのように振舞っていた。
裸足でこの道を歩く。
波の音に混じって、砂を踏みしめる自身の足音が聞こえてくる。
海は無口だ。
怒っているわけでもなく、喜んでいるわけでもなく、ただ淡々と、決められた動きを繰り返している。
「平和すぎるのも悪くないな……」
もう誰もいなくなってしまったこの空に──────。
風にかき消されてこの世から消えた声も、誰にも聞かれずに消えてしまって可哀想だ。
振り返る。
そこはかつての友人たちが俺を待っていてくれた場所だ。
いや、正確には――だった。
人がいた形跡は全て消え失せていた。
この静かな世界には何も無い。
人の姿はない。
動くものもない。
聞こえるのは、波の音と、自分の足音だけ。
「みんな、あの世で楽しくやってんのかな……」
そう言った瞬間、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
あいつらなら、あの世に俺がいなくとも……。
泣くこともできないし、笑うこともできない。
感情を抱いても、もう誰にも反応されない。
――ゼヴェル。
その名前を、心の中で呼ぶ。
返事はない。
もう、聞こえない。
あの時は、うっとおしいと感じていたほどだったのに。
「……静かになったな」
初めて会った日のことを、ふと思い出す。
あの坂道。
春の匂い。
透明な声。
名前も知らないまま、すれ違った新入生。
もし、あのとき。
もし、あのとき引き止めていたら。
もし、違う言葉をかけていたら。
もし、逃げていたら。
いくつも「もし」が浮かんでは、消える。
意味がないと分かっているのに。
波打ち際まで来ると、冷たい水が足首に触れた。
「……冷てぇ」
この感覚をあの頃に覚えていたかった。
もう、いない。
誰も。
……。
全部。
全部、俺が終わらせた。
「自業自得、だよな……」
誰もいない空に問いかける。
答えはない。
でも、分かっている。
後悔はしている。
ずっと。
消えないくらい。
でも、選んだ。
俺自身が。
世界よりも。
人よりも。
神よりも。
――俺は、俺を選んだ。
そして、その結果がこれだ。
俺は、砂浜に腰を下ろす。
湿った砂が、ズボンに染みてくる。
少し不快に感じるのは、あのころの名残だろうか。
今さら、汚れたところでどうでもいい。
空を見上げる。
星も、月も、見えない。
「……なあ、ゼヴェル」
「お前はこれでよかったのか?」
返事はない。
でも、一瞬だけ。
胸の奥が、かすかに熱くなった気がした。
気のせいかもしれない。
きっと、そうだ。
立ち上がる。
また歩き出す。
どこへ行くわけでもない。
目的もない。
終わった世界を、ただ歩くだけ。
それが、今の俺の全部だ。
遠くで、波が砕ける。
白い飛沫が、宙に舞う。
光を失った世界でも、海だけは、変わらない。
「……皮肉だな」
人も、街も、神も、消えたのに。
自然だけが、生き残っている。
俺は、ふと、胸に手を当てる。
そこには、もう何もいない。
はずだった。
なのに――
微かに、鼓動とは違う、何かを感じる。
ドクン。
ドクン。
心臓よりも、少し遅いリズム。
「……まだ、いるのかよ」
消えていない。
ゼヴェルは、俺の中に、欠片として残っている。
記憶として。
罪として。
呪いとして。
そして――
救いとして。
「……厄介だな、お前」
波打ち際に立つ。
水が、膝まで来る。
冷たい。
でも、嫌じゃない。
この冷たさが、俺を現実につなぎとめている。
「もう少しだけ……歩くか」
誰に許可を取るでもなく、そう決める。
生きている限り。
歩ける限り。
俺は、この世界を見届ける。
滅んだ世界の、最後の証人として。
そして、いつか。
本当に、何もなくなったとき。
そのときは――
きっと。
ようやく、終われる。
俺は、波の音に包まれながら、静かに前へ進んでいった。




