5)のに、旦那様が「離縁したくない」と言いました
「お願いだから、顔を見せてほしい。嫌いな男の顔など、見たくはないと思うが」
びっくりして返事をできないでいると、拒絶ととったらしい旦那様が弱弱しく言いました。常にない口調に少しだけ扉を開けると、憔悴しきった旦那様が立っていました。
いつもきっちりと整えていて、穏やかな春の木漏れ日のような旦那様が一体、どうしてしまったのでしょうか。
これは彼にも『あたたかいものとあまいもの、それからなんでも話せるしんゆう』が必要なのではないでしょうか。わたしが何でも話せるしんゆうではないところは目をつぶっていただいて。
わたしは部屋のソファーに彼を招き入れて、温かい紅茶を淹れました。ふわりとたつ香りが、突然の旦那様の登場に驚いてドキドキしているわたしの気持ちまで落ち着けてくれます。
「どうして、突然離縁などと?何か不満でもあったのか。貴女の願いなら何でも叶える。私のことを愛する必要などないから…だから、考え直してくれないか。貴女が邸にいてくれるなら、貴女の恋人を招くことも…認め…っ…る」
わたしの両手を握り悲痛な表情で、いつもより早口な旦那様の言葉が頭に入ってきません。妻の愛人を邸に招くなど、旦那様の名誉にかかわる問題です。そうまでして婚姻関係を続けなければならない理由は、彼の想い人にあるのでしょうか。そうでなくとも招くような恋人などいないのに、誰を招いたらいいのでしょうか。
どこから返事をしたらいいのか困惑していたわたしの代わりに、可愛らしい声が毅然と響きました。
「メイの恋人をみとめるから、ご自身の恋人もみとめろというのですか!なんて、みがってなこと!メイにたいして失礼すぎます!お兄さま、みそこないましたわ!メイ、さっさと離縁して、ユリウスさまが迎えにきてくださるのを待ちましょう!」
旦那様の憔悴しきった様子に驚いてすっかり忘れていましたが、この部屋ではシャルが寝ていたのでした。きっとわたし達の話し声で起きてしまったのでしょう。
「メイの恋人など…っ認めたいわけないだろう…待て、ユリウスとは誰だ!メイの交友関係にそんな名前の男はいないはずだ!」
さすが旦那様。わたしの交友関係までしっかりと把握されていたのですね。因みにユリウス様はシャルのお気に入りの小説の中のヒーローです。『ちょっと腹黒だけど、ヒロインだけに優しいところが秀逸な殿方』とのことです。
「まぁぁあ!ご自身は恋人がいながら、妻の恋人はみとめたくないと!わが兄ながら見損ないましたわ!」
普段は淑女なシャルも12歳年上のお兄さまの前では、年相応に盛り上がるのねとほっこりしましたが、「私に恋人などいない。何の話だ!私は昔からメイの事しか考えていない!」という旦那様の叫びに「なんと!」と淑女らしからぬ声をあげてしまいました。
「うそおっしゃい!わたくし、お茶会にいくたびにいろいろな方からききますのよ!お兄さまには、"ねつれつに想う方がいて、その方にくびったけ"なのだと。おかあさまも、おっしゃっていたわ。あんなに想える方がいてしあわせねって」
わたしの淑女らしからぬ叫びは、ヒートアップした兄妹喧嘩にかき消されて気が付かれなかったようです。よかった。
「だから!その私が熱烈に想っていてくびったけなのが、メイなのだ!ああもう、どうしてそんな勘違いを!…シャル、まさかと思うが…その勘違いと思い込みに塗れた与太話をメイに?」
いつもの穏やかな旦那様も素敵だけれど、少し感情的な旦那様も素敵。そんな風に思っていた旦那様から、聞いたことのないほど低くうなるような声が出ました。シャルもさすがに恐ろしいようで、目に涙をたたえてぷるぷると震えています。
「で、でも!ヒロインを溺愛するヒーローなら、もっとべたべた甘いもの!お兄さまからそんな雰囲気かんじたことがないわ!それに…それに!メイからのおくりものを身につけたことも使ったこともないのでしょう?あまつさえ、メイからのおくりものの花束を、のろわれているなどと!」
怯えながらもわたしの為に頑張ってくれるの姿が愛しくて、シャルを抱きしめました。「もういいの、シャル、わたしの為にありがとう」
優しいシャルの心遣いが嬉しくて、少し涙も出ました。
しかし美少女を抱きしめていたわたしは、気が付くと旦那様に抱きしめられていました。
「メイからの贈り物を使えるわけがないだろう!」
ああ、やはり贈り物を使うのも不愉快なほど嫌われているのですね。抱きしめられたと思ったこの体勢も、妹からわたしを離すための拘束だったのですね。そう思うと確かに、抱擁というには力が強く苦しいです。
「大変ごめいわくをー、」
「使ったら傷がつくことも、劣化することも、破損することもあるだろう!!貴重なメイからの贈り物だぞ!!大切に大切にしまってあるのだ!!」
いらぬものを贈ってしまったという謝罪の言葉はすぐに遮られました。
「旦那様…では、結婚初夜に『愛さなくてもいい』とおっしゃったのは…」
「私は貴女を愛して、強引に婚姻を結んだ。ただ、あくまで一方的な想いなのだし、貴女と結婚して共に暮らしているだけで幸せなのだ。その上愛してもらおうなどと厚かましいことは考えていないから、貴女は私のことは気にせずに健やか過ごしてくれたらいいと思っていたんだよ」
あらまあ、あの言葉は「貴女は私を愛さなくていいからね(、私は貴女といるだけで幸せなのだから)」ということだったのですね。
なんていうことでしょう!
わたしは結婚当初どころか、結婚前から大変愛されていたようです。
それならば、とわたしはそっと旦那様、いいえ、ウィル様の拘束から逃れて、その手を握りました。
一瞬捨てられた子犬のような表情になった彼に、わたしは最高の笑顔で微笑みました。
「ウィル様、わたしはあなたに愛されて幸せですわ!何故なら、わたしもあなたのことを愛していて、あなたの微笑みを見れたらとても幸せな気持ちになるのですもの!」
その瞬間、再度きつく抱きしめられたわたしはきっと、愛している旦那様にとても愛されている、真実幸せな妻となったのでした。
「使えなくなってしまったらまたお贈りしますますので、贈ったものは使っていただけたら嬉しく思います」という要望には、「善処するね」とのお返事がありましたが、やはりなかなか使っていただけないのでした。