9 二度目の吸血
シュエシは領主の花嫁になった。元々花嫁として屋敷に来たのだから、いまさら「花嫁になった」というのはおかしいかもしれない。しかし領主から直々に「おまえを花嫁にする」と言われると気持ちも違ってくる。たとえ相手が化け物であってもかまわない。そう思うくらいシュエシは美しい領主に鮮烈なまでの想いを寄せていた。
(でも、花嫁っていったい何をすればいいんだろう)
窓の外をぼんやりと眺めながらあれこれ考える。
土地のまとめ人からは「領主様には絶対に逆らわないこと」と言われた。「何を言われてもそのとおりにすること」とも言われたが、それ以外何をすればいいか教わらないままここに来た。そもそも血を舐めろと言われて以来、何かを命じられることはない。ここ数日は領主の姿さえ見ていなかった。
(花嫁がやることってなんだろう)
身近にいた花嫁は母親しかいない。しかし東の国と西の地ではやることが違うはずだ。それに領主は人ではない。人の花嫁とは違う役割があるのかもしれない。
(ヴァイルさまのためならなんでもしたい)
好きな人のためならなんでもしたい。こうしてそばにいることを許してもらったのだから、それに見合うだけの役目を果たしたい。
(ヴァイルさまが僕にさせたいもの……)
想像してみたものの、美しい姿を思い出すだけで顔が熱くなり考えることが難しくなる。それでもと必死に思いを巡らせた。
(ヴァイルさまは化け物……だから、普通のことをしても駄目かもしれない)
領主が口にした「吸血鬼」という言葉を思い出したが知らない言葉だ。だから何をすれば喜ぶ化け物かがわからない。
(そういえば……)
不意に、母親が寝物語に聞かせてくれた東の国の物語を思い出した。何度も聞いた話に似たような存在が出てきたが、あの化け物も吸血鬼と同じように血をすする化け物だった。
その化け物は、はじめは悪人を殺め血をすするという鬼のごとき神だった。神は人を救うためにたくさんの悪人を殺めた。しかし殺めすぎたため我を失ってしまい、見境なく人を襲うようになった。血にまみれた姿はすでに神ではなく、人々はその神を恐ろしい悪鬼である夜叉と呼ぶようになった。
夜叉はその後も人を殺め続けた。このままではすべての人が命を奪われてしまう。そう考えた人々は、血のように真っ赤な果実を人の代わりだと言って捧げるようになった。その実は外も中も真っ赤で、かじれば血のように真っ赤な汁を滴らせる実だった。血を求め暴れていた夜叉も、その実を口にすると穏やかになったのだという。
『それでも夜叉は血の臭いを忘れることができないの。だから人々は果実を捧げ続けなくてはいけないのよ』
そう言いながら母親が赤い果実を口に入れる。自分も話を聞きながら赤い実を口にした。「おいしいわね」と微笑む母親に「うん」と頷きながら、もう一口と皿に手を伸ばす。ふと、果実を掴もうとしている指に真っ赤な汁がべったりと付いているのが目に入った。それはまるで――。
不意に背中をぞくりとしたものが走り抜けた。記憶の中の手を思い出し、慌てて自分の指を見る。そこに何も付いていないことにホッとした。
(あれはただの物語で、あのとき食べていたのも物語に出てきた果実じゃない)
それなのに指に付いた赤色がやけに鮮明に蘇る。同時に母親の髪のことも思い出した。夜叉の話をするとき、母親の黒髪にはいつも紅色に艶めいていた。まるで果実の汁を垂らしたような色合いで、シュエシはいつもため息をつきながらうっとりと見ていた。
「おまえの髪は時を選ばず色を変えるのか」
「!」
低い声にパッと振り返る。いつの間にか貴族然とした美しい領主がすぐそばに立っていた。シュエシはすぐさま椅子から立ち上がった。そうして頭を下げようとしたが、それより先に領主が言葉を続ける。
「闇夜のような黒髪もいいが、こうして紅色が混ざるのも悪くない」
「領主、様」
黄金色の瞳がじっと髪の毛を見ている。
「おまえの髪は本当に血石のように美しく輝くな」
指摘され、肩を隠すまで伸びた黒髪を指先で摘んだ。しかし見ることができる範囲にそうした色は見当たらない。
「血のように赤い血石は昔から我らが好む宝石だ」
「血のように赤い」と言われ、再び母親の髪が脳裏をよぎる。何度も見た母親の髪は、そうした宝石に例えられるような輝きを放っていた。シュエシはそんな母親の髪が大好きだった。しかし、紅色が混ざる髪を見る父親の目はなぜかいつも悲しそうだったことを思い出す。
「屋敷を出て行くこともできるというのに、おまえはなぜそうしない?」
突然の問いかけに「え?」と戸惑いながら領主を見た。「扉に鍵はかけていない。知っているだろう?」と告げられ、戸惑いながらも小さく頷く。
(たしかに鍵はかかっていなかった)
三日前、シュエシは思い切って扉の取っ手に手をかけた。いつまで放置されるのか不安になり、それなら直接尋ねてみようと思ってのことだった。
扉は簡単に開いた。しかし廊下には出なかった。いま部屋を出れば二度と領主に会えなくなるような気がして、結局こうして部屋の中だけで過ごしている。それでもシュエシに不自由はない。いつの間にか食事や水が用意され、夜になると湯も用意されている。そこに執事の姿がないだけで以前と何も変わらない生活を送っていた。
「屋敷を出ても、僕には……帰るところがありません」
シュエシの言葉に美しい顔が表情を変えることはない。
「それに僕は、領主様の、は、花嫁ですから」
花嫁という言葉を口にするのは気恥ずかしい。同時にうれしいやら誇らしいやら様々な気持ちがシュエシの中に渦巻いた。
「化け物の花嫁になったというのに、うれしいと言うのか」
「は、はい」
「おかしな奴だな」
「僕は、領主様のそばにいられるだけで、その、うれしいのです」
黒目がそろりと領主を見上げる。窺うようにしていた黒目が次第に熱を帯び始めた。おどおどしていた表情がとろりと蕩け、恍惚とした眼差しで領主を見つめる。
「僕はあなたが好きです。あなたのためならどんなことでもします」
表情の変化に黄金色の瞳がわずかに細くなった。
「いったいおまえには何の力が働いているというのだ? こうして我が力を抑えていても魅了されたような顔をする。意味がわからん」
領主の手がシュエシの顎にかかる。そうしてクイッと持ち上げ黒目を覗き込むように顔を近づけた。途端に蕩けていた瞳がハッと見開いた。近づく美しい顔に頬を赤らめ、戸惑うように視線をうろうろとさまよわせる。
「そうかと思えばこうしてすぐに元に戻る。理由はわからんが、興味深くはある」
見下ろしていた領主の顔がさらに近づいた。息を呑むシュエシの首筋に鼻先を近づけた領主がクンと嗅ぐような仕草を見せる。
「それにこの香り……この香りには抗うことが難しい。こうして嗅ぐだけで喉が渇く」
「あの、」
喉をさらけ出すように顎を持ち上げられた。戸惑うシュエシをよそに、顕わになった首筋に冷たい唇が触れる。
「んっ」
思わず漏れた声にますます顔を赤らめた次の瞬間、肌に硬く冷たいものが触れるのがわかった。「もしかして」とシュエシが目を見開く。
あのときもこうして硬いものが肌に触れ、直後に激痛が走った。そのときの痛みを思い出して体が強張る。それでもシュエシは大人しく首をさらし続けた。体が震えるのが恐怖のせいか興奮のためかわからなくなっていく。
「……っ」
肌に触れていた硬いものが肌をつぷりと貫いた。
「ん!」
最初に感じたのは鋭い痛みだった。反射的に目の前の体を押しのけようと腕を持ち上げたが、そのまま胸元を掴んで動きを止める。さらに深く噛みつかれたシュエシが眉を寄せたのは一瞬で、すぐに痛みではない感覚に襲われた。
「ぁ、ぁ、ぁっ」
体の芯を突き抜けたのはまぎれもない快感だった。初めて血をすすられたときの強烈な快感が再びシュエシを包み込む。首筋で生まれた快感は背中を震わせ下腹部を刺激した。首から頭へと向かった快感が視界をパチパチと弾けさせ、口から甘い悲鳴をこぼれさせる。
気がついたときには縋るように領主の腕を掴んでいた。ガクガクと震えていた足から力が抜け、目の前の体にもたれかかる。そうして下腹部が領主の太ももに触れた瞬間、腰がブルッと震えた。下着が濡れ、ドレスの下腹部が色を濃くする。
「香りも味も申し分ない。……いや、これほどの味はほかには……」
耳に吐息が触れているのに、言葉はどこか遠くから聞こえるような気がする。快感と多幸感に包まれながら、シュエシは暗闇に落ちるようにゆっくりと意識を手放した。