8 領主の正体
次に目が覚めたとき、シュエシはベッドの上にいた。「いつの間にベッドに……?」と思いながらゆっくりと体を起こす。
「……動いた」
あれほど動かなかったのが嘘のように起き上がることができた。それに漏れ出た声も掠れていない。両手をゆっくりと持ち上げ、左手で右手の袖をまくり上げる。少し赤紫になっている部分はあるものの触れても痛みは感じない。掛布を剥いで寝衣の裾をめくってみた。右膝のすぐ下あたりが痛々しいほどの濃い紫色になっているがこちらも痛みは感じない。
(……ヴァイルさまが治してくれた)
床の上で動けなくなっていた自分を助けてくれた。どうやって治したのかわからないが、手ずから治療してくれたことがうれしくて顔がほころぶ。
「何を笑っている?」
「っ」
聞こえてきた声にハッとした。声がしたほうを見ると、窓際に領主が立っている。窓の外が薄暗いということは夜が近いのだろう。
治療してもらったのは、たしか朝だった。そう思ったものの本当に朝だったかわからない。昼だったかもしれないが、日の光が眩しかったのは間違いない。それがこうして薄暗くなっているということは随分寝てしまったということだ。
(どのくらい寝ていたんだろう)
日にちを数えることをしなくなったときから時間の感覚も覚束なくなっていた。最後に領主に会ってどのくらい経ったのか、そもそも執事が領主だとわかってから何日経ったのかもはっきりしない。
(いつから僕を見ていたんだろう)
わずかに残る夕日に照らされた銀の髪がキラキラ光っている。もしかしてずっと窓際に立っていたのだろうか。
(……そんなわけないか)
目を伏せながら自分の考えを否定した。きっと様子を見に来ただけで、たまたまそのとき自分が目を覚ましただけだろう。
ややふらつく体でベッドから下りると、床に座り頭を下げた。東の国ではこうすることが最上の敬意の表し方だと母親に教わったからだ。床に額がつくほど頭を下げながら、深く息を吸ってから口を開く。
「ありがとうございました」
よかった、ちゃんと声が出た。ホッとしながら頭を上げた。
「なぜ感謝する?」
「それは……腕と足を、治してもらったので……」
「それはおまえの運がよかっただけだ」
「運が……?」
どういう意味だろうか。尋ねようと口を開きかけたものの話してもよいのかわからず床に視線を落とす。
「体も動くようになったようだな」
「……もしかして、ほかにも何か治療を……?」
「あれからまた少し血を分け与えただけだ」
「……え?」
いま、「血」と言っただろうか。驚いて領主の顔を見るが、やはり聞き返すことはできない。
「一度ならず二度までも受け入れることができるとはな。多少なりと驚いている」
黄金色の瞳がじっとこちらを見ている。遠慮がちに「どういう……」とつぶやくと、美しい唇がゆっくりと開いた。
「わたしの血を口にしたおまえは、こうして傷が癒えるだけでなく体力までも回復した。運がよかったということかもしれないが、二度もとなると運だけとは言い切れない」
「わたしの血」という言葉に、口に指を突っ込まれたときのことを思い出した。そういえば指の腹に赤いものが見えたが、あれが血だったのだろう。
「血、というのは……」
あのとき、なんともいえない芳しいものを感じた。舌が痺れたような感覚もあった。あれは血の香りでも味でもない。
(まるで甘い蜜のような……)
そう思った自分にゾッとした。青ざめながら右腕に残る赤紫の痣を見た。もし本当に血を口にしたおかげで治ったのだとしたら、まるで化け物のようではないか。「化け物」という言葉にハッとし、領主の顔を見る。
「わたしの血を、おまえは二度口にした」
「領主様の、血」
「本来、我らの血は人にとって毒だ」
「毒、」
シュエシの顔から血の気が引く。
「しかし同胞にとっては薬となる。その血を口にしたおまえの傷は癒えた。なんとも興味深いだろう?」
青ざめた顔で再び右腕を見た。ゆっくり手を閉じたり開いたりしてみるが、痺れやおかしな感覚はない。毒を口にしたにしては目が覚める前より体が軽く、倦怠感やぼぅっとした感覚もなくなっていた。
「……毒を口にしたのに平気ということは、僕は……人ではない、ということでしょうか」
領主の返事はない。それが答えなのだろうか。シュエシの背中を冷たいものが流れ落ちる。
「さぁな、わたしにもわからん。だが、そういうおまえだから興味を持った」
「興味……」
「そして花嫁にふさわしいと判断した」
「は……はな、よめ」
花嫁という言葉にシュエシの意識がぴたりと止まった。何を言われたのか理解できず、呆然と領主を見つめる。
「もともとおまえは花嫁としてやって来たのだろう? いまさら何を驚く必要がある?」
「そ、そう、ですけど」
たしかにここには花嫁としてやって来た。しかしそれは土地の娘の身代わりであって、男である自分は花嫁にはなれない。
「おまえの血は極上の味がした。東の国の者は濃厚な香りと芳醇な味をしているというが、おまえはその中でも最上といってもいい。ビロードのような舌触りもよかった」
「極上の、味……僕の血を、いつ……」
「なんだ、覚えていないのか?」
領主がゆっくりと近づいて来る。床に座ったまま見上げるシュエシの前で立ち止まると、腰を少しかがめながら手を伸ばした。そうして寝衣から覗く首筋を指先でするりと撫でる。
「ここを噛まれ、血をすすられただろう?」
美しい顔が艶然と微笑んだ。これまで何度も見惚れてきた顔だというのになぜか背筋がゾクッと震え、腹の奥がヒュッと冷たくなる。
「領、主様は、どなた様なのですか?」
問いかけながらシュエシの背中を冷たい汗が流れ落ちる。顔は青ざめ、唇も色をなくしていた。
「土地の者たちは何と言っている?」
「……化け物、だと……」
冷たく見下ろす黄金色の瞳がきらりと光った。
「なるほど、間違いではないな」
首筋に触れていた指がシュエシの顎を掴んだ。顔を強張らせるシュエシを領主が冷たく見下ろす。
「西の国では吸血鬼と呼ばれている」
「きゅう、けつき、」
「生き血をすする化け物の名だ。わたしからすれば人のほうがよほど化け物だと思うが、まぁ見解の違いは仕方あるまい」
噂話の中に花嫁を喰らう化け物の話があった。あれは噂ではなく本当だったということだ。
「なんだ、恐ろしいか?」
唇がブルブルと震えていることに気づいたのだろう。冷たく見下ろす領主の顔はあまりに美しく彫像のようだ。だが、その完璧な美しさこそが化け物だという証にも見える。シュエシのうなじを冷たい脂汗がツーッと流れ落ちた。
(生き血をすするなんて恐ろしい……恐ろしいけれど、それでも僕は……)
恐怖に青ざめていたシュエシの頬がわずかに赤みを取り戻した。怯えていた瞳は少しずつ蕩けたように緩み、次第に以前と同じような恍惚とした表情に変わる。
(恐ろしいとは思うけれど、それでも僕はヴァイルさまが好きだ)
たとえ化け物だったとしてもかまわない。シュエシの中で恐れと歓喜が入り混じるような奇妙な感情が渦巻いた。
「化け物の花嫁になるのは恐ろしいか?」
薄暗い中で光る黄金色の瞳はまさに化け物のようだ。それでもシュエシは「いいえ」と答えた。
「生き血をすする化け物だというのに恐ろしくないのか?」
頭の芯を振るわせる低く艶やかな声に目尻が熱くなる。
「恐ろしい……とは思いました。それでも僕は……」
とろりと蕩けた黒目が美しい領主の顔をじっと見る。感情の中に混じっていたはずの恐怖はすっかり消えてなくなり、代わりに体の奥から愛しいという気持ちだけが沸々とわき上がっていた。
「僕はあなたが好きです。化け物でも、そうでなくても、あなただから好きなのです」
静かな、それでいて熱烈な告白を聞いた領主の眉がわずかに寄った。
「魅了はしていないはずだが……」
「みりょう……?」
「おまえは化け物でも好きだと、そう言うのか?」
「はい」
訝しむような領主の表情を気にすることなく、シュエシはうっとりとそう答えた。
「僕はあなたが好きです。初めて見たときからずっと、僕はあなたの、ことが……その、好きで……」
恍惚としていたシュエシの表情から段々と熱っぽさが薄れていく。言葉が止まるのと同時にハタと我に返ったような顔になった。自分がとんでもないことを口走ってしまったことに気づき、オロオロとした様子を見せる。先ほどまでとはあまりに違う様子に「やはり興味深い」と領主がつぶやいた。
「あの、」
「舐めろ」
「え……?」
目の前に突き出されたのは領主の指だった。指の腹には血が滲んでいるが、もしかしてこれを舐めろと言うのだろうか。思わず顔を背けようとしたシュエシだったが、顎を掴まれたままではそれもできない。かといって舐めることもためらわれた。
(だって、これは毒だ)
たったいまそう聞かされたばかりだ。それをなぜ舐めろと言うのだろうか。
(……もしかして試されているのだろうか)
化け物だと聞いても好きだと言い続ける自分を疑っているのかもしれない。シュエシの眉尻が少しずつ下がっていく。試されるのはかまわないが、気持ちを疑われているのが悲しくて胸がギュッと切なくなる。
(どうせ一度は失ったと思った命だ。ここで死んでもかまわない)
代わりに自分の想いが本物だと知ってもらえるなら、それでいい。目の前の指にゆっくりと顔を近づけた。血が滲む指の腹に唇を寄せ、そっと舌を伸ばす。
最初に感じたのは冷たい肌の感触だった。あまりの冷たさに咄嗟に舌を引っ込めたものの、すぐにもう一度伸ばして滲む鮮血を舐め取る。すぐに痺れるような感覚が舌に広がった。東の国でよく食べられている香辛料にも似た刺激的な感覚を思い出す。ところが痺れはすぐに甘さに変わり、なんともいえない甘い香りがすぅっと鼻から抜けていった。
舐め取った血は、まるで血とは思えない味わいだった。鉄臭いことはなく、しかもねっとりとした甘さに喉がひりつく。あふれる唾液とともに飲み込むと、胃のあたりがカッと熱くなった。熱はすぐに全身に広がり、手足の先までもじんわりと温かくなる。
「まさか毒だと説明してもなおわたしの血を口にするとはな」
低い声が耳に心地いい。
「おまえのような存在は初めてだ。人のくせに人とは違うところが興味深い。なによりおまえの血はわたしを十分満足させてくれる。これからわたしにその血を捧げ続けよ」
シュエシの意識があったのはそこまでだった。気がついたときには再びベッドで寝ていて、部屋にいたはずの美しい領主はどこにもなかった。