6 シュエシの願い
扉のほうに視線を向けたものの、視界がぼんやりしてよく見えない。これまで部屋に来たのは執事だけだった。ということはあの人だろうか。
(もしそうなら、ちゃんと謝らないと……)
そう考えたシュエシだが、はたして領主が部屋にやって来るだろうかということに気がついた。
(怒っていたのに部屋に来るはずがない……もしかして、水差しを交換しに来た人……?)
しかし、これまで執事以外の人を見たことが一度もない。さすがにこれだけ大きな屋敷に領主一人で住んでいるとは思えないが、そう考えてしまうほど人の気配を感じなかった。
(でも、水差しの水は交換されていた)
やはり使用人がいるのだろう。せめてお礼だけでも言いたいと思ったものの、口から漏れ出たのは掠れた吐息だけだった。それなら頭を下げるだけでもと起き上がろうとしたが、体のどこにも力が入らない。それどころか右側全体が動かないことにようやく気がついた。左足はかろうじて少し動くようだが、つられて右足が少し動くだけで激痛が走り呻き声が漏れてしまう。
「おまえは床で寝るのか?」
聞こえて来た声にハッとした。なんとか視線を向けると、頭から数歩離れたところに綺麗に磨かれた革靴が見える。
(領主様の靴だ)
あの日見た靴に似ている。かろうじて見えたズボンの裾は上等な布で、そのまま足、腰、胸、顔へと視線を移した。
(……あぁ、やっぱりとても綺麗だ)
かすんでいたのが嘘のように美しい顔がはっきりと見えた。久しぶりに見る想い人の顔は記憶の中よりずっとまぶしい。銀の髪は日差しを受けてキラキラ光り、黄金色の瞳も日の光以上に輝いていた。白い肌も艶やかな唇も執事のときと同じように、いや、それ以上に美しく神々しささえ感じる。
「まだ生きていたとはな」
冷たい声に、見惚れていたシュエシの顔が強張った。
「人はなかなかしぶといものだな。食べる物がなくてもこうして生き続けるとは、さすがは強欲な生き物といったところか」
抑揚のない言葉に「あぁ、そうか」とシュエシは目を閉じた。領主は自分が死ぬことを望んでいるのだ。よその土地には自ら手を下す領主がいると聞いたことがあるが、この人は自分の手を汚したくないのだろう。そもそも騙すような者はのたれ死ぬくらいがちょうどいいと思っているのかもしれない。
(どうせ死ぬのなら……どうせなら……)
ここで失う命なら最後に一つくらい我が儘を口にしてもいいのではないだろうか。シュエシは唐突にそう思った。死ぬ間際なら一生に一度、最初で最後の我が儘を言うくらいは許されるに違いない。
水だけで生き長らえていた体はすでに限界に達していた。意識は朦朧とし再び目もかすんできている。音は聞こえるもののブーンという羽音のようなものが邪魔をした。つい先ほどまで立っていたのが嘘のように全身から力が抜けていく。
(そういえば、いつベッドから出たんだったかな)
ついさっきのような気もするが、本当はもっと前だった気もする。ここまで歩いてきたのがいつで、最後に水を飲んだのがいつかも思い出せなくなっていた。
「なるほど、水のおかげで生き延びたというわけか。うろうろしているとは思っていたが、同郷の姿に情でもわいたか」
羽音がうるさいなか、領主の声だけはやけにはっきり聞こえた。しかしこの声もすぐに聞こえなくなるに違いない。そう思ったシュエシは、早く望みを言わなければと口を開いた。
声を出そうとしたものの一度目は失敗してしまった。喉がカラカラでヒューと掠れた音しか出てこない。それでもなんとか唾液を飲み込み、もう一度口を開く。
「お、願いが、あります」
ようやく出た声はあまりにもか細いものだった。それでも声が届いたのか、絨毯を踏む足音が近づいてくる。
「この期に及んで願い事とは、人の欲とはすさまじいな」
冷たい声に侮蔑が混じっている。それでもシュエシは渇いた唇を動かし最後の願いを口にした。
「どうか、あ、なたの手で、殺し、て、くだ……」
言葉は最後まで続かなかった。途中から声が掠れてしまったため領主の耳に届いたかわからない。もう一度聞こえるように言わなくてはと口を開いたところで「おかしな奴だ」と低い声が返ってきた。
「このままでもおまえは死ぬ。それなのに、なぜわたしに殺してくれと言う?」
「あなた、が、」
声が詰まった。ヒューと壊れたふいごのような息が漏れ、カフカフと咳ともいえない空気の音がする。それでも言わなくてはと声を絞り出した。
「あな、たが、す、き、だか、ら」
「す」というところで空気が抜けてしまった。これでは大事なところが聞こえなかったに違いない。「どうしても聞いてほしい」と願うのは、やはり傲慢だろうか。
(でも、これが一生に一度の、最後の願いだから)
なんとか口を開き、もう一度と声を出した。
「あなたが、すき、だから」
だから殺してください。どうせ消える命なら、好きな人の手で消してほしい。心の中でそう続けた。
こんな自分に優しくしてくれた執事のことを、いつの間にかこれほど好きになってしまっていた。その人を自分は騙していた。申し訳なく思いながらも姿を見ればやはり好きな気持ちがあふれてしまう。それならいっそのこと好きな人の手にかかって死んでゆきたい。
生まれて初めて抱いた願いを口にすることができた。そのことに満足し、「ふぅ」と小さく息を吐きながら目を閉じる。
「好きだから殺してほしい、そう言うか」
冷たい領主の声が耳に響く。きっと愚かなやつだと思われたに違いない。このまま放置されて命を終えることになるのもわかっている。それでも口にせずにはいられなかった。生まれて初めてこんなに強い気持ちを抱いた。
(こんな僕の我が儘に付き合わせて、ごめんなさい)
死ぬ前に満足したいだなんて我が儘がすぎる。それでもどうしても言いたくて、そうできたことにシュエシの口元が満足げに笑った。
(最後にヴァイルさまの顔が見たい)
そう思ったものの、閉じた瞼を開くことができない。
「人とは死ぬ間際まで強欲ときたものだ。しかも死すら与えてほしいと願うとは、我らよりよほど化け物だな」
段々とひどくなる羽音のせいで声がうまく聞こえなかった。これが最後なのに、姿を見るどころか声さえも聞こえないのかとシュエシの目尻からツーッと涙が一筋流れ落ちる。
「くだらん」
かすかに絨毯を踏みしめる音が聞こえた。その音が段々離れていく。
(やっぱり駄目か)
それでもシュエシの心は晴れ晴れとしていた。最後に想いを伝えることができただけでいい。これで心置きなく天に召されることができる。
羽音が聞こえていたはずが、気がつけばザァザァと雨が降るような音に変わっている。本当に雨が降っているのか、それとも空耳なのかもうわからない。そのままシュエシの意識は少しずつ遠のいていった。