4 領主との対面
想いを寄せる人に触れられて乱れたことは、シュエシにとって残酷な記憶となった。
『奥様はとんだ淫乱でございますね』
執事の言葉を思い出すたびに胸が苦しくなる。呆れられるどころか嫌われたに違いない。領主の花嫁なのに執事に想いを寄せるいやらしい奴だと思われてしまった。
(それに、男だということも知られてしまった)
平らな胸に触れられた。股間の膨らみも見えていたはず。そのことを執事は領主に報告するだろうか。
(報告してもしなくても、明日が僕にとって最後の日だ)
売られるか命を取られるかはわからないが、明日がこの屋敷にいられる最後の日になるだろう。そして、執事に会うことは二度とない。
(これでよかったのかもしれない)
会えば未練が残る。あの美しい黄金色の瞳に蔑まされたらきっと耐えられない。それなら会わないままいなくなったほうがいい。ベッドの中であれこれ考えるシュエシは、涙が浮かぶ目を何度も擦った。そうこうしているうちに夜が明けてしまった。
まだ朝日が昇りきらない時間に起きたシュエシは、寝室の続きにある浴室でもう一度身を清めることにした。すっかり冷たくなった湯船に布を浸し、何度も何度も肌を拭う。そうして執事が起こしに来る前にドレスに着替えた。選んだのは露出が少ないふわっとしたドレスで、一見しただけでは男だとはわからない。
(……こんなことをしても無駄なのに)
それでも自分は花嫁だ。身代わりでしかなくても花嫁としてここに来たのだから、こうした格好をするのが役目だ。そう自分に言い聞かせながらドレスの胸元を整える。
(もしかしたら、そういう行為を求められるかもしれない)
これまでにも土地の者にそういう話を持ちかけられたことがあった。それでも未遂に終わったのは貧相すぎる体つきと薄汚れた格好だったからだ。
しかし領主のもとに来てから体つきが少しだけよくなった。毎日湯で体を拭っているからか肌も綺麗になった気がする。いまの姿なら男でも行為を求められるかもしれない。もしくは興味本位で脱げと言われるだろうか。いずれにしても領主に命じられれば拒むことはできない。
(もう、どうでもいい)
脱力するように体から力が抜けた。一晩中ベッドの中で考えた結果、シュエシが導き出したのは諦めることだった。
それなのに、ふとした瞬間に執事の顔が脳裏をよぎる。声を思い出し、触れられた指の感触を思い出しては胸が苦しくなった。冷たい手を思い出すだけで体が火照り、自分はこんなにもいやらしい奴だったのかと情けなくなった。
執事が起こしに来る時刻になった。どんな顔で迎えればいいかわからず緊張していたが、時間がきても執事は現れない。それでもベッドに腰掛けたまま待ち続けた。どこを見るともなく窓に視線を向けたままじっと座っていたが、日が高くなっても執事はやって来なかった。
寝室を出て居間に行った。テーブルの上に料理と紙が置いてあることに気がつく。紙には「朝食後に旦那様がいらっしゃいます」とだけ書かれていた。元は湯気を立てていたであろう朝食はすっかり冷めていたが、シュエシはいつもどおり椅子に座りスープを一口飲んだ。
(きっといつもどおりおいしい料理なんだろうけど……)
冷たいスープは味がしない。パンをちぎり一口食べたものの、こちらも味がしないように感じたからか半分も食べないうちに手が止まった。昨日までは朝起きれば空腹を感じていたのに、いまはそれも感じない。シュエシは屋敷に来てから初めて食事を残した。
その後はいつ領主がやって来るか気になって落ち着かなかった。残した食事を前に、ただじっと椅子に座り続ける。
(領主様はいったいどんな方なんだろう)
子どものときから様々な噂を耳にしてきた。醜男だという話もあれば眉目秀麗な貴族だという話もある。ここ数年でもっともよく聞いたのは、若い娘ばかりを喰らう化け物に違いないという噂だった。
もし醜男だったとしてもシュエシに思うところはない。化け物だったとしても何も思わないだろう。
(もし美しい貴族様だったら……)
シュエシの頭に浮かんだのは執事の顔だった。眉目秀麗な人というのは執事のような人のことを指す。最初に執事だと言われなければ彼こそが領主だと勘違いしたに違いない。そのくらい執事は美しく優雅で、シュエシの心を鷲づかみにして離さなかった。駄目だとわかっているのにこうして思い出し、それだけで顔も体も熱くなる。
シュエシは頭を何度か振り執事の姿を振り払おうとした。それでもうまくいかず、水を飲もうと水差しに手を伸ばす。そのときカチャリと扉が開く音がした。
(領主様だ)
執事なら扉を叩いて「失礼いたします」と声をかける。そうしないのは領主以外にあり得ない。
慌てて椅子から立ち上がり、扉のほうに体を向けて深々と頭を下げた。腰はできるだけ直角になるように曲げ、頭は声をかけられるまで上げてはいけない。そうするようにと教えてくれたのは土地のまとめ人だ。
ドアが締まる音がした。続けて絨毯と靴が擦れる音が聞こえてくる。近づいて来る足音がすぐそばで止まった。
(目の前に領主様がいらっしゃる)
緊張しながらも、シュエシは声をかけられるのをじっと待った。しかしいくら待っても何も聞こえてこない。さすがにおかしいと思い始めたとき、ふと甘い香りがしていることに気がついた。
(これは香油……?)
鼻をくすぐったのは、髪の手入れをするときに使っている香油によく似た香りだった。甘い薔薇の香りはシュエシもすっかり嗅ぎ慣れたものだったが、それよりも少しだけ濃いような気がする。クンと嗅いだ直後、両親と旅をしていたときに見た大輪の真っ赤な薔薇を思い出した。
薔薇は両親が生まれ育った東の国の街にも咲いていたそうだ。その頃から薔薇が好きだった母親は、祖国の薔薇よりも大きく真っ赤な異国の薔薇をこよなく愛していた。押し花にした真紅の薔薇の花びらを見ては「とても美しいでしょう?」と微笑む母親を思い出し、今年の命日に花を飾ることはできないのだと胸が痛む。
「今朝は随分と早くお目覚めだったようでございますね、奥様」
不意に聞こえて来た声にシュエシは「え?」と目を見開いた。聞き間違いかと思いながらそっと頭を上げる。そこには先ほどまで思い描いていた美しい執事が立っていた。
「おや、今朝の食事はお口に合いませんでしたか?」
テーブルを見た執事がそう口にする。
(ヴァイル様……だと思うけど……)
声は間違いなく執事だ。しかし着ている服がまったく違う。呆然とするシュエシに視線を向けることなく、執事であるはずの男がテーブルの奥にあるソファに座った。
(その格好はいったい……?)
これまで執事は上品ながら装飾がほとんど付いていない服を着ていた。ところがソファに座っている執事は見るからに貴族然とした格好をしている。服のあちこちに細かな刺繍が施され、胸元にはレースや宝石が飾られていた。足元のブーツにも美しい型押し模様があり、昨日までの装いとは何もかもが違っている。いつも結わえていた銀色の髪は長く伸ばしたままで、美しく白い指には指輪が光っていた。
目の前にいるのはどこから見ても貴族だった。いつもシュエシを優しく見ていた黄金色の瞳は冷たく光り、美しい顔はまるで別人のように表情がない。
(顔がそっくりだということは、もしかして兄弟とか……? いや、そんなことあるはずがない)
この世にこれほど美しい人が二人もいるとは思えなかった。やっぱり執事なのかと思ったものの雰囲気があまりにも違いすぎて確証が得られない。
(尋ねるわけにはいかない……よね)
もし領主なら自分から声をかけるわけにはいかない。土地のまとめ人に言われたとおり黙って言葉を待つものの、執事は一向に口を開こうとしなかった。
代わりに黄金色の瞳でじっとシュエシを見ていた。ソファに優雅に座り、肘置きに肘をついた手の甲に顎を載せながらじっと視線を向ける。観察するような眼差しに耐えられなくなったシュエシは静かに目を伏せ、震える手を必死に握り締めながら言葉を待った。
どのくらい時間が経っただろうか。ようやく執事が美しい唇を開いた。
「まずは弁明でも聞かせていただきましょうか」
「べん、めい……?」
どういうことかわからずシュエシが顔を上げると、黄金色の瞳がわずかに細くなる。
「娘を花嫁にと言ったはずですが、やって来たのはこうして若い男です。その理由を尋ねるのは当然だと思いますが?」
「それは……その……」
執事の声はひどく冷たい。丁寧な言葉遣いは同じだが、感情が読めない硬質な声にシュエシは体をぶるりと震わせた。
何か答えなければ、そう思った。しかし唇を開こうとすれば頬が強張り、喉が詰まったように声を出すことができない。表情を強張らせるシュエシに気づいた執事が「はぁ」とため息をついた。
「まぁ、いいでしょう。どうせ娘を差し出すのが嫌だとか、ちょうどよく身代わりがいたからだとか、そういったことでしょうからね」
「……」
「しかし、まさか異国の男を身代わりにするとは思いませんでしたよ。せめて出戻りの娘であれば見逃してもやれたでしょうに」
言葉は丁寧だが怒っている、シュエシにはそう感じられた。同時に「このままでは大変なことになる」とも思った。
(きっと土地の人たちは罰を与えられてしまう)
それは駄目だ。震える唇に力を入れ、しぼり出すように声を出した。
「ぼ、僕はどうなってもかまいません。と、土地の人たちは、どうか見逃してください。東の国の者は、た、高値で売れると聞いています。だ、だから、僕を売ってください」
必死に訴えるシュエシを黄金色の瞳が冷たく見つめる。
「売ってどうしようというのでしょう」
「う……売って、お金を……」
「さて、わたしはお金になど困ってはいません。広大な土地にこの屋敷、それにこうした宝石も余るほど持っています」
そう言いながら執事が右手を見せた。人差し指と小指には大小色とりどりの宝石が埋め込まれた指輪が煌めいている。
「も、もしかして、あなた様がりょ、領主様だったのですか?」
震える声で尋ねるシュエシに黄金色の瞳がスッと細くなった。
「堂々と身代わりを寄越してきたのですから、こちらも意趣返しをと思いましてね。東の国の者だから満足するだろうと思ったのでしょうが愚かな考えでしかありません」
「りょ、領主様のお気に召さないのなら、ど、どうか売ってください」
「それは必要ないと言ったでしょう? いまさら異国の男一人売ったくらいで得られるような端金に魅力は感じませんよ」
「で、でも」
「それとも、奥様には東の国の者だという以上に価値があるのでしょうか?」
それには口を閉じるしかなかった。シュエシが体以外に差し出せるものは何もない。優れた学を持つわけでもなく、楽器の演奏や踊りがうまいわけでもなかった。自分の唯一の価値は東の国の者だということだけで、それ以外で領主を喜ばせることはできない。それでも土地の者たちに恩を仇で返すわけにはいかないと目を閉じる。
(どうしよう……どうしたら……)
両手をギュッと握り必死に考えた。考えている最中も額に冷や汗が滲む。
(……僕にはなんの価値もない。わかっていたのに……)
それでもとグッと唇を噛んだとき、濃厚な薔薇の香りが鼻をかすめた。あまりにも蠱惑的な香りが気になり、そっと顔を上げる。ソファには自分を見ながら美しく笑っている執事、いや領主がいた。美しすぎる姿に、一瞬にして虜になってしまう。そんなシュエシを見ながら艶やかな唇がゆっくりと動いた。
「ほかにもあるでしょう? あなたにも差し出せるものが」
「ほ、ほかに……?」
どういうことだろう。ポカンとするシュエシに黄金色の瞳が一瞬だけ赤く光った。
「おまえ自身だ」
銀色の髪がふわりと揺れ、黄金色の瞳がギラリと閃いた。圧倒的な美しさと威厳にシュエシの体は凍りついたように硬直し、まるで縫い止められてしまったかのように視線が外せなくなる。
昨夜、髪の手入れをした白い人差し指がシュエシを指さした。その指がクイッと動くと、なぜか一歩、また一歩とシュエシの足が動き出す。慌てて踏みとどまろうとしたもののなぜか勝手に動き続ける。そのままソファの前に到着すると、今度は人差し指が床を指した。それにつられるようにシュエシの体から力が抜け、ぺたりと床に尻を着く。
「おまえからはよい香りがする。東の国の者は味がよいという話だが、香りもなかなかのものだ」
美しい顔がずいっと近づいた。鼻先が触れそうな距離に驚き、慌てて離れようとするが頭も体も動かすことができない。混乱している間に首の近くをクンと嗅がれ、耳元で「よい香りだ」と囁かれ体がカッと熱くなった。
耳たぶに冷たいものが触れた。指先にも似ているが、それより柔らかい気がする。何をされるのかわからず顔を強張らせていると、硬いものに摘まれたような感触に肩がビクッと震えた。
(いまのは、なに……?)
爪にしては何かが違うような気がする。それに摘まれる直前、吐息が触れたような気がした。そう思った瞬間、ハッとした。
(まさか、領主様に噛まれた……?)
シュエシの顔が真っ赤になった。羞恥や戸惑いに慌てて顔を離そうとするが、相変わらず体のどこも動いてくれない。それでも離れなければと絨毯に爪を立てるが、動いたのは指先だけだった。
「わたしから逃れられると思うか?」
「……っ」
耳に触れるものが吐息だとはっきりわかった。あまりに近いところで聞こえる声に背中がぞわっと粟立つ。
(ひ……)
冷たい指に首筋を撫でられ鳥肌が立った。昨夜までは快楽を感じていたはずが、いまは恐怖しかない。体の奥からせり上がってくるような恐怖心に、気がつけば絨毯を何度も爪で引っ掻いていた。
耳の縁に触れていた冷たい唇が耳たぶに触れたのがわかった。そのまま唇がゆっくりと首筋へとすべっていく。反対側の首筋は冷たい指先に撫でられたままで、シュエシはただただ体を震わせながら目を閉じた。
首筋に唇が押し当てられた。指先と同じくらい冷たく、しかし指よりも柔らかい。両親の死を思い起こさせるような冷たさに肌が震える。何をされるのかと怯えていると、肌に硬いものが触れるのがわかった。
ツプッ。
硬い何かが肌を貫いた。一瞬何が起きたかわからず「え?」と目を開いたものの、直後に激痛を感じ再び瞼をギュッと閉じた。
「ぃ……っ!」
鋭い何かが首筋に突き刺さっている。それがどんどん食い込み、肉を食い破ろうとしているように感じた。
「いたぃっ! やめ、やめて……っ!」
拒絶の言葉は無意識に出たものだった。ズクンとした強烈な痛みにシュエシの目尻から涙がこぼれ落ちる。ひゅうと喉が鳴り体が硬直した。無我夢中で首筋に触れているものを押しのけようとするが、うまく力が入らずどうにもできない。仰け反って逃れようとしたものの、床に仰向けに押し倒されることになっただけで痛みから逃れられることはできなかった。
(僕はこのまま死んでしまうに違いない)
目尻からポロポロと涙がこぼれ落ちる。段々と感覚がなくなってきたからか、痛みよりも熱を感じた。まるでそこに心臓があるかのようにドクドクと脈打っているような感覚になる。
気がつけば手足が痺れたようにジンジンしていた。頭も霞がかかったようにぼんやりし、甘い薔薇の香りも相まって少しずつ意識が遠のいていく。「やっぱり死ぬんだ」と体から力が抜けたとき、シュエシの背中を甘い痺れが駆け抜けた。
「ひぁ……!」
思わず上がった声は悲鳴ではなく嬌声だった。驚いたのはシュエシ自身で、ハッと目を見開き慌てて口を閉じる。しかし一度感じた快感は消えることなく次々と口から甘い吐息が漏れた。
首筋に感じるのは激痛や強烈な熱ではなく痺れるほどの快感だった。それが脳天を直撃し、涙で霞む目に星を瞬かせる。一方、背中を駆け下りた快感は腹の奥を痺れさせ腰がカッと熱くなった。
(き、もち、いい……)
このときシュエシが感じていたのはまぎれもない快楽だった。美しい執事を想いながら自らの手で慰めていたときとは比べものにならないほどの快感に何度も腰が震える。気がつけば股間を何かに擦りつけていた。シュエシの股の間には領主の足があり、それに硬くなったものをゆるゆるとドレス越しに押しつける。
「ぁ……!」
濡れた下着と股間が擦れ、そのとき生まれた鋭い快感が一気に高みへと連れていく。
「ぁ、ぁ、ぁっ」
シュエシは夢中で股間を擦りつけた。そうしている自覚はなく、薄く開いた目には涙があふれていてどこを見ているか定かではない。そのまま何度か強く動いた腰が一際大きく震え、ついに絶頂へと達した。
「あ……あ……」
遠くで淫らな声が聞こえる。シュエシはそれが自分の声だと気づくこともなく、それでも下着が濡れた感覚だけはわかった。
「なるほど、これは美味だな」
すぐ近くで艶やかな声がした。しかし言葉をはっきりと聞き取ることはできず、シュエシはそのままゆっくりと意識を手放した。