22 憎悪
(嫌だ、入って来るな……僕の中に、入ってくるな……!)
震えながら必死に叫んだ。声にならない叫び声を上げながらギュッと目を瞑る。唇をグッと噛み締め、吐き気に耐えながら身をよじったりもした。それでもゾワリとしたものが離れることはなく、ますます体の中に入り込もうとする。あまりにも恐ろしい気配に意識が遠のき始めたときだった。
薔薇の香りが鼻をかすめた。先ほどまでいた温室の中より濃密な香りがシュエシの体を包み込む。
(どうして薔薇の香りが……?)
風が吹き黒髪がサァッと舞った。周囲に漂っていた香りも一瞬にして風に流される。その香りが一箇所に集まり始め、目眩がするほど濃密になった直後、香りの中心から低い声が響いた。
「人はやはり愚かな生き物だな」
聞こえて来たのはヴァイルの声だった。何もないところに小さなつむじ風が現れ、驚いた男たちはシュエシから手を離し数歩後ずさる。
「大丈夫か」
低く艶やかな声に、シュエシはそっと目を開いた。
肩に手が触れる。視線を上げるといつもどおりの美しいヴァイルの顔があった。しかし表情は見たことがないほど険しく、黄金色の瞳は見据えるように男たちを見ている。
「庭の周りをうろつくだけでなく、薔薇を盗み出そうと考えるとは呆れて物が言えんな」
冷ややかな声がさらに冷たくなった。シュエシは肩に触れているヴァイルの手が異様なほど冷たいことに気がついた。同じ化け物になってからは感じなくなっていた体温の差に、背筋を冷たいものが流れ落ちる。
「しかも我が花嫁をどこぞに売るだと?」
男たちが息を呑むのがわかった。声が出せないのか掠れた悲鳴のような音を漏らし、ガタガタと震える体でヴァイルを見ている。
「あまりにも愚かな言葉に、うっかり殺してしまうところだったぞ」
シュエシはハッとした。ヴァイルの美しい顔からは一切の表情が消え、男たちを見据える瞳には朝日を反射しているのとは明らかに違う光が宿っている。
不意に体の奥がゾッと凍えるような感覚に襲われた。先ほどから感じていた不快なものとは違う何かが体の中に入り込んでくる。それはどろりとした重苦しいもので、あっという間に体中に広がった。
(……息が、苦しい)
押し潰されそうな胸の奥から何かがせり上がってくる。沸々としたそれは少しずつ膨れ上がり、グツグツと煮えたぎるようなものへと変わった。このままではどうにかなってしまう。そう感じた次の瞬間、限界まで膨れ上がった何かがパンと弾け飛んだ。
「っ!」
それは目を見開くほどの衝撃だった。体の内側が燃えているような感覚に、慌てて自分の手を見た。しかし肌は白いままで熱を帯びているようには見えない。それなのに内側から何もかも燃やし尽くしてしまうような強烈な熱が噴き出すのを感じる。
(これは……)
一番熱く感じたのはヴァイルが触れている肩だった。そこから次々と灼熱のようなものがシュエシの中に流れ込んでくる。それは何かを破壊したい、握り潰したいという凶暴な意志のようにも感じられた。
これまで抱いたことがない感情にシュエシは大いに戸惑った。そもそもこれは本当に自分の感情なのだろうか。無理やり抱かされているような違和感に眉を寄せる。まるで体の外から注ぎ込まれているようだと思ったところでハッとした。
(まさか)
慌ててヴァイルを見た。異様なまでに整った顔には何の感情も浮かんでいない。しかしシュエシには見覚えのある表情に思えた。
(……母様と同じ顔だ)
東の国の者を見たときの母親の顔が重なった。いや、見た目はまったく違う。母親は夜叉のような顔をしていたが、男たちを見るヴァイルは彫像のように美しい。それは西の国の絵本に描かれていた神の使いのような姿だった。
それでもシュエシはヴァイルの中に渦巻く夜叉のような炎を感じていた。目の前の男たちに対するものだけでなく、もっと根深い激情――そう、すべての人に向けられた殺意とも呼べるような恐ろしいまでの炎が揺らめいて見える。
(……目が……)
黄金色だったヴァイルの瞳が少しずつ色を変えていく。はじめは淡い黄色だったものが夕空を染める茜色になり、最後は暖炉の中で燃える炎のような真っ赤な色へと変化した。
その瞳は夢で見た屋敷を燃やす炎のようだった。何もかもを飲み込む業火のようにヴァイルの瞳が赤く変化する。
「ヴァイルさま、駄目です……!」
思わずそう叫んでいた。なんとしてでも止めなくてはと肩に触れていた腕を掴む。
「駄目です!」
腕を掴みながら必死に訴えた。もしここで男たちを殺めてしまえばヴァイルが憎む愚かな人と同じになってしまう。そう思い、必死に声を上げた。
「ヴァイルさま、駄目です! こんなことで人を殺めないでください!」
燃えるような赤い瞳は男たちから離れない。それでもシュエシは叫び続けた。
「食事以外で人を殺めないでください! お願いです、ヴァイルさま! こんなことで人を殺めないで!」
微動だにしない体を、今度は両手で抱きしめながら必死に声を上げる。
「お願いだから殺めないで……! 自分を傷つけないで! ヴァイルさまが憎むものと同じにならないで……!」
無我夢中だった。いつものヴァイルに戻ってほしい一心で、全身全霊をかけて叫ぶ。
どのくらい時間が経っただろうか。縋るように抱きしめていたヴァイルの体がほんの少し動いた。
「我が花嫁は存外力が強いな」
シュエシの背中にヴァイルがポンと触れる。
「それにわたしが思いもしなかったことを言う。……いや、おまえだからこその言葉なのだろう」
「……ヴァイルさま」
「おまえはそれでいい。そうして言いたいことを口にしろ。そうすればわたしはわたしでいられる」
赤い瞳は男たちを見たままだ。その様子に不安を感じたシュエシは、見上げながら「ヴァイルさま」と名前を呼んだ。その声に美しい顔がほんのわずか緊張を解く。
「心配するな。こやつらは生きたまま帰してやる」
ヴァイルの白い指が男たちを指さした。クイッと指を曲げると、魂が抜けたように呆然としていた男たちがゆらりと動き始める。不自然に体を揺らし、頭も前後左右にユラユラと揺れていた。
「わたしを見ろ」
男たちがヴァイルを見た。真紅の瞳がギラリと光ると「あ」とも「う」ともとれる呻き声を上げ、一瞬体を硬直させる。直後フラフラと歩き出したが、以前のパン屋と同じように目は虚ろで門へと歩く姿も足元が覚束ない。
「おまえと屋敷に関する記憶はすべて消した」
ヴァイルの言葉にシュエシは二人の背中を見た。
「わたしには人の意識を奪い記憶を消す力がある。これも穏便に血を得るために手にした力だ」
シュエシの体にほんのわずか力が入る。
(ヴァイルさまは、人よりずっと強い存在なんだろう)
今回の男たちの様子を見てはっきりとそう悟った。そして自分も同じものになった。
(僕が持っていてもいい力なんだろうか)
シュエシの表情が強張る。
「やはりわたしが恐ろしいか?」
「え……?」
なぜそんなことを尋ねるのだろう。見上げたヴァイルの瞳は真紅のままだったが、表情も気配も普段のヴァイルに戻っている。
「わたしが持つ力は、いずれおまえの中にも宿る。そしておまえは完全な化け物になる」
「……はい」
それを恐れたことはない。恐ろしいと感じたのは、自分が化け物の力を制御できるか不安だったからだ。
(……もし、さっきの人たちのように僕からヴァイルさまを奪おうとするものがいたら、僕は……)
きっと母親と同じことをするだろう。相手が人でも化け物でもそうするに違いない。ためらうことなくそう考えてしまう自分が恐ろしかった。
「おまえは人であることが嫌で化け物になったわけではない。いずれ人を恋しく思うようになる。だが、眷属となったおまえを人の中に置くことはできん。これからもおまえに近づく者はこうして退ける。そのことを、おまえはいずれ恨む日が来るだろう」
「そんなことはありません」
「なぜそう言い切れる? この先永遠とも呼べる時間を人から離れて生きるのだぞ? 元から人でない我らならまだしも、おまえは人として生まれ人として生きてきた。いつか失ったものの大きさに気づき、化け物にしたわたしを恨むことになる」
「絶対にありません」
自分は望んで化け物になった。自分が心から求めているのはヴァイルであって人ではない。恐れるのは自分を制御できるかどうかだけで、それ以外で怖いものは何もなかった。
「僕は夜叉の業を背負っています。そう教えてくれたのはヴァイルさまです。僕は生まれたときから化け物の仲間だったんです。化け物の僕は、いずれ人の中では生きられなくなったと思います」
ヴァイルの胸にそっと額を押し当てる。わずかだが服の上からヴァイルの鼓動を感じた。化け物であってもこうして脈打ち、肌を傷つければ赤い血が流れる。人と同じものを口にすることもできれば、人と同じように家族を思い傷つきもする。人を憎みどうにもならない衝動に駆られることもある。
(ヴァイルさまを化け物だというなら、土地の人たちも化け物だ。そんな中で生きていきたいとは思わない)
だから後悔することも、この先ヴァイルを恨むことも決してない。体を離し、ヴァイルを見上げる。そうして真紅のままの瞳を見ながら「ヴァイルさま」と名前を呼んだ。
「僕はヴァイルさまが好きです」
体の中にじわりと熱いものが広がる。その熱が体中をとろりと溶かしていく。
「花嫁であることも化け物になったことも、僕自身が望んだことです。僕が恋しいと思うのはヴァイルさまだけで、人を恋しいと思うことはありません」
頭がとろりと蕩けた。愛しい化け物を見つめるシュエシの顔には恍惚とした笑顔が広がるが、黒目はしっかりとヴァイルを見つめている。
「僕はヴァイルさまだけを想っています。ヴァイルさましかほしくない。だから、ヴァイルさまも僕だけを求めてください」
シュエシを見つめていたヴァイルの瞳がきらりと光った。真紅色だった部分に黄色が混ざり、少しずつ黄金色に戻っていく。
「おまえはつくづく興味深いな。いつの間にかその血以外でもわたしを魅了するようになった。いや、我らによく似たその血潮ゆえのことだろうか」
ヴァイルの手がシュエシの頬を包み込んだ。その手はいつものようにほんのり温かく、その体温にホッとする。
「眷属となったおまえはわたしの影響を受けやすい。こんな醜く愚かな感情など分け合いたくはないのだがな」
つぶやくような言葉に「人が憎いですか?」と尋ねた。
「さて、どうだろうな。わたし自身はとっくに解決したと思っていた。だが、あやつらがおまえに触れているのを見た瞬間、我を失いかけた。わたしのものに触れるなと頭がカッとなった。あれほどの感情を抱いたのは久しぶりだ」
わずかに肌をピリリと刺激する感覚にシュエシが眉を寄せる。それに気づいたヴァイルが「また感じたか」と告げた。
「おまえは鼻が利く。そしてわたしの感情にもよく気づく。わたしの胸の内を悟るのもうまいのだろう。……だからこそおまえを選んだのかもしれん。そういう存在だと魂が気づいていたのだろうな。……そうか、これが運命の花嫁というものか」
運命というなら自分のほうこそだとシュエシは思った。これまで自分の身に起きたことすべてがヴァイルと出会うための出来事だったような気さえしてくる。そして同じ化け物になることも……いや、その運命を自ら選んだ。
「西の国へ行くか」
「え?」
「おまえはわたしの故郷へ行きたいと思うか?」
突然の問いかけに、シュエシは美しい顔を呆然と見つめた。




