2 花嫁と執事
貴族の執事という人はどこまでの世話をするものだろうか。シュエシがそう思ったのは髪の手入れまでも執事がしているからだ。これでは自分が貴族になったかような錯覚をしてしまいそうになる。
「美しい黒髪でございますね」
「あ、ありがとう、ございます」
自分はこんなことをされる身分ではない。それなのに屋敷に到着した日から執事による髪の手入れが毎日続いている。
「旦那様から新しくこちらの香油を使うようにと申しつかっておりますが、香りは大丈夫でございますか?」
「あの、ええと……はい、大丈夫です」
差し出された容器から甘い薔薇の香りがした。容器に描かれた薔薇の絵を見て、土地の娘たちが「薔薇の香油がほしい」と話していたことを思い出す。
この土地は土の種類が合わないのか薔薇を育てることができない。そのため娘たちが欲しがる薔薇の香油は非常に高価で憧れの品だと誰もが口にしていた。そんな高価なものを男の自分が使うことが申し訳なくて仕方がない。だからといって断れば不審がられて男だと露呈してしまうかもしれない。
(領主様は僕が男だと気づいていないに違いない)
一度も会っていないのだから、きっと東の国の娘だと思っているのだろう。だからこんな高価な香油を使うように言ったのだ。でも、自分はただの身寄りがない男でしかない。それがわかったとき、騙して高価なものを使わせたのかと怒らないだろうか。
(でも、拒否するのもおかしいのだろうし……)
土地の娘ならきっと喜んで使うはず。シュエシは大人しくされるがままでいるしかなかった。
鏡の前に座り、緊張から体を強張らせつつ後ろに立つ執事を鏡越しにチラチラと盗み見る。執事の美しい手が紺碧の瓶をゆっくり傾けると、ほんのり薄紅色をした香油がとろりと手のひらに垂れた。明かりに照らされているからか黄金色にも見える液体を手で延ばし、その手がシュエシの髪へと伸びてくる。
はじめは香油を延ばすように髪に触れ、そのまま指で梳くように動いた。それを何度もくり返すうちに、鏡に映る黒髪が艶やかに光り始める。
「東の国の人は黒髪黒目だと伺っておりましたが、奥様は少し違っておいでなのですね」
執事に見惚れていたシュエシは話しかけられていることに気づかなかった。「奥様?」と呼びかけられハッとし、慌てて鏡越しの視線を外す。
「ど、どこか違いますか?」
「一見すると黒髪でいらっしゃいますが……あぁ、やはり色が少し違っていらっしゃいます」
一房手にした執事が観察するようにじっと見ている。しかも美しい顔を髪に近づけてだ。いつもよりずっと近くに感じる執事の気配にシュエシは頬が熱くなるのがわかった。膝に置いた手に力が入り、ますます体が強張る。
「よ、よく、わかりません。ただ、母様、あの、母も似たような髪でしたので」
「では、お血筋でございましょうか。黒色のところどころに紅色にも見える艶が混じっていらっしゃって、とても美しゅうございます。これは……そう、西の国で見かける血石のようでとても美しい」
「ほぅ」と感嘆のため息を漏らす執事にシュエシの顔がますます赤くなった。忙しなくなる鼓動を感じながら、そっと鏡の中の執事を見る。うっとりと目を細めた美しい表情に、あっという間に意識を奪われた。
(なんて美しいんだろう)
細めた目はキラキラと輝き、ため息を漏らす唇はどんな美女も適わないほど艶めいている。見れば見るほど胸が高鳴り息苦しささえ感じた。
慌てて視線を外したシュエシは、寝衣の太ももあたりの布をギュッと握り締めた。鼓動が執事に聞こえてしまうのではないかと心配し、そのくらい近くに美しい顔があることに再び心臓が激しく動き出す。
「これは大変失礼いたしました。お母上もさぞやお美しい髪をお持ちだったのでございましょうね」
そう口にした執事の顔が遠のいた。代わりに半月のような形をした黒く艶やかな櫛で全体を梳き、最後に鏡の前に置かれた箱に櫛を仕舞ってから「終わりでございます」と頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「敬語は不要でございますよ」
「わかっては、いるん、ですけど」
俯くシュエシの肩に執事の手が伸びる。ドキッとしたまま固まるシュエシをよそに、手入れ用にかけられたケープを取ると再び執事が頭を下げた。
「明日も同じ時刻に起こしにまいります」
ケープを手にした執事は、「おやすみなさいませ、奥様」と告げると部屋を出て行った。
執事の姿が見えなくなってからもシュエシの胸は騒がしいままだった。体も妙に火照っている。しばらくぼんやりと扉を見つめていたシュエシは、「ふぅ」とため息をついてからベッドに入った。ところが横になっても美しい執事の顔がちらついてなかなか眠ることができない。
(あの人はこんな僕にも優しくしてくれる)
それに母親のことを褒めてもくれた。美しい黒髪は母親の自慢だった。シュエシも母親の豊かな黒い髪が大好きだった。懐かしい母親の黒髪を思い出すのと同時に、濡れるとほんのり紅色に光っていたことを思い出す。
(自分の髪を見ることがなかったから気づかなかったけど、僕も母様と同じ髪をしていたんだ)
土地の者たちに髪について指摘されたことはない。そもそも両親を失って以来、誰かに気にかけてもらうことがなかった。そんな自分を気にかけてくれる執事の言葉がうれしくて胸がキュッと切なくなる。まるで両親が生きていた頃のような、それよりも胸躍るような気持ちになった。
(僕にも優しくしてくれる人がいる)
それだけで身代わりになった甲斐があったと思った。シュエシは口元をほころばせながら目を閉じた。
この日を境に、シュエシはますます執事を意識するようになった。朝起きたときから夜寝るときまで、気がつけば執事を目で追いかけている。かといって直接見るのは恥ずかしくて、物陰から伺うか鏡越しに見るかといった具合だ。言葉を交わすときも緊張してうまく言葉が出てこない。そうなってしまう自分が恥ずかしくて、ますますオドオドした返事になってしまう。
「お茶の用意ができてございます」
「あ、ありがとうございます」
「敬語は……あぁいえ、なんでもございません」
最後まで口にしない執事にチラッと視線を向けた。もしかして何度注意しても直らないことに呆れたのだろうか。それともいよいよ見限ったのだろうか。火照っていた頬が一瞬にして冷たくなる。
「口うるさい執事だと、どうぞお怒りにならないでくださいませ」
「え……?」
思ってもみなかった言葉に慌てて顔を上げた。
「貴族の奥様らしくと、つい諫言めいたことを申し上げてしまいました。これも奥様のためと思い……いえ、これではよくありませんね。言葉遣い一つにもうるさい執事だと疎ましくお思いかもしれませんが……」
あまりにも弱々しく沈んだ声に、シュエシは慌てて「そ、そんなことありません!」と声を上げた。
「とてもよくしていただいているのに、疎ましいだなんて……その、こんな自分にいろいろしてくださって、か、感謝しています。それなのに注意を聞かないのはぼ、じ、自分のほうです。悪いのは、自分です」
言いながら、段々と声が小さくなっていく。再び俯き、膝の上で両手をグッと握り締めた。お茶のよい香りはいつもと同じなのに部屋の空気はずっと重苦しい。こんなことでは執事が世話係をやめてしまうかもしれない。そう考えるだけで胸がズキンと痛む。
「奥様にそう言っていただけること、執事として光栄でございます」
先ほどとは違い、いつもどおりの声が聞こえてきた。チラッと視線を上げると、そこには毎日見惚れている美しい笑顔を浮かべた執事の顔がある。
「感謝申し上げるべきはわたしのほうでございます。このように奥ゆかしくしとやかな奥様の世話ができること、屋敷に仕える者として光栄に存じます」
神々しささえ感じる微笑みに再び頬が熱くなった。「こ、こちらこそ」とつぶやきながら顔を伏せる。
(なんて優しい人なんだろう。美しくて優しくて……それに、とても素敵な人だと思う)
シュエシの心にポッと明かりが灯った。それが少しずつ大きくなり胸の奥に熱が生まれる。執事のことを考えるだけで肌が熱くなり、同時に自分が執事にどう見られているかが気になって仕方がなくなった。
(みっともない姿は見られたくない。いまさらかもしれないけど、でも……)
一度そう思い始めると何もかもが気になってくる。
(みっともない顔を見られるのは嫌だ)
そう思ったシュエシは、寝起きの顔を見られなくなくて掛布を頭まで被って寝るようになった。食事のとき、食べている姿を見られているのだと思うだけで緊張から味がわからなくなる。わざわざ東の国で使う箸を用意してもらったというのに、それさえ満足に操ることができず時間ばかりかかってしまった。何をしても執事の視線が気になり、余計にモタモタしてしまう。
そんなシュエシがもっとも緊張するのが湯浴み後の髪の手入れだった。顔を見ると緊張し、髪の毛に触れられれば息が止まる。それなら見なければいいのに、つい鏡越しに美しい顔を見てしまっては視線が合うたびに耳まで真っ赤にした。
(どうしてこんなに気になるんだろう)
見れば緊張するのに、なぜか執事の姿を見たくてたまらない。かといって正面から見る勇気はなく、部屋の片付けをしている後ろ姿や給仕をしている横顔を盗み見るようになった。
(僕はどうしてしまったんだろう)
こんなふうになったのは初めてだ。戸惑いながらも、やはり美しい執事を見たいという欲求を抑えることができない。それどころか髪以外にも触れてほしいとまで思うようになっていた。
(絶対に変だ)
ベッドに入ってからも執事の顔がちらついて離れない。美しい微笑みを思い出すだけで胸が苦しくなる。そのせいで眠れなくなるというのに、目を瞑っても執事の姿ばかり思い返してしまった。
そうして朝は朝で起こしてくれる執事を見ては胸を高鳴らせる。どうしても執事の顔が見たくて掛布の隙間から覗くこともあった。視線が合えば動けなくなり、「おはようございます」と微笑む執事に満足に返事をすることさえできない。
「今日もよい天気でございますよ」
朝日を浴びる姿に「あぁ、まるで神様の使いのようだ」とため息が漏れる。銀色の髪はキラキラと眩しく、黄金色の瞳は太陽にように輝いていた。あまりにも眩しく美しい姿に、シュエシは朝から顔を赤くし体を火照らせた。
(今日も綺麗だな……ヴァイルさま)
気がつけば心の中で執事の名前をそっとつぶやいていた。それだけで胸が高鳴り体のあちこちが疼くようにムズムズする。
(もっとあの人を見たい。もっとあの人のそばに近づきたい)
浅ましい欲望は日々膨れ上がった。もっともっとと貪欲に思っているのに、いざ髪の手入れが始まると逃げ出したくなるのはどうしてだろう。
(いい加減、慣れてもいいはずなのに……)
手入れが始まると緊張のあまり全身が強張った。香油の甘い薔薇の香りを嗅ぐだけで肩がカチコチに固まってしまう。そんな状態でも視線は鏡越しに美しい顔を追っていた。
(……今夜もとても綺麗だ)
髪を見ているからか少し伏せられた目元は美しく、長い睫毛が明かりにきらりと光っている。睫毛も銀色だということに気がついたシュエシは、執事のすべてが神に愛されているに違いないと思った。
(僕とは違って、この人は神様に愛されてる)
だからこんなにも美しく、そして優しいのだ。そう思いながら目を閉じ、執事の指の動きにうっとりとしていたときだった。
「ひゃっ」
突然耳たぶに冷たいものが触れて変な声が出てしまった。
「失礼いたしました」
「あ、いえ、大丈夫、です」
触れたのは執事の指だった。感触からそうだとわかったものの、人の指とは思えないほどの冷たさに驚く。
(……まるで死んだ父様や母様みたいだ)
あまりの冷たさに、シュエシは天に召された両親のことを思い出した。
大きな荷物を背負っていても悪路を難なく歩けるほど二人は健脚で元気だった。ところが病気になってからは床から起き上がることもできなくなり、そんな二人をシュエシは一人で世話をした。毎日のように体を拭き、髪を梳かし、食事を食べさせる。なんとか元気になってほしいと願っていたものの、二人の食はあっという間に細くなり、話す言葉も少なくなっていった。不安に駆られたものの、いつか元気になると信じてシュエシは世話を続けた。
ある日、早朝に目が覚めたシュエシは母親の手を握ろうと肌に触れた。しかし触れた手は異様に冷たく、飛び起きて何度も声をかけたが母親の目が開くことは二度となかった。慌てて触れた父親はまだ温かかったものの、その父親もちょうど母親が亡くなったひと月後に天に召された。
執事の指はあのときの二人のように冷たかった。柔らかい感触はしたものの、ゾッとするような冷たさに体が強張る。
「随分と体が強張っていらっしゃるようですが……あぁ、これはいけません。首まで硬くなっていらっしゃる」
「ひっ」
急に首筋を撫でられ肩が震えた。
「揉んで差し上げましょう」
「えっ? あの、……っ」
断る前に冷たい手が首筋に触れる。そのまま肌を押すように揉まれ、触れられたことよりあまりの冷たさに背筋がブルッと震えた。
「あ、あの、っ」
「首から肩にかけても硬くなっていらっしゃいますね。ですが、やはり首が一番ひどくていらっしゃいます」
「あの、大丈夫、……っ」
首筋を冷たい指先で何度も押され、おかしな声が漏れそうになった。慌てて唇を噛み締めたものの「んっ」と声が漏れてしまう。
たしかに髪の毛以外にも触れてほしいと思っていた。ところが実際に触れられると、どうしていいのかわからなくなる。体は強張り目眩がしそうだった。首筋を揉んでいた手が布越しの肩に移ったことで少しホッとしたものの、大きな手に包まれる感触に今度は首や顔が熱くなる。
(どうしよう、どうしたらいいんだろう)
本当はいますぐにでも手を離してほしい。しかし善意で揉んでくれているのに嫌だというのは気が引ける。そもそも浅ましい自分の都合で拒絶するのはあまりに申し訳なかった。
シュエシが悩んでいる間に冷たい手が再び首筋へと戻った。直接触れられる感触に肌がぞわっと粟立つ。同時に体の奥がカッと熱くなり、冷たいのか熱いのかわからなくなってきた。
「ふぁっ」
冷たい指に耳たぶを摘まれた瞬間、鼻から抜けるような声を上げてしまった。慌てて奥歯を噛み締めながら俯くが、耳たぶを摘む指が止まることはなく、くにゅっと揉まれるたびに肩が震える。
突然うなじがゾクッと痺れた。それが背中を震わせ腰までゾクゾクしたものが走り抜ける。気がつけば下半身が勝手にモゾモゾと動き、そうせざるを得ないくらい熱が集まっていることに気がついた。
(おかしい、僕の体は変になってしまった)
腰のあたりがゾクゾクしてたまらない。お腹の奥が熱くてどうしようもなかった。このままでは大変なことになる、そう思っているのにやめてほしいと口にすることができない。口を開けばきっとおかしな声が出てしまうと思い、ますますきつく唇を噛み締める。
とにかく手を止めてほしくて、鏡越しに背後に立つ執事を見た。見た瞬間、シュエシは後悔した。
鏡に映る執事はあまりにも美しかった。美しく、それでいて妖しい雰囲気に喉が小さく鳴る。黄金色の瞳は宝石のように煌めき、その目を見ただけで鼓動が激しくなった。美しい顔を見ただけで体が熱くなり頬が一気に熱くなる。
(ぼ、僕は何を……っ)
シュエシはようやく執事に欲情していることに気がついた。気づいた瞬間、全身がカッと熱くなった。耳たぶを揉む指に官能を覚え、首筋に触れる手に淫らな感情を抱いてしまうなんてどうかしている。
(僕はなんていやらしいんだ)
こんなにも熱心に世話を焼いてくれる執事に申し訳なくて目を瞑った。落ち着け、落ち着けと何度も考えるのに体はますます熱くなり、おかしな声を漏らしそうになる。
「随分とお顔の色がよくなられました」
「っ!?」
あまりにも近いところからの声にハッとし、慌てて鏡を見た。耳元に唇を寄せる執事の瞳と視線が合い動けなくなる。
「頬もこれだけ薔薇色になられたのでしたら、もう大丈夫でございましょう」
そう囁く執事の唇が一瞬だけシュエシの耳に触れた。それだけで体は熱く震え、下腹部に集まった熱がドクドクと脈打つ。
「それでは奥様、おやすみなさいませ」
いつもどおりケープを手にし、頭を下げた執事は、頭を上げるとふわりと微笑んだ。そうして足音を立てることなく部屋を出ていく。残されたシュエシは椅子に座ったまま呆然としていた。いつの間にか下半身に集まった熱が股間を覆う寝衣をゆるく持ち上げている。
(僕は、なんていやらしいんだ)
淫らに疼く体にシュエシはますます動けなくなった。