18 変様
ゾワリと何かが近づいて来る。それはドロリとしているような、それでいて煙のような不確かなものだった。ただ、それが黒く淀んだ色をしていることだけはわかる。
少しずつ近づいてくるそれの気配にシュエシの体がブルリと震えた。得体の知れないそれが、なぜかものすごく恐ろしい。じわり、じわりと近づいてくるそれから逃げたいのに、どうしても足を動かすことができない。足どころか手も、首も、体のどこも動こうとしなかった。
逃げなくてはと焦れば焦るほど体が固まったように動かなくなる。ゆっくりと近づいてくるそれの気配にドッと冷や汗が流れた。這い寄るそれから逃れるため、震えながらも必死に足を動かそうとした瞬間、体がストンと闇の中へ落ちた。
「……!」
ビクッと全身が震えた直後、シュエシの目がパッと開いた。見慣れた天井が目に入り、ホッと息を吐く。荒くなった呼吸を整えようと何度か小さく深呼吸をくり返した。呼吸より忙しないのが鼓動で、走った直後のようにドッドッと激しく動いている。
(さっきのはなんだったんだろう)
夢だとわかっても不気味な気配が忘れられない。あの気配が何かわからないのに恐ろしいものだということだけはわかる。
「っ」
不意に夢と同じ何かを感じた。ゾワリとした気配に夢じゃなかったのかと顔が引きつる。
「おまえも感じるようになったか」
聞こえてきた声にドキッとし、ゆっくりと視線を動かした。いつからそこにいたのか、ベッドの端に腰掛けたヴァイルが美しい顔で自分を見下ろしている。
「ヴァイル、さま」
「それは土地の者の気配だ。正確には人の邪念と言うべきか」
「じゃねん……?」
「土地の者たちは欲を持って屋敷に近づいてくる。そのほとんどは歪んで醜いものだ。むしろそうした邪念を持った者しか屋敷には近づかない」
冷たく光る黄金色の瞳が窓のほうを向いた。つられて見た窓の外は、朝と呼ぶにはとても明るい。
(たしか、ヴァイルさまが部屋に来たのは夕暮れ前だったはず。それなのに、もう昼に……?)
いつの間に眠ってしまったのだろう。眠る前の記憶がぼんやりしていて思い出せない。思い出そうと何度か目を瞬かせていると、ヴァイルが銀色の眉をわずかに寄せながらため息を漏らした。
「よりにもよって、いまやって来るとはな。我が花嫁の目覚めにはふさわしくないというのに、とんだ邪魔をしてくれたものだ」
寝室の扉あたりを見たヴァイルが「行ってこい」と口にした。すると黒い霧がふわりと現れ、スーッと窓の外へ流れていく。シュエシはそれを見ながら「はなよめ……」とつぶやいた。
「なんだ、記憶が飛んだか?」
シュエシを見る黄金色の瞳はいつもと変わらない。いや、少しだけ違うようにも見える。
「僕、は……」
「おまえはわたしの眷属になった」
「けんぞく」
そういえばと、シュエシはようやく眠る前のことを思い出した。
「それじゃ、僕はその……化け物になったんですか?」
おそるおそるといった問いかけに、美しい顔にほんのわずか笑みのようなものが広がる。
「なんだ、わたしと同じものになったというのにうれしくないのか? あれほど同じものになりたいと口にしていただろうが」
呆れるような、それでいて楽しんでいるような口調に目を見張った。こんなヴァイルを見るのは初めてで、シュエシは美しい顔を呆然と見つめることしかできない。
(ヴァイルさまは、こんな表情をする人だっただろうか)
美しい姿は同じだ。ただ、纏っている雰囲気が違うような気がする。そう感じるのは同じ化け物になったからだろうか。
(……そうだ、僕はヴァイルさまと同じ化け物になったんだ)
長い寿命を共にし、死ぬまでそばで血を捧げる本物の花嫁になった。その命も一つになるのだと聞いた。この世でもっとも愛する、いいや、来世まで愛する人と何もかもが一つになれたということだ。
鼓動が一際強くドクンと高鳴った。ドクドクと早鐘を打ち鳴らすように忙しなくなる鼓動に目の前がクラッとする。
「どうした?」
自分を見る美しい顔に胸がいっぱいになった。愛しいという気持ちが次から次にあふれ出し、頭の奥がとろりと蕩けていく。
「ヴァイルさまと同じものになれたことが、うれしくて」
喜びの熱が指先まで伝わり、泣きたくなるほどの多幸感に肌が震えた。
「そうか」
ヴァイルの手が頬をひと撫でした。その瞬間、真っ白なシーツに広がる黒髪に紅色の艶がキラキラと輝いた。
それから数日間、シュエシはベッドの中で過ごすことになった。体がだるく起き上がれなかったためで、それもようやく解消しつつある。昨日からは着替えて居間で過ごせる時間も増えた。ようやく以前と同じような生活に戻りつつあるが、以前とは大きく違うことが一つだけある。それは食事が必要なくなったことだ。テーブルに用意された水差しの水は飲むものの空腹を感じることがない。
(これも化け物になったからなのかな)
そういえば屋敷を動き回る影の輪郭もはっきり見えるようになった。たまに人のような形をしている影を目にすることもある。
(それに、ヴァイルさまの様子も変わったような気がする)
以前より頻繁に部屋にやって来るようになった。雰囲気もずっと穏やかで、わずかながら笑顔を見せるようになったようにも感じる。実際に変わったのかどうかはわからないが、そう感じられることがうれしかった。ヴァイルとの距離が縮まった気がして心が満たされる。
「気分はどうだ?」
部屋に入ってきたヴァイルにそう尋ねられ「大丈夫です」と答えた。相変わらず美しい姿に見惚れていると、ソファの隣にヴァイルが腰掛ける。こうして物理的に距離が近くなったのも自分が化け物に変わったからだろうか。
「空腹は感じるか?」
「目が覚めてからは、一度も」
こうした何気ない会話ができるのもうれしい。以前なら近くにいるだけで緊張のあまりガチガチに固まっていたが、同じものになったのだという気持ちがあるからかこの距離でもなんとか答えることができる。
「あの、化け物になると食事はしないのですか?」
「我らは人のような食事を必要としない」
「そうなんですか」
「人のように飲み食いはするが嗜好として楽しむ程度だ」
だから空腹を感じないのだろうか。
「あの、ほかに人とは違うところはありますか?」
「さて、わたしは人になったことがないからどうだろうな」
「そ、そうですよね。すみません」
「だが、身近にいた眷属から嗅覚が変わるという話を聞いたことがある」
「嗅覚?」
「自分に合った血を探すためだろう。我らは肌の上から好みの血を嗅ぎわけなくてはならない。そのためには鋭い嗅覚が必要だ」
「血の、匂い」
「穏便に血を得るために人を魅了する力も持つ」
「魅了……」
「すべて人と無用な争いを避けるために得た力だ。だが、おまえはまだ人には近づくな。生まれたばかりのおまえが人に近づきすぎるのは好ましくない。人は欲望のままに人を殺め、財産を奪うために騙し貶める。人のように見える我らがそうしたことに巻き込まれないとは限らないからな。おまえではまだ対処できないだろうから警戒するに越したことはない」
黄金色の瞳がギラリと光った。それを見た途端に肌がぞわりとし、なぜか嫌悪感のようなものがわき上がってくる。なぜそんな気持ちになるのか困惑しながら、話を続けるヴァイルをじっと見つめる。
「人にとって人こそがもっとも警戒すべき化け物だ。それに気づかぬとは愚かにも程があるが、愚かゆえに予測不能なことをしでかす。これからは人であったときのことは忘れ人には近づかぬことだ」
「わ、わかりました」
頷くと、頬を指先で撫でられた。戸惑いつつも、こうして触れられることがうれしくて頬が緩む。
「……あ、」
不意にあることに気がついた。
「どうした?」
離れていく指を目で追いながら、「あの、冷たくないなと思って」と答える。
「あぁ、そのことか。我らは人より体温が低い。人であったときは冷たく感じることもあっただろうが、同じもの同士ならそう感じなくても不思議ではない」
「同じもの同士……」
化け物になったとわかってはいたものの、実感がなくて少し不安を感じていた。だが、自分はまぎれもなく同じ化け物になったのだ。それがよくわかりホッとした。
「おまえは随分変わった」
「え?」
「わたしの前でオドオドしていたのが嘘のように、こうして落ち着いて話をしている」
「そ、それは……同じ化け物になったのだと、その、安心して……」
「親近感というわけか」
もしかして馴れ馴れしいと不快に思っているのだろうか。暗い表情になるシュエシに、ヴァイルが「笑え」と口にした。
「え……?」
「おまえは笑っている顔のほうが似合う」
まさかヴァイルからそんな言葉を聞けるとは思わず、呆けたように美しい顔を見る。
「なんだ?」
「あ、いえ……そんなこと、これまで言われたことがなかったから」
「当然だ。あの者たちはおまえを東の国の品だとしか見ていなかった。家畜の表情など気にする輩はいない」
厳しい言葉に胸がちくりとした。だが、自分はそういう立場でも存在でもなくなった。美しく優しいヴァイルの花嫁なのだ。
シュエシの顔にふわりと笑顔が広がった。それを見る黄金色の瞳も柔らかくなる。
「そうだ、それでいい。おまえはそうやってわたしのそばで笑っていればいい」
伸びてきた手に顎を掴まれた。そのまま少し持ち上げられ、親指で唇を撫でられる。途端にシュエシの顔がとろりと蕩け、黒目にチラチラと漆黒の炎が揺れ始めた。
「おまえはわたしの花嫁だ。おまえを害するものはわたしが排除してやる。……はは、まさかわたしが父上と同じことを口にすることになるとはな」
「ヴァイルさまの、父様……?」
「父は人を眷属にするため母から離れた。もともと同族の血を濃く残すための婚姻だ、どちらも心を伴っていなかったのだろう。だが、人を眷属にし、花嫁にするためと聞いたときは心底呆れた。気でも違ったのかと思ったが……いまなら父上の気持ちがわかるような気がする」
頬を包んでいた手がするりと動き、耳を掠めてからうなじのあたりに触れる。
「これほど興味深いと思った存在はほかにない。百五十年以上生きてきてだ。これが心惹かれるということなのだろう」
そう言ってわずかに微笑んだ美しい顔が近づいてきた。思わず目を閉じると、額に触れるだけの口づけを落とされる。
「さて、わたしは少し用事を済ませてこよう。おまえはどうする?」
「どうする、というのは……」
「まだ部屋から一歩も出ていないだろう。そろそろ庭を散策するのによい季節だ」
「庭……」
窓の外に視線を向けた。青空が広がる外は熱くもなく寒くもない。たしかに歩くにはよさそうな様子だが、本当に外に出ていいのだろうか。不安に思いながらヴァイルを見る。
「庭ならかまわん。それに少しは歩いたほうがいい。落ちた体力の回復にもなる」
「わかりました」
「体力がなくてはわたしの相手は務まらんぞ」
「相手?」
フッと口角を上げたヴァイルが耳元に美しい顔を近づけた。
「おまえはわたしの花嫁なのだろう?」
意味がわからずきょとんとするが、すぐに夜のことだとわかり顔が真っ赤になる。その様子にヴァイルが小さく笑った。
「そうした反応も悪くない。いや、そういうおまえだから興味を持ち、いつの間にかこういう気持ちを抱くようになったのだろう」
「ヴァイルさま……」
ヴァイルが立ち上がった。視線で追うと、柔らかい黄金色の瞳が自分をじっと見ている。それだけで体の奥からじわりと熱が上がった。
「これからは好きに庭を歩けばいい。ただし庭から外へは決して出るな。念のため周囲に柵を作らせたが、欲深い人のやることはわからんからな」
「はい」
部屋を去る後ろ姿さえ美しい。
(優しいと感じたのは気のせいじゃなかった)
勘違いしないようにと言い聞かせながら、それでも口元がゆるゆると緩んでいく。
(ヴァイルさまが、僕に好意を持ってくれている)
父親の話から、シュエシはそう理解した。それでも図に乗ってはいけないと頬をペチペチと叩く。
「そうだ、庭に行かないと」
立ち上がった体が妙に軽い。身も心も舞い上がるような感覚を抱きながら、シュエシはこの屋敷に来てから初めて庭へと向かった。




