16 誘(いざな)い
元々領主の屋敷だったからか、窓の外には広大な庭が広がっていた。どこを見ても美しいのは影と呼ばれる存在が手入れをしているからなのだろう。
(向こうにあるのは……あれは温室かな)
庭の南側に立派な温室が見える。小さいときに旅の途中で見た温室よりずっと立派だ。
(中にはどんな植物があるんだろう)
あれこれ想像していたシュエシの視界に白っぽいものが映った。
(なんだろう)
地面に落ちているそれは紙のようにも見える。眺めていた窓から少しだけ身を乗り出して見ていると、白っぽいそれがふわりと舞い上がった。そのまま風に乗ってヒラヒラとこちらに近づいてくる。
(やっぱり紙だ)
少し黄色味がかったそれはシュエシの顔より少し大きな紙だった。手を伸ばすとちょうど指先が触れ、うまく掴むことができた。
(手紙……かな。でも、本の一ページのようにも見える)
端のほうに千切れた部分はあるものの、文字が書かれている部分に損傷はない。それでもシュエシには何が書かれているのかわからなかった。東の国の文字は言葉と一緒に両親に教えてもらったが、このあたりの文字は習うことがなかったため読むことができない。それでも文字だとわかったのは、養ってくれていた男が何冊か本を持っていたからだ。
(ヴァイルさまのものなら探しているかも……)
もしかしたら大事なものかもしれない。部屋に来たときに渡そうと思いながら、なんとはなしに指先で文字を撫でたときだった。
ゾワッ。
得体の知れないものを感じたシュエシは咄嗟に紙を手放した。ふわりふわりと漂いながら絨毯の上に紙が落ちる。体の芯から凍えるような奇妙な感覚に、思わず自分の腕で体を抱きしめた。それでも震えは止まらない。どうしたのだろうと戸惑いながら文字に触れた手で額を押さえた瞬間、胸のあたりがグッと重くなり何かがせり上がってきた。慌てて口を押さえたものの、間に合わずに「ゲフッ」と嘔吐する。
「……っ」
よろけながら身を屈めるが、それでも吐き気は収まらなかった。何が起きたのかわからず、フラフラと上半身を揺らしながら床に膝をつく。
「グフッ」
再び嘔吐し吐瀉物が絨毯を汚す。吐いたのはほとんど無色の唾液だったが、ドレスの胸元を汚してしまった。絨毯もひどく濡れている。あちこち汚してしまったことに青ざめていると、何かが近くで動いたような気がした。扉が開く音に顔を上げようとしたものの、今度は口から赤いものがこぼれ落ちて動きが止まる。
(これは……血……?)
口元を拭った手に付いていたのは血だった。不意に吐血した母親を思い出しゾッとした。もしかして自分も両親が患った病に冒されているのではないだろうか。頭に浮かんだのは死への恐怖ではなくヴァイルのことだった。
(もしそうなら、僕の血を飲んだヴァイルさまは……)
吸血鬼という化け物が人の病に冒されるのかシュエシにはわからない。だが、よくないことには違いないだろう。大変なことをしてしまったと思うとともに、別の意味でも体が震えた。
(これじゃ、もう二度と僕の血を口にしてもらえなくなる)
病持ちの体では血を捧げることはできないに違いない。そんな役立たずの自分をそばに置いてくれるだろうか。
(……きっと捨てられる)
全身がガタガタと震えだした。ヴァイルのそばにいられないことは命を失うことより恐ろしい。シュエシの顔からは血の気が引き、色を失った唇からぽとりと血が落ちる。
(どうしよう、きっと追い出されてしまう)
怯えと混乱、恐怖や絶望が一気に押し寄せた。口の中に広がる自分の血に眉をひそめる間もなく再び「ゲフッ」と嘔吐し、血の混じった唾液が絨毯に飛び散る。ガタガタと震えるシュエシの耳に「おい」という声が聞こえてきた。ゆっくり顔を上げるとそばにヴァイルが立っている。
「あ……」
「吐いたのか?」
シュエシの目からポロッと涙がこぼれ落ちた。どうしよう、病持ちだと知られてしまった。きっとすぐにでも出て行けと言われるに違いない。
(そんなのは嫌だ)
もっとそばにいたい。死ぬまでそばにいさせてほしい。僕の血だけを口にしてほしい。僕以外の血を口にするのは嫌だ。いろんな思いが駆け巡り、シュエシの体をブルブルと震わせる。
「……それが原因か」
黄金色の瞳が床に落ちている紙を見ていた。「忌々しい」という声が聞こえた次の瞬間、紙からボッと火が上がった。目を見開くシュエシの前でジワジワと紙が燃え、完全な灰になるのと同時に火が消える。床に残ったのは黒い燃えかすだけで絨毯に焦げた跡はない。
「舐めろ」
目の前に指が差し出された。ヴァイルが片膝をつき指を差し出している。白い指の腹には鮮血がぷくりと玉のように載っていた。
「早くしろ。それで吐き気は収まる」
口を開こうとしたシュエシは、すぐに動きを止めた。
(汚れたまま触れることなんてできない)
手も口も吐瀉物や吐血したもので汚れている。そんな自分が触れてしまえば美しい手を汚すことになる。それは許されないことだ。そう考えたシュエシは鼻先に差し出された指から顔を背けた。その態度を不快に思ったのか、ヴァイルが再び「舐めろ」と言いながら無理やり口に指を突っ込む。
「んぅ」
慌てて顔を仰け反らせようとしたが、口内に広がる甘い香りに動きが止まった。花の蜜のようなかぐわしい香りと砂糖菓子を煮詰めたような濃厚な甘さに、シュエシは一瞬にして我を忘れた。気がつけば冷たい指に舌を這わせ、チュウチュウと赤ん坊のように吸いついている。
「おまえはすでにわたしの血を口にしている。そのせいで影響を受けたのだ」
ヴァイルの声にハッとし、慌てて口を離した。「す、すみません」と謝ると「かまわん」と返ってくる。
「影たちはああいったものに影響されにくい。わたしを脅かすほどの力もない。それゆえ無視していたが、おまえが影響を受けることを失念していた」
黄金色の瞳が見ているのは燃えかすだった。
「……あの、手紙だったのでは……」
掠れた声で尋ねると「ただの呪いの言葉だ」と言われ目を見開いた。
「ま、まじない……?」
「よほど領主に消えてほしいのだろうな。化け物に効果があるに違いないと、土地の者たちはああした呪いが書かれた紙や神の御姿だという装飾品を庭に投げ入れる。あれもどこぞの教会に頼んでもらってきたのだろう」
「きょうかい……?」
「神がいるという場所だ。本当に神がいるかは知らん。我らのような化け物がいるくらいだから、どこかには神と呼ばれるものもいるかもしれんがな。だが、教会が与えるもので我らがどうこうされることはない」
冷たく光る黄金色の瞳がシュエシの背後を見た。「着替えを用意しろ」と告げると、空中に黒い霧がふわりと現れ寝室へと流れていく。
「あの、よ、汚してしまって、すみません」
着替えという言葉にハッとした。知らなかったとはいえ、不用意に触れたのは自分だ。そのせいで床やドレスを汚してしまった。きっとこの惨状を不快に思っているに違いない。そう思ったシュエシはドレスの裾を掴むと汚れた絨毯をゴシゴシと擦り始めた。
「何をしている」
「よ、汚してしまったので掃除を」
「そんなことをする必要はない」
「でも、」
「おまえはわたしの花嫁だ。掃除は影がやる」
「でも、僕のせいで」
「おまえのせいではない。あの紙のせいだ」
「それでも血を、」
言葉がぴたりと止まった。目の前に飛び散っている血痕を見てシュエシの顔が再び青くなる。
嘔吐したのは呪いが書かれた紙のせいかもしれないが、血を吐いたのは病のせいかもしれない。もし病なら花嫁ではいられなくなる。そう思うと自分から病持ちかもしれないとは言い出せなかった。
「言っただろう? おまえはわたしに血を捧げることだけ考えていればいい」
「……でも」
「それとも血を捧げるだけの花嫁では不満か?」
「そ、そんなことはありません! 僕のすべてはヴァイルさまのものです」
花嫁だと言われてからは一度も血を啜られていない。いまは自分の血が花嫁にふさわしくなるのを待っている段階で、自分もその日を心待ちにしていた。
ちらりと見た美しい顔に胸が痛んだ。やはり嘘をつくことはできない。目を伏せながら「でも」と言葉を続ける。
「……この体は、病に冒されているかも、しれないから……」
ドレスの端を握る手に力が入る。
「何を言うかと思えば……あぁ、血を吐いたせいでそう思ったのか」
肩がビクッと震えた。
「おまえは病になどかかっていない。わたしが病持ちの血を口にすると思うか?」
本当だろうか。血を吐いたのは病が原因ではないのだろうか。そっと顔を上げると、いつもと変わらない黄金色の瞳が自分を見ていた。
「血を吐いたのは人の体だからだ。もっとも、吐く原因になったのはわたしが与えた血のせいだろうがな。中途半端に取り込んでしまったせいで呪いに体が反応したのだろう。異物である我が血を排除しようとした結果だ」
「……それじゃ、僕の血を口にしてもらうことは……?」
「この状態でも気になるのはそのことか」
「ぼ、僕には、それしかないので……」
「おまえはわたしの花嫁だと言ったはずだ。そして極上の血を捧げ続けよとも言ったはずだ」
頬に冷たい手が触れる。そのまま輪郭をたどるように耳たぶに触れられ、首筋をするりと撫でられて声が漏れそうになった。
「それにしても、まさか血を捧げられなくなることを心配するとはな」
冷たい指先に耳たぶを摘まれ吐息が漏れた。たったそれだけでシュエシの体に淫らな熱が生まれる。その熱が背中をゾクゾクと震わせ、腰を刺激し、触れられてもいない下腹部がカッと熱くなった。
「それほどわたしが好きか?」
「は、はい」
「自分の命よりもか?」
「はい、っ」
「死ぬまでそばにいたいと願うか?」
「もちろん、です、……っ」
耳たぶを摘んでいた手が再び首筋を撫でた。硬い爪の先が肌に触れると噛まれたときのことが思い出され、また噛んでほしいという欲がわき上がる。
「父上がなぜあれを眷属にしたのか理解できなかったが、いまならわかる気がする。父上はあれがわたしにとってのおまえのように思ったのだろうな。こうしたことが起きるのなら、たしかに眷属にするのが一番いい」
冷たい手に顎を掴まれグイッと持ち上げられた。黄金色の瞳に見つめられ、シュエシの頬がサッと赤くなる。
「おまえは人の体でありながら、わたしの血を口にしたことで中途半端な状態になっている。そのせいでわたしを排除しようとする者たちの影響を受けやすい。今回のように嘔吐することがあれば手足を失うことがあるかもしれん。目玉を失ったり声や聴覚を失うかもしれん」
「は、はい」
「わたしはそうしたことをよしとしない。おまえはわたしの花嫁だ。それが人などの手に汚されるのは不愉快でならん」
黄金色の瞳が鋭く光った。シュエシの背中をぞくりとしたものがすべり落ち、一瞬だけ息が止まる。
「一つ問おう。おまえはわたしと同じものになりたいか?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。「わたしと同じもの」とくり返し、黒目をハッと見開く。
「そ、それは、ヴァイルさまと同じ化け物になる、ということですか?」
「そうだ。人より長く生き、生き血をすする化け物だ。そうした化け物になりたいか?」
ヴァイルと同じものになれる……そう考えた途端に首筋がぞわっと粟立った。
「な、なれるのですか?」
「おまえがそう望むのなら」
「化け物になれば、ヴァイルさまのそばに、その、ずっといられますか?」
「長い時間をわたしのそばで生きることになる。そしてわたしに血を捧げ続けることになる」
シュエシの顔がパッと花開くように明るくなる。黒目は潤み、瞬く間に恍惚とした表情に変わった。
(ヴァイルさまと同じ化け物になれる)
喜びのあまり体がブルブルと震え出した。人には想像できない時間を好きな人のそばで生きることができるようになるのだ。その間、ずっと血を捧げることもできる。
(ヴァイルさまは僕の血だけを口にする……僕だけの……)
シュエシの瞳に漆黒の炎が揺らめいた。小さい頃にシュエシが何度も見た母親によく似た瞳をとろりと蕩けさせ、美しい化け物をじっと見つめる。
「化け物になるのは恐ろしいか?」
首を横に振ると、紅色の艶が黒髪にパッと散った。
「ヴァイルさまと同じものになれるのは、うれしいです」
シュエシの顔に恍惚とした笑みが広がる。
「どうか僕を化け物にしてください。あなたと同じ化け物にして、僕をこれからもずっとそばに置いてください」
顎を掴む冷たい手にシュエシの右手が触れた。
「そして僕の血だけを口にしてください」
まるで愛の告白のように熱のこもった声でそう告げる。
「……なるほど、たしかにおまえが向ける感情はわたしの心を満たしてくれるような気がする。これが花嫁を得るということなのか、それともおまえだからか……興味が尽きることがないな」
口元に笑みを浮かべるヴァイルに、シュエシもふわりと微笑んだ。しかし抱き上げられるとすぐに我に返ったようにハッとし、自分の置かれた状況が理解できず視線をさまよわせる。
「あ、あの、これは」
「これからおまえを本当の意味での花嫁にする」
「ほ、本当の意味……?」
「おまえはわたしと同じ化け物になるのだ」
言葉に驚き、ヴァイルの顔を見てさらに驚いた。口元に笑みを浮かべた顔は初めて見る穏やかさで、美しい中に神々しささえ感じる。
(こ、神々しいだなんて……ヴァイルさまは化け物なのに……それにきっと、神様を嫌っている)
それでもそれ以外の言葉が見つからないシュエシは、ただひたすら美しい顔を見つめ続けた。




