15 シュエシの業
以前と変わりない日常を送っているシュエシだが、最近少し困っていることがあった。それはヴァイルの姿を見るだけでどうしようもなく体が熱くなってしまうことだ。
(普通の夫婦なら、それでもいいんだろうけど……)
しかしヴァイルは化け物で自分は血を捧げるための花嫁だ。わかっているのに体が疼いて仕方がない。
(ヴァイルさまが触れるのだって、血を美味しくするためなのに)
それなのに冷たい手や唇に触れられるだけで全身が燃えるように熱くなった。油断すると「もっと」と口走りそうになる。
(こんないやらしいことを考えているなんて知られないようにしないと)
体が敏感なのはいいことだと言う。しかしそれと情欲を抱くのは別のことだ。感じるだけならまだしも、また交わりたいと思うのは強欲すぎる。
(こんないやらしい気持ちは美しいヴァイルさまの花嫁にふさわしくない)
シュエシは勘違いしないようにと何度も自分に言い聞かせた。それでもふと気持ちがあふれそうになるときがある。とくにそう感じるのは髪の手入れのときで、今夜も香油と櫛でシュエシの髪を整えているヴァイルを盗み見ては体を火照らせていた。
「おまえの母親は、もしや人を殺めたことがあるのではないか?」
「え……?」
熱くなっていた体がスッと冷たくなった。背後に立つヴァイルを鏡越しに見るが、髪を梳く様子はいつもと変わらない。
(どうしてそんなことを……)
シュエシはどう答えるべきか悩んだ。母親は自分を身ごもっているときに人を殺めた。それをヴァイルに話してもいいものだろうか。ヴァイルは人ではない。しかし、人である自分の母親が人を殺めたと知ればどう思うだろう。
黒目が不安そうに揺れる。鏡越しにシュエシの様子を見ていたヴァイルが「おまえの髪を見ていて思い出したことがある」と口にした。
「思い出したこと、ですか?」
「あぁ、東の国の古い話だ」
ヴァイルが半月型の櫛をテーブルに置いた。そうして黒髪を一房手に取り「その中に黒髪を赤く染める鬼神の話があったのを思い出した」と続ける。
「東の国には夜叉という鬼神がいると聞いたことがある。この夜叉は悪人を殺し食らうという話だが、夜叉の美しい黒髪は罪人の返り血で鮮やかな紅色に染まるらしい。まるでおまえの髪のようだと思わないか? だが、おまえ自身からは血の臭いがしない。それなら母親のほうかと思ったまでだ」
シュエシはヴァイルが夜叉の話を知っていることに驚いた。
(もしかして同じ化け物だから……?)
ということは夜叉も本当に存在しているのだろうか。不意に美しくも恐ろしい顔をした母親の姿が脳裏をよぎった。耳の奥で「だからわたくしは殺めたのよ」とつぶやく声が響く。
鏡越しにヴァイルの顔を見た。黄金色の瞳は黒髪をじっと見てはいるものの、シュエシの母親が人殺しかどうかに興味はないようで観察するような眼差しをしている。
(ヴァイルさまには話してもきっと大丈夫だ)
それに好きな人に隠し事はしたくない。そう思ったシュエシはためらいながらも口を開いた。
「あの……僕の母は、僕を身ごもっているときに、その……人を殺めたことがあると、聞いたことがあります」
貴人に求められ腹の子を流されそうになったこと、それに激昂して相手を殺めたことを話した。そのせいで国を出ることになってこの地に流れ着いたものの、病になり両親ともに亡くなったのだと続ける。
静かに聞いていたヴァイルの顔が嘲笑うかのような表情に変わった。黒髪を見ている瞳が冷たく光る。
「やはり人は化け物だな。腹の子を流してまでも女を手に入れようなど獣にも劣る行いだ。なるほど、そのときおまえの母は夜叉になったのだろう」
「え?」
「おまえを守るため、おまえの母は人の業を超えるほど深い憎しみを抱いたのだ。そして強すぎる憎悪の業が腹にいたおまえにも移った。その証拠がこの美しい黒髪だとすれば納得がいく」
嘲笑が鮮やかな微笑みへと変わる。
「見ろ。先ほどまで漆黒だった髪に紅色をまぶしたような輝きが広がっている。まるで返り血を浴びたようだと思わないか? この輝きは、まさに血石のようだ」
鏡に映る黄金色の瞳がきらりと光った気がした。あまりに美しい表情にぼぅっと見惚れていたが、さらりと数本の髪が手から滑り落ちたことでハッと我に返る。
「……あの、気持ち悪くはないですか?」
「なぜだ?」
「それは……人を殺めた母を持つ証のような髪、というのは……」
シュエシの消え入りそうな声にヴァイルが鼻を鳴らした。
「今更何を言う。それにわたしは一年に一人、食事のために娘を殺めているのだぞ? そんなわたしが業を受け継いだだけの人の子を気持ち悪いと思うものか」
娘を殺めているという言葉にドキッとした。
(そうだ、ヴァイルさまはこれまで何人も……)
だから屋敷には人気がないのだろう。もしかして血の味が変われば自分も同じように処分されるかもしれない。シュエシの肩がブルッと震えた。
「なんだ? やはり人を喰らう化け物は恐ろしいか?」
「そ、そんなことはないです。ただ僕は……いままでの花嫁みたいなのは、嫌だと思って……」
囁くような声で答えながら俯く。少女が好みそうな寝衣が目に入り、「こうした格好を嫌だと思わないくらい、僕はヴァイルさまが好きなんだ」と強く思った。できればこれまでの花嫁とは違うと言ってほしい。この先ずっと自分の血だけを啜ってほしい。
(どうか僕だけを求めて)
体の奥から強烈な感情がぐわっとがせり上がる。
(僕以外の花嫁なんて、もう求めないでほしい……そうだ、僕以外の花嫁はもう必要ない。だって一生分、いいや、来世の分まで僕がヴァイルさまに……)
膝の上でギュッと拳を握る自分の手を見た。その手が果実の真っ赤な汁に濡れた幼い頃の自分の手と重なる。
胸の奥がカッと熱くなった。燃えるような感情がグルグルと渦巻いて体のあちこちに広がっていく。目眩を引き起こすような勢いで頭を覆い尽くした熱が思考を少しずつ溶かしていく。
「僕はヴァイルさまが好きです。だから、どうか僕以外の花嫁を求めないで」
自分が最後の花嫁だ。くるりと振り返ったシュエシの表情は恍惚としたものに変わっていた。
「あなたが好きです。僕の一生分の想いを捧げます。いいえ、来世の分まで捧げます。だからどうか、僕の血だけを求めてください」
「おもしろいことを言う」
「お願いだから僕だけを求めて……そうでないと僕は……きっと母様のように……」
シュエシの黒髪に紅色の艶が煌めく。それを見たヴァイルの表情がフッと和らいだ。
「なるほど、この色はおまえの中の業に反応していたのか。おまえの母はよほど強くおまえの父を思っていたのだろうな。それゆえに己の手を血に染めることをためらわなかった。それほどの思いでなくては腹の子まで業を宿すとは思えん」
一房髪を手にしたヴァイルが満足げに微笑む。
「人の思いは強い。純粋な思いほど濃く深く歪なものになる。人はそれを恐れるが、我らはそうした真っ直ぐで歪な心を厭うことはない。おまえの思いはすべて極上の味わいへと繋がるだろう。それに……」
身を屈めたヴァイルが紅色に輝く黒髪に口づけた。そうしながら小さく息を吸う。
「この香りはわたしをひどく魅了する。同族でもないというのにこれほど惹かれるのは、おまえに宿る深い業がわたしを惹きつけるのだろう。なるほど、我らとは違う化け物にこれだけ強く想われるというのもおもしろい」
ヴァイルの声が耳に心地いい。しかしぼんやりした頭では何を言っているのか理解できなかった。それでも美しい顔を見ていたくて蕩けた瞳でひたすら見つめ続ける。
そんなシュエシの顔をヴァイルの指がするりと撫でた。そのまま黒髪をかき上げ、顕わになった首筋に鼻を近づける。それでもシュエシはぴくりとも動かず恍惚とした表情を浮かべ続けていた。
「それに、存外悪い気はしない」
耳元で響く声にシュエシの目がパッと見開かれた。まるでたったいま目が覚めたかのように目を瞬かせ、すぐ近くにある美しい顔に目を白黒させながら顔を赤くする。
「ヴァ、ヴァイルさま」
「おまえは本当に興味深いな」
「あの……?」
「どれほどのものを内に秘めているのか知りたくなった」
首筋に吐息を感じて背中がぞわりと震えた。わき上がる淫らな熱に気づき、慌てて胸を押し返そうとするものの腕に力が入らない。胸に触れるだけの両手はすぐにヴァイルに掴まれ、たったそれだけの素肌の接触にシュエシは目眩がするような恍惚としたものを感じた。
「髪の色が変わると、そのぶん感度が増すのか」
「んっ」
「近くで話すだけで感じるのか?」
「ヴァ、ル、さ、」
「おもしろいな。我らが全力で魅了してもここまでになる者はまずいない。そもそも自我を保てるはずがないからだ。だが、おまえは違う。これほど淫らに感じながらも自我を保ち、さらに熟した香りを漂わせる……たまらない」
耳たぶに鋭い痛みが走り、思わず目を閉じた。血を啜られたときとよく似た痛みに体は強張ったものの、逆に心は一瞬にして期待と歓喜に満ちていく。
「あぁ、その香りだ。濃密なおまえの香りからは逃れられない。まるでわたしのほうがおまえに囚われてしまったような気さえする。……だが、それも悪くない」
ヴァイルの顔が遠のいた。両手も解放されたからか、体内を巡る熱が少しだけ和らぐ。そろりと見上げると、ヴァイルが舌で唇を舐め取るのが見えた。気のせいでなければ唇の端から尖った牙が覗いている。もしかしてあの牙が耳たぶを噛んだのだろうか。
(あぁ、その牙で首を噛んでくれたらよかったのに)
残念そうに眉尻を下げるシュエシにヴァイルが「やはり興味深い」と口にした。
「これほど牙が疼くのも、おまえほど興味深いものを見たのも百五十年ほど生きてきた中で初めてだ」
「……百、五十年……」
聞き間違えだろうか。「まさか」と思いながらおそるおそる尋ねる。
「ヴァイルさまは、その、もしかして百五十歳、ということですか?」
「正確には覚えていないがな」
まさかの答えに呆然とした。目の前にいるヴァイルはどう見ても二十代の若者だ。口調が堅いから年上に感じられなくもないが、それでもせいぜい三十代前半といったところだろう。
「なんだ、やはり恐ろしくなったか?」
無言で凝視していたシュエシは、慌ててフルフルと首を横に振った。
「恐ろしくはありません。それに僕は、ヴァイルさまがどんな化け物であっても、す、好きです」
改めて好きだと口にしたからか顔が熱くなる。それでも伝え足りなくて、囁くように「心から好きなのです」と口にする。
「熱烈な告白だな。それに紅色の艶が増しているのも興味深い。いや、これは興味深いというには少し違うか。……あぁ、そうか。父上が話していたのはこういうことだったのか」
ヴァイルがクイッと口角を上げた。あまりにも美しい微笑みにシュエシの黒目はすぐに蕩け、恍惚とした表情に変わる。
「おまえは間違いなくわたしの花嫁だ。ほかの花嫁など必要ない。この先ずっとその極上の血をわたしに捧げるがいい」
「うれしいです」
「血を啜られることを喜ぶとは、まさに化け物だな。いや、だからこそわたしの花嫁にふさわしいとも言える」
冷たい手がシュエシの右頬に触れた。一瞬ビクッと震えたものの、すぐにすり寄るように顔を寄せる。
「いいか、おまえはわたしのものだ。それを忘れるな」
こくりと頷くシュエシの目尻に涙が滲む。
(あぁ、僕はヴァイルさまのものなのだ)
うれしくて気が触れてしまいそうだ。歓喜に涙を滲ませる黒目の奥に、ほんのわずか紅色のものが小さく光った。




