14 真相
夕食後、シュエシは以前と同じように毎日湯を使うようになった。浴室に入り、湯船にたっぷりと用意された湯を桶に移してそこに布を浸す。そうして体を何度も擦って綺麗にするのがシュエシの湯の使い方だ。肩を隠すほど伸びた髪も湯ですすぎ、きゅっと両手で絞りながら母親の黒髪を思い出す。
(最後くらい、こうやって湯で洗ってあげたかったな)
そうして母親が大切にしていた櫛で綺麗に整えてやりたかった。そう思ったものの借りていた部屋に湯を沸かす場所はなく、髪をすすぐ湯のために台所を借りることも難しかっただろう。「ふぅ」とため息をつき、浴室を出る。
寝衣を着てから部屋に戻ると、以前と同じように鏡の前にヴァイルが立っていた。鏡の前のテーブルには髪を手入れするための香油と半月型の櫛も見える。
「あの、手入れなら、自分でできますから」
シュエシがそう口にするのは何度目だろうか。ヴァイルは化け物だが、この土地の領主であり貴族だ。そんな人に髪の手入れをしてもらうわけにはいかない。そう思って毎回断りの言葉を口にするが聞き入れてもらえたことは一度もなかった。
「おまえの髪に興味があるから手入れをしているだけだ。いいから座れ」
「……はい」
鏡の前に座ると、ヴァイルが執事のときと同じように香油を手に取り髪に塗り込め始めた。薔薇の香りが広がったところで、今度は櫛で丁寧に梳いていく。
「随分と艶が出てきたな」
「……ありがとう、ございます」
「こうして見るとただの黒髪に見えるが……」
ヴァイルの手が止まった。そのことに気づき鏡越しに視線を送ると、黒塗りの櫛に目が留まる。
(……この櫛、どこかで見たような……)
手入れのたびに見ている櫛だが、屋敷に来る前にも見たことがあるような気がした。
(こんな上等な櫛を見ることなんてないはずだけど……あ、)
不意に洗い髪を整えている母親の手とヴァイルの手が重なった。あのとき使っていた櫛も半月のような形をしていた。鏡に映っている櫛と同じ黒塗りで、たしか真っ赤な花の絵が描かれていたはずだ。
鏡越しにじっと櫛を見る。白い手の内側に赤い色が見えた。
(赤色の……花びらだ)
もしかして同じ花だろうか。母親の櫛の花がどんな様子だったかおぼろげにしか覚えていないが、よく似ているような気がする。一度そう思ったからか気になって仕方がなかった。そういえばあの櫛もいつの間にか見当たらなくなっていた。もしかしてと思いながら、「ヴァイルさま、その櫛は……」と遠慮がちに尋ねる。
「あぁ、これか? 黒髪にはこの櫛が一番だと影から聞いてな。買い取った物の一つだ」
「買い取ったもの……?」
「土地の者が売りに来た中にあったものだ。大方、領主は東の国のものなら何でも好きだと思い持って来たのだろう。最初に売りに来たのは十年ほど前だったか」
「十年……」
嫌な予感がした。「まさか」と思いながら、もう一度鏡に映る櫛を見る。見れば見るほど記憶の中の櫛そっくりなことに疑問は確信に変わった。
「その櫛ですけど、もしかして、」
そこで言葉が詰まった。口にしたところでどうしようもない。言いよどむシュエシを黄金色の瞳が鏡越しにじっと見る。
「これはおまえの母のものだろう。わずかに似た気配が残っている」
「え……?」
「これ以外にも東の国のものを買い取ったが、いずれも日常的に使われていたものばかりだった。中にはこの櫛のように高価な物もあったがな」
シュエシは膝に置いていた手を握り締めた。
「土地の者たちは、おまえの両親の持ち物を売りさばいていたのだろう。その一部をわたしのところに持って来たというわけだ」
ギュッと目を閉じ俯いた。両親が天に召されたあと、身の回りのものを片付けていたときのことを思い出す。
旅の間持ち歩いていた背負い袋の中にはほとんど物が入っていなかった。あのときは「どうしてほとんど空っぽのものを大事に持ち歩いていたんだろう」と疑問に思うだけだったが、おそらく売りさばかれた後だったのだ。シュエシの手元に残った両親の形見は、母親が父親の古着を縫い直して作ってくれた上着だけだった。その上着もあっという間に小さくなり、気がつけば見当たらなくなっていた。
「おまえは土地の者たちに恩を感じているようだが、それほどの価値があやつらにあるとは思えん」
「……僕は、余所から来た流れ者です。でも、六歳で両親を失ってから十八になるまで、育ててもらいました。その恩を返せるなら、と、そう思って……」
声が段々と小さくなる。最後に「恩は返すものだと、言われたから」とつぶやいた声は震え、シュエシの目には涙が浮かんでいた。
「この辺りでも東の国の物は高値で売れる。おまえの両親が死ぬより前から土地の者たちは持ち物を売りさばいていたのだろう。もしくは寝床を貸す代わりに寄越せと迫ったのかもしれない。そして最後はおまえ自身を寄越してきたというわけだ」
「僕は……花嫁の代わりだと……」
「さて、あやつらの考えることなどわたしにはわからん。身代わりにと考えたのだろうが、これまで売りさばいた品と大して変わらん扱いだということは間違いない」
「それは、どういう……」
「屋敷に来たおまえは花嫁衣装こそ身に纏っていたが、宝石の類いは一切身に着けていなかった。衣装と共に届けたはずなんだがな」
「え……?」
「宝石類は土地の者たちが懐に入れたか、おまえの両親の持ち物同様に売りさばいたのだろう」
顔を上げたシュエシの目尻からぽろっと涙がこぼれ落ちた。シュエシが長年感じていた疎外感は流れ者の子というだけではなかったということだ。いずれは売るための品として見られていたことに少なからず衝撃を受ける。
宝石がないことを領主が気づいても、問い詰められるのは土地の娘ではなくシュエシだ。もし罰を与えられたとしてもかまわないと思ったのだろうか。それとも東のものならなんでも好む領主だという話を信じ、宝石以上の価値があるシュエシを渡したのだから自分たちが責められることはないと思ったのか。
「だから人のほうこそ化け物だと言っただろう? 血が繋がらない、土地の者でもないおまえを善意で養うほどあの者たちは善人ではない。我が家族を手にかけた者たちと同じ化け物だったというだけだ。そもそもこのあたり一帯は人が住むより前から我らの住まう場所だった。それも森の奥でただひっそりと暮らしていただけだというのに、森もすべて自分たちのものだと言い始めたのは人のほうだ。それだけではない。屋敷に住む者が美しい姿をしていると知るや否や、土地屋敷と共に差し出せと欲を顕わにした」
段々と冷たくなる口調にシュエシの肌がゾワッと粟立つ。鏡に映る黄金色の瞳は氷のように冷たく光り、顔からは一切の表情がなくなっていた。
「はじめに屋敷の夫人が手籠めにされそうになった。抵抗した結果、土地の男が一人命を落とした。それに逆上した男たちの手で夫人は殺された。残していては面倒になるという理由でそばにいた子どもも殺された。まだ少女だった姉のほうは男たちに犯され殺された。異変を感じ慌てて屋敷に戻った主も殺された」
あまりの内容にシュエシは絶句した。旅の途中で見聞きしたどんなことよりもひどい話に血の気が引く。
「……もしかして、夢で見たあれは……」
「胸に杭を打たれていたのはわたしの父だ。子どもらはわたしと腹違いの弟妹になる」
「あんな、ひどいことを……」
「夫人を手籠めにしようとしたのは、この屋敷に住んでいた領主だ。刃向かわれて逆上し、子どももろとも夫人を殺せと命じたのも領主だ。父を化け物だと考えていた領主はその胸に杭を打ち込むよう命じた。あぁ、三人の首を切り離せと命じたのも領主だったな。そうすればたとえ化け物でも二度と生き返らないと思ったのだろう」
「そんなことをせずとも生き返ったりはしないというのにな」とつぶやく声も冷たい。
「当時、わたしは母とともに西の国いた。父の絶命を知りこの地に戻ったわたしは領主の首をはね、燃えた屋敷の代わりにここに住むことにした。我が家族を手にかけた者たちの首もはねたが、それ以上のことはしていない。前の領主が貪っていた花嫁の数も減らし、必要最低限の血のぶんだけもらっている。税を免除したのは興味がないからだ。わたしはこれだけ寛容だというのに、いまだに化け物と呼んでいるとは笑う気にもならん」
辛辣な言葉で淡々と話すヴァイルの様子にシュエシは胸を痛めた。つらく悲しい内容だというのに、そうした様子を見せないことが余計にシュエシを苦しくさせる。
「まぁ、あやつらの気持ちもわからんではない。土地の者たちは前の領主が心底恐ろしいのだろう。いまだに前の領主が屋敷に住み、娘を要求していると思っているようだしな」
ヴァイルが呆れたようにため息をついた。
「前の領主は一年に何人もの若い娘を求めては犯し、飽きれば売り払い、気に入らなければ散々いたぶって殺していた。我らよりよほどの化け物だ。そんな化け物でも自分の命は惜しいらしい。最期は命乞いなのか懺悔なのかわからん己の所行をわめき散らしていた。あのような化け物に比べればわたしは何倍も優しいというのに、人というものはさっぱり理解できん」
シュエシは十年以上ともに生きてきた土地の者たちのことを思い返した。
(だから、だったんだろうか)
土地の者たちを恐ろしいと思うことが何度もあった。それは両親が生きていたときからで、二人を失ってからはさらにそう感じるようになった。はじめは自分が土地の者ではないからそう感じるのだろうと思っていた。見た目が違う自分がうろついては嫌な気分になるのだろうと考え、誰の邪魔もしないように身を縮めて過ごすようになった。
だが、あの冷たい視線は品定めしていたのだ。そういえば声をかけてきた男たちが「味見くらいいいだろ」と言っていたが、そういう相手に売るつもりだったのかもしれない。
真実を知り、胸が軋むように痛んだ。領主を化け物と呼んでいたあの人たちこそが化け物だった。あの人たちに比べれば嫌悪感も自分の正体も隠すことなく話してくれるヴァイルのほうがよほど誠実な人のように感じる。
「僕は、ヴァイルさまを化け物だとは思っていません。それに、あの人たちのほうが……よほど……」
「ようやくわかったか」
シュエシが小さく頷く。
(もう土地の人たちのためにと考えるのはやめよう)
恩を返すためにと考える必要はない。これからは大切な人のことだけを考えて生きることにしよう。
(そうだ、母様のように大好きなヴァイルさまのことだけを考えて生きよう)
鏡越しに見る黄金色の瞳に胸が高鳴った。これからもこの瞳を見続けていいのだと考えるだけで体が熱くなる。手足がじんわりと火照り、頭も霞がかったようにぼぅっとしてきた。熱に浮かされるような感覚のままくるりと振り返ったシュエシが、美しい顔を見上げながらうっとりと微笑む。
「僕はヴァイルさまの花嫁です。花嫁としてそばにいさせてください」
ヴァイルを見つめる黒目はとろりと蕩け、顔には夢うつつの中にいるような陶然とした表情を浮かべていた。
「僕はヴァイルさまが好きです」
椅子から立ち上がったシュエシは、爪先立ちになると美しいヴァイルに顔を近づけた。そうして冷たい唇にそっと口づける。
「一生分、いいえ、来世の分まで愛しています」
甘く囁きながら再び唇を寄せる。夢見がちな表情を浮かべるシュエシの黒髪は薔薇の香油で艶やかに光り、その中に紅色の粒がいくつも瞬いていた。




