1 身代わりの花嫁
その土地には領主に若い娘を花嫁として差し出す古い習わしがあった。花嫁を差し出す代わりに、土地の者たちは労働や穀物、酒などで納める税を軽くしてもらう。元々は領主が代替わりする際に愛妾として求められていた娘たちだった。だが初めて嫁ぐのに愛妾というのはあまりに不憫すぎる。そこで土地の者たちは“花嫁”と呼ぶようになった。愛妾とはいえ相手は貴族、昔は差し出された娘たちもそれなりに幸せに暮らしていたという。
状況が一変したのは四十年ほど前からだ。それまで代替わりのときにだけ求められていた娘を毎年要求されるようになった。ときには一度に数人求められることもあり、土地の者たちは理不尽極まりない仕打ちに大いに憤慨した。それでも領主に逆らうことなどできるはずがなく、渋々受け入れ続けてきた。
ところが十年ほど前、突然「花嫁は年に一人でいい」というお達しがあった。だが、それに喜ぶ土地の者たちはいない。花嫁の代わりに何を求められるのだろうと怯え、いつその通達が届くのかと誰もが息を潜めた。しかし一人の花嫁以外に要求されるものはなく、税もすべて免除されたままでいる。多くの者たちは訝しみながらも喜んだが、年頃の娘を持つ親にとっては年に一度生贄を要求されることに変わりはなかった。
「これじゃあいつまで経っても生贄を捧げるようなものじゃないか」
「おい、生贄なんて言うな。領主様に聞かれたらどんな罰が下るかわからないぞ」
「いいや、あれは生贄だ。そうでなければ、なぜ娘たちは姿を現さない? なぁ、みんなもそう思うだろう?」
土地の者たちは年に一度集まるたび同じ話をくり返す。花嫁を生贄だと言うようになったのは四十年ほど前からだ。それまでは年に数回は娘の姿を見ることがあった。ところが毎年要求されるようになってからは一人も見ることがない。領主の屋敷に入った娘は二度と屋敷から出て来ることがなく、そのため生きているのか死んでいるのかさえわからなかった。
「領主様は人ではないかもしれない」
いつしかそう囁かれるようになった。そもそも十年以上姿を見せていない領主だ。それなのに年に一度だけとはいえ花嫁だけは要求し続ける。顔を見せることができないほど醜く衰えたのか、はたまた表に出られない何かがあるのか、土地の者たちはそう噂し、ますます気味悪がるようになった。
相手がたとえ貴族だったとしても、そんな得体の知れない男に嫁ぎたいという娘がいるはずがない。今年も土地の者たちは誰を花嫁にするかで大いに揉めていた。
「シュウを娘の代わりに差し出すのはどうだ?」
それは誰からともなく出た言葉だった。どの家の娘を差し出すか揉めていた親たちは、それは名案だと喜んだ。しかしすぐに我に返る。
「それでは領主様を騙すことになりはしないか?」
シュウというのは娘の名前ではない。元は東の国からやって来た流れ者の子で、両親が流行病で亡くなったあと土地の者が面倒を見ている青年だ。
「騙したとわかれば罰を与えられるかもしれないぞ」
領主はほかの土地の領主と違い、花嫁を差し出しさえすれば税の約束を守ってくれる。しかし娘の好みはうるさく、二十年と少し前に出戻りの娘を花嫁に差し出したときには大変なことになった。「こんな女を花嫁に寄越すとは!」と激怒し、罰だといって若い娘を一度に五人も連れて行った。
身代わりを差し出せば、また同じことが起きるのではないだろうか……土地の者たちはそう考えた。それでは娘一人を差し出すより悪くなる。
「随分と昔のことじゃが、領主様は東の国のものならなんでもお好きじゃと聞いたことがある」
静かになった部屋に最年長の婆のそんな声が響いた。その言葉に、集まっていた親たちは「それなら大丈夫だ」と胸をなで下ろした。「むしろよい者を差し出したと喜ばれるかもしれないぞ」と喜ぶ者までいる。娘を持つ親たちは互いに顔を見合わせながらこくりと頷いた。
こうして土地の者ではないシュウが身代わりの花嫁になることが決まった。
「おまえには花嫁として領主様の屋敷に行ってもらう」
土地のまとめ人にそう告げられたシュウは、表情を変えることなくただ一度こくりと頷いた。内心驚いてはいたものの、それを口に出すことない。シュウは自分が厄介者だということを理解していたからだ。
土地の者たちはさっそく花嫁の準備を始めた。といっても土地の者たちがやることはほとんどなく、とりあえずといった様子で領主から届いた花嫁衣装をシュウにあてがう。あとは毎日湯を使わせ肌を磨くように言うだけだった。
数日後、すっかり身綺麗になったシュウは花嫁として丘の上に建つ領主の屋敷へと向かうことになった。
出発当日、シュウは領主からの贈り物である花嫁衣装を身に着けていた。美しくも愛らしい純白のドレスにたっぷりのレースでできたベールは、土地の娘には贅沢なほど豪華で手が込んでいる。衣装を着たシュウは静かに迎えの馬車に乗った。見送ってくれたのは育ての親である年老いた男一人で、六歳で両親と死別したシュウはこの男の元で十八になるまで暮らしてきた。
「これまでありがとうございました」
頭を下げるシュウに、年老いた男は小さく頷いただけで言葉をかけることはない。
(僕はこれからどうなるんだろう)
馬車に揺られながらこの先を考え、これまでの自分を思い返した。シュウの本当の名はシュエシと言うが、土地の者たちは発音しにくいからとシュウと呼んでいた。シュエシの両親はこの土地より東のほうにある国から来た放浪者で、この土地にはたまたま立ち寄っただけだった。ところが流行病を得て呆気なく天に召されてしまい、残されたシュエシを引き取ったのが両親に部屋を貸していた男だった。
それからは男が寝床と食料を与えてくれた。シュエシにできることは買い物や荷物運びくらいで、いつか恩を返さなくてはと思っていた。だから今回の身代わりを引き受けることにした。
(男だとばれないといいけど……)
東の国の者らしく小柄で幼い顔立ちだからか、娘の格好をしていれば少女に見えなくもない。だが、いくら少女らしく見えても中身は男、花嫁衣装を脱げば男だとばれてしまう。そうなればどんな罰を与えられるかわからない。それでも土地の者たちに頼まれれば嫌だとは言えなかった。
(これしか僕にできる恩返しはない)
土地の者たちは、身内でもなければ土地の者でもないシュエシを追い出さず置いてくれた。この恩を返すためには黙って身代わりの花嫁になるしかない。シュエシが唯一持っているものはこの体だけで、この身一つで恩を返せるのならそれが一番いい。そう思いながらも心から納得しているわけではなかった。
(本当は身代わりなんて怖い……でも、断るなんてできるはずがない)
花嫁になった娘たちがどこか遠い土地に売られているのではないかという噂があることは知っている。恐ろしい化け物の生贄にされているのかもしれないという話も聞いた。それでもシュエシは断らなかった。断っても、いずれ土地を追い出されることになるとわかっていたからだ。
(どっちにしても僕にできることはこれしかないんだ。それに東の国の者は珍しいから、もしかしたら罰は与えられないかもしれないし)
この土地やさらに西の国では東の国の者は珍しく、とくに若い者は性別に関係なく高値で売れると聞いたことがある。それなら男であっても領主の機嫌を損ねることはないかもしれない。もしどこかに売られたとしても、土地を追い出されることと大きな違いはないような気がする。
覚悟を決めたシュエシは静かに馬車の外を眺めた。そうして丘の上に建つ屋敷の門をくぐった。
シュエシが領主の屋敷に到着して五日が経った。その間シュエシは一度も領主に会っていない。代わりに毎日顔を合わせているのが執事だという男だ。
シュエシが屋敷に到着したのは日が暮れかかった夕方で、広く古めかしい玄関にはポツポツとしか明かりが灯っていなかった。そんな薄暗い玄関で一人の男がシュエシを待っていた。
男を見た瞬間、シュエシは育ての親とも土地の者ともまったく違う美しい銀色の髪に驚いた。瞳は淡い黄金色で、その色もこの土地では見たことがない。背はとても高く、肌は陶器のように真っ白で、貴族の屋敷にいる男らしく仕草のすべてが優雅だった。
「本日から奥様のお世話をすることになりました執事のヴァイルと申します」
話す声さえ美しかった。シュエシは美しい執事をただただ惚けたように見つめた。
その日から、シュエシの身の回りのことは美しい執事がすべて整えてくれている。朝の目覚めから夜の就寝まで、まるでシュエシ専属の従者のように仕えていた。
「奥様、明日の朝食も同じ時間でよろしゅうございますか?」
「はい、あの、ありがとうございます」
「使用人に敬語は不要でございますよ」
そう言われるのは何度目だろうか。何度言われても使用人がいる生活を送ったことがないため、つい敬語で返事をしてしまう。土地の者たちにも常に敬語だったからか、それ以外の受け答えが出てこなかった。
(それに、この人は僕よりずっと年上だろうし……)
美しすぎる姿から年齢を読み取ることは難しい。しかし自分より十歳は年上に違いない。「三十に近いか、それより少し上くらいかな」と思いながら執事をちらりと見る。美しい瞳と視線が合い、慌てて目を逸らしながら「でも、」と小声でつぶやいた。
「わたしは執事でございます。奥様が敬語を使われる必要はございません」
「……すみません」
小さな声で謝ると美しい顔に微笑みが浮かぶ。その笑顔を見た途端にシュエシは自分の顔が熱くなるのを感じた。きっと真っ赤になっていると思い、慌てて顔を伏せる。
(どうしよう……こんな美しい顔を見たことがないから、どうしていいのかわからない)
執事の顔も仕草も言葉遣いも、すべて初めて目や耳にするものばかりだった。そのせいかいつも見惚れてしまい、そのたびに我に返っては恥ずかしくなる。そんなシュエシの気持ちは執事に筒抜けらしく、チラチラ視線を向けるたびに美しい笑みを浮かべる。それを見てさらに惚けてしまい、さらに執事が笑うといった有り様だった。
「奥様、湯浴みの用意ができてございますが」
「あ、ありがとうござ、あの、ありがとう……」
「今日は少し熱めの湯にしてございますので」
「はい、わかりました、じゃなくて」
「湯浴みのお手伝いをいたしましょうか?」
「はい、あっ、いえっ! 一人で大丈夫です、から……」
湯浴みのとき、毎回こうして手伝いが必要かと尋ねられる。そのたびに断っているはずなのに、翌日になるとこうしてまた「お手伝いをいたしましょうか?」と尋ねられた。
(きっと僕が惚けて見ているからだ)
シュエシはなんとなくそう思っていた。慌てるたびに執事が美しい笑みを浮かべるのも多少のからかいが混じっているのだろう。いまも顔を赤くしながら慌てる自分を美しい笑みを浮かべながら見ている。
「では、後ほどお茶をお持ちいたします」
「はい、ありがとうござい、あの、ええと」
「タオルは浴室に置いてございますので、お風邪を召されませんよう」
「……はい」
最後にクスリと笑った執事に耳まで赤くしながら、部屋を出て行く背中をそっと見送った。部屋から十分遠ざかった頃合いを見計らい、誰もいない浴室へと入る。そうして「ふぅ」と息を吐いてからドレスと下着を脱いだ。
シュエシに与えられる服は、当然ながら少女が好むようなものばかりだった。その中から比較的動きやすそうで体の形がわからないゆったりしたものを選んで着ている。クローゼットには美しく豪華なドレスもあったが、どうやって着るのかわからないため袖を通そうと思ったことはない。
幸い、領主に会うことがないため豪華なドレスの出番はなかった。それでもまったくドレスを着ようとしないことを不思議に思ったのか、執事に「華やかなドレスはお嫌いでございますか?」と尋ねられたときには焦った。
(あのときはなんとか誤魔化すことができたけど……)
いつまで誤魔化せるだろうか。シュエシは体が小柄だからか声があまり低くない。おかげで少女の声に聞こえなくもないからか、言葉を交わしても執事が男だと気づくことはなかった。髪も肩につく長さだったため髪型からばれることもない。それでもドレスを着れば、さすがに男だとわかってしまう。
クローゼットに並んでいる豪華なドレスのほとんどは胸元が大きく開いている。それを着れば、いくら発育の悪い娘だと説明しても誤魔化しようがなかった。世の中には慎ましやかな胸の娘もいるだろうが、近くで見ればそうでないことはすぐにわかる。
執事には「華やかなドレスは似合わないので」と答えた。すぐに「下手な嘘をついてしまった」と恥ずかしく思ったものの、嘘だと思わなかったのか執事は小さく笑っただけでそれ以上は何も言わなかった。
(こんな状態でいつまで誤魔化せるかな)
正確には「騙せるか」だ。そう思うと胸がズキンと痛む。こんな自分に優しく接してくれる執事を騙していることが申し訳なくて眉尻が下がった。嘘をついていると知ったとき、あの美しい笑顔が消えてしまうのではと想像するだけでつらくなる。
「……しっかりしないと」
自分は身代わりの花嫁としてここにいるのだ。執事の気持ちを気にしている場合ではない。それにいつ領主に会うことになるかわからないままだ。
(でも、いつかは必ずお会いすることになる。そのとき僕はうまく立ち回れるだろうか)
男だと知られたあと、土地の者たちがどうなるかは自分次第だと思っていた。自分は東の国の者だから高値で売ってほしいと訴えるつもりではいるものの、その前に領主の機嫌を損ねるわけにはいかない。機嫌を損ねれば自分だけでなく土地の者たちにも罰が下されてしまう。
(それだけは避けないといけない)
恩を仇で返すわけにはいかない――シュエシはそう決意しながら、温かな湯に浸した布で体をゆっくりと拭った。