16話 サクラの夢Ⅱ
翌朝、障子越しに差し込む光で、私は目を覚ました。
やわらかな朝日が畳に滲み、夜の名残をそっと溶かしていく。
――朝だ。
胸に手を当てると、心臓の鼓動は穏やかだった。昨夜まで胸の奥に居座っていた重たい何かが、嘘のように消えている。
私はうーんと背伸びをした。昨夜の湯の余韻がまだ身体に残っていて、どこか心地よい気だるさがある。
ゆっくりと息を吸い、そして吐く。
それだけで、世界が少しだけ優しくなったような気がした。
前世のことを話した。
隠し続けてきた記憶も、恐れも、弱さも――すべて。
それでも、私はここにいる。
ふと視線を向けると、隣の布団ではカミルが静かな寝息を立てて眠っていた。
穏やかなその寝顔を、私はしばらく眺めていたくなる。
「ん……エリィ、おはよう……」
まぶたがゆっくりと開き、カミルがぼんやりとこちらを見上げる。
「おはよう、カミル」
起きたばかりの彼の髪は、あちこちに寝ぐせが跳ねていた。
その無防備な姿が可笑しくて、思わずくすりと笑いがこぼれる。
きょとんとした顔でこちらを見つめるカミルに、ますます笑みは抑えきれなくなった。
「昨夜はよく眠れたかい?」
「ええ、おかげさまでね」
「……なんで、笑ってるの?」
不思議そうに眉を寄せる彼に、私は肩を震わせながら答える。
「ふふ……寝ぐせがついてるわよ」
「えっ」
カミルは慌てたように自分の髪に手をやった。
指先であちこち触ってみるものの、どう跳ねているのか自分では分からないらしい。
「ああ、恥ずかしいな……」
私は身を乗り出し、彼の頭の後ろを指差す。
「ここよ、ほら、ぴょこんって」
カミルはますます困った顔になる。
「見えない……」
その様子がおかしくて、また笑ってしまう。
「じっとしてて」
私はそっと手を伸ばし、跳ねた髪を指先で押さえる。
寝起きの髪は思ったより柔らかくて、くしゃりと指の間でほどけた。
私はそっと手を伸ばし、跳ねた髪を指先で押さえる。
寝起きの髪は思ったより柔らかくて、くしゃりと指の間でほどけた。
カミルは照れくさそうに髪を撫でつけながら、まだ少し眠たげな目で私を見ている。
そんな何気ない朝のやり取りが、どうしようもなく愛おしかった。
私たちは宿屋で朝食をとり、名残を惜しみながら温泉街をあとにした。
***
屋敷へ戻ったのは、昼下がりのことだった。
出迎えてくれたのはサクラだ。私は彼女と並んで縁側に腰を下ろし、差し出された薄茶を手にしていた。屋敷へ戻ったのは、昼下がりのことだった。
金粉を散らした菓子皿には、小さな練り切りがひとつ。淡い桃色に染まった花の形がちょこんと載っている。
ひと口含むと、控えめな甘さが舌の上でほどけていく。
「どうでしたか? デートは楽しめましたか?」
サクラが湯呑を両手で包み、いたずらっぽく目を細めて尋ねる。
「ええ、楽しかったわ。素敵な宿を紹介してくれてありがとう」
「いえいえ、楽しんでいただけたなら、なによりです」
サクラは微笑み、相槌を打った。
陽光を受けた黒髪が青みを帯び、絹のような艶を放って揺れた。
私はその光景を眺めながら、昨夜の温泉街での光景を思い返していた。
提灯の灯り、湯けむりに霞む夜空、そして――カミルの手の温もり。
すべてが夢のように、心の奥にやさしく残っている。
そのカミルというと、今日はこの国の医師たちが開く勉強会に参加すると言って出掛けていった。
異国の医療に強い関心を寄せる彼らしい行動で、今ごろはきっと真剣な眼差しで討論を交わしているのだろう。
私はその姿を思い浮かべ、自然と口元が緩んだ。
縁側を渡る風が、茶の香とともに頬を撫でていく。
その静けさが、どこか心地よかった。
「その簪も素敵ですね。昨日買われたんですか?」
湯呑を置いたサクラが、私の髪に挿された一本の簪に目を留めた。
そこには、翡翠の花をかたどった髪飾りが静かに揺れている。淡く透き通るような緑はやわらかな光を帯び、見る角度によってはほのかに煌めく。まるで、朝露を宿した若葉のような色――どこか、カミルの瞳を思わせる優しい緑だった。
「……カミルからの贈り物なの」
思わず、指先で簪に触れる。
嬉しさと、少しの気恥ずかしさに、頬がふわりと熱を帯びた。
「まあ……! 本当に、お似合いです」
サクラは目を細めて微笑む。
「ありがとう」
そう返したものの、頬の熱がまだ引いていないことを自覚していた。
贈り物をもらい慣れていないせいかもしれない。けれど――あのときのカミルの表情が、ふと脳裏によぎった。
私の髪にどれが一番映えるのか、真剣に選ぶ彼の横顔。少し困ったように眉を寄せながら、それでも楽しそうに選んでいた姿。
その記憶がよみがえるだけで、胸の奥がくすぐったいほど温かくなる。
「カミル様は、本当にエリザベート様のことを大切にしておられますね」
サクラの声が、やわらかく私の胸に落ちる。
「……そうね。きっと、私の方がずっと、支えられているわ」
障子の向こうで、庭を渡る風が木々の葉を揺らす。池の水面もゆるやかに波打った。
その音に紛れるように、私はそっと笑みを零した。
「政略結婚なのでしょう? 本当に仲が良くて羨ましい限りです。私もお二人のように仲のいい夫婦になりたいものです……」
ヒノモトでも、自国でも、身分の高い者に恋愛の自由はない。
愛よりも義務。結婚は家のため――それが常識。私とカミルの結婚が政略のものだと思われても仕方ないの事だった。
「ああ……実は、私たちの結婚は恋愛結婚なのよ」
「えっ、恋愛結婚ですか!?」
サクラの目がまんまるに見開かれた。
驚きのあまり、湯呑の中のお茶がかすかに揺れる。
「……政略結婚の相手はいたのだけれど、上手くいかなくて。そのあと、ビジネスパートナーだったカミルと結婚したの」
「そう……なんですね……。驚きました。恋愛結婚……が許されているだなんて。その、娘というのは……家の繁栄のための政略の駒、というのが常識ですから」
「そうね……」
少し考えてから口を開いた。
「私の国でも、女の立場が特別高いわけではないの。でも、数は少ないけれど、女の領主もいるのよ。私自身、公爵家の爵位は私が持っているしね」
その話を聞いて、サクラはしばらく黙っていた。湯呑を見つめるその瞳に、光と影が揺れる。
やがて、意を決したように唇を開いた。
「……私、この頃、ずっと考えていたのです。女が家のために嫁ぐのが幸せ――そう言われて育ちましたけど、本当にそれだけでいいのだろうかって」
静かな声だった。
言葉は慎重に紡がれていく。
「エリザベート様を見ていると……ますます考えてしまうのです。自分の道を選んで、仕事をして、大切な人と共に生きて……。そんなふうに生きている女性が、ヒノモトの外にはいるのだと知って」
そこでサクラは小さく息を吐き、かすかに苦く笑った。
「女の幸せとは何なのだろう、と」
その問いは、独り言のようでもあり、長い間胸に抱えてきた疑問のようでもあった。
私はしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「難しいわね。人によって違うものだと思うの。結婚して家庭を守ることに幸せを見つける人もいるし、そうじゃない人もいる。ただ――誰かに決められた幸せじゃなくて、自分で選んだものなら……きっと後悔は少ないんじゃないかしら」
サクラは、はっとしたように目を瞬かせた。
「自分で……選ぶ」
「夢を、諦めきれないんでしょう」
サクラはゆっくりと目を閉じた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
「……私は生まれながら道が決まっていました。この国のために、いつかどこかへ嫁ぐ。それが私の役目だと、ずっと思っていました」
しばらく沈黙が落ちる。
そして、彼女はぽつりと続けた。
「けど、もし……もし許されるなら……やっぱり、私も――自分の足で、世界を見てみたい……です」
「そうね」
私は頷き、サクラをまっすぐ見つめる。
「その覚悟はある? 人と違う道を歩くのは生半可ではないわよ」
「えっ……」
サクラが顔を上げる。
驚きに揺れる瞳を、私は逸らさず受け止めた。
「……貴方の夢の話をきいて、じっくり考えたの。貴方、大使としてリューベンハイトの国へ来てみない?」
サクラの瞳が、大きく揺れた。
「た、大使……ですか?」
「ええ。ヒノモトとリューベンハイトは、これから本格的に交流を深めていくわ。文化も商いも、まだ始まったばかり。橋渡しができる人が必要なの」
私は庭へ視線を向けた。
満開だった桜が、風に揺れてはらはらと散っている。薄紅の花びらが空を舞い、やがて静かに地面へ降り積もる。
「この国を愛していて、外の世界にも目を向けられる人。両方を理解できる人が必要なのよ」
そして、もう一度サクラを見る。
「私は、それが貴方だと思った」
サクラは言葉を失ったように黙り込んだ。
指先が、膝の上でぎゅっと握られている。
「で、でも……」
ようやく絞り出した声は、弱々しかった。
「私はただの姫で……政治のことだって、そんなに詳しいわけじゃ……」
「それは、これから学べばいいことよ」
私は穏やかに言った。
「むしろ大事なのはそこじゃないの。異なる文化を理解しようとする心。人の話を聞こうとする姿勢。それがあれば、いくらでも成長できるんじゃないかしら」
サクラは、はっとしたように顔を上げた。
私は少しだけ笑う。
「それにね、サクラ。姫として政略結婚するよりも、大使として同盟関係を築く方が、国益になる場合もあると思うの。外交の象徴としてね」
その言葉に、サクラの目が見開かれる。
「それは……」
「つまり、貴方の夢と、国の利益を両立させる道があるかもしれない、ということよ」
しばらく、沈黙が落ちた。
庭のどこかで、小鳥が鳴く。
サクラはゆっくりと立ち上がり、縁側の先に広がる庭を見つめた。
陽光がその横顔を照らす。
その瞳の奥で、何かが揺れている。
恐れ。
迷い。
そして――小さな希望。
「……そんな道が」
ぽつりと呟く。
「本当に、あるのでしょうか。でも、きっと……父上は許してくれないと思います」
私は静かに息を吐く。
「反対されるでしょうね」
サクラの肩がびくりと揺れた。
「この国の常識からすれば、当然よ。女の身で外交官になるなんて、前例がないもの。だも、だからこそ意味があるとは思わない? 女の立場を向上させたいとも言っていたでしょう」
私は急かさず、穏やかに続けた。
「すぐに答えなくてもいいわ」
「……」
「でも、覚えておいて。貴方がもし世界を見たいと思うなら……」
私は微笑んだ。
「リューベンハイト国に、貴方の居場所を用意できるわ」
その瞬間、サクラの瞳の奥で何かが揺れた。
長い間、胸の奥に眠っていた夢が――
目を覚まし始めているのを、私は感じていた。
皆さまに大切なご報告があります。本作が【書籍化】しました!
第一章を大幅に加筆し、書き下ろしの番外編も収録しております。
さらに書籍版では、米や和菓子を求めるエピソードや、エリザベートの前世に迫る描写が追加されており、第2章をより楽しんでいただける内容となっています。
これまで応援してくださった皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。
書籍は5月1日に発売予定です。
ぜひお手に取っていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。





