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11話 サクラの夢

屋敷に戻るころには、空はすっかり藍に沈み、回廊の灯りが足元を淡く照らしていた。

昼間の蔵の熱気が嘘のように、夜風はひんやりと頬を撫でる。

用意された客間で、ようやく一息ついたときだった。


「サクラ、改めて今日はありがとう」


「いいえ、大してお力になれず……」


「そんな事はないわ」


即座にそう返すと、サクラは一瞬言葉を詰まらせ、視線を伏せた。


「……やはり、この国では、女は軽んじられていますね」


低く落とされたその声に、苦い思いが滲む。


「でも……分かってくださる方もいたわ。色眼鏡で見ず、判断してくれたじゃない」


そう続けると、サクラはかすかに微笑んだ。けれどその表情はすぐ翳り、静かに言葉を継ぐ。


「そうですね。ですが……この国では、女が外に出て働くことも、学ぶことも、いまだに多くの者に認められていません。今日改めて、女性の立場は弱いのだと痛感しました……」


その声は怒りでも泣き言でもなく、ただ事実を受け止めた者の静かな強さを宿していた。


「……私の父は理解ある方で、外国語を学ぶことも、こうしてエリザベート様の案内役として外交の場に立つことも、許してくださいました。ですが、それだけでは物足りないと思っている私がいて……」


サクラの視線が窓の向こう――遠く、海の向こうへ伸びた。


「幼い頃から夢がありました。いつか海を越えたい、と」


口元にかすかに笑みをたたえるサクラ。

その表情は、どこか懐かしさと切なさを湛えていた。


「海の向こうの国々に、どんな人々がいて、どんな文化があるのかを、自分の目で見てみたかった。けれど、私は女の身。そんな夢、叶うはずがないと、ずっと諦めていました」


湯呑の中の茶がわずかに揺れ、光が反射してきらめいた。

その揺らめきが、彼女の心の奥で燻る情熱を映し出しているようだった。


「……でも、エリザベート様にお会いして、思いました。夢は“女だから”という理由で諦めるものではないのかもしれない、と……」


「サクラ……」


「もちろん、今のヒノモトでは難しいでしょう。女が海外へ渡るなど、まだ夢物語です。ですが――いつか、女性でも外の世界に関わる仕事ができる日が来るかもしれない。直接海を越えられなくても、この国にいながら世界と繋がる役割を担える日が来れば、と思います」


サクラは、湯呑をそっと置いた。

その仕草は静かでありながら、迷いのない決意が滲んでいた。


「たとえそれが、ほんの小さな一歩でも構いません。異国の文化を伝えること、人と人を結ぶこと……そんな橋渡しの役目が、いつか女の手でもできるようになる日が来ればと願っています」


そう言って、熱く語ってしまった事を照れる様にはにかんだ。


「……きっと、貴方なら出来るわ」


自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれた。

誰かに夢を肯定してもらうことが、どれほどの力になるか――私は知っている。


サクラははっとして私を見つめ、そしてゆっくりと微笑んだ。


「……ありがとうございます、エリザベート様。私、頑張ります」


私はそっと湯呑を置き、縁側の向こうの庭を見やった。

花びらが散り始めて、若葉が芽吹いていた。

風が吹くたび、青葉が光り、まるで未来への希望が揺れているようだった。


「……私たちが出会えたのも、きっと偶然ではないと思うの」


「え?」


「この国と親交を深めたい私の思いと、貴女の夢――出会うべくして出会ったの。縁というのは、こういうものではないかしら」


サクラはその言葉に、息をのんだ。

そして次の瞬間、花のように微笑んだ。


「そうですね。エリザベート様……私、もっとあなたのお話を伺いたいです。きっと学ぶことがたくさんありますわ」


「ふふ……それはこちらの台詞よ。この国の事をたくさん知りたいの。お話を聞かせてちょうだい」


ふたりの笑い声が、庭に溶けていく。

灯籠の淡い光に照らされて、桜の花びらがひらり、ひらりと夜気の中を舞い落ちた。


***


サクラとの和やかな会話を終え、部屋に戻ろうと立ち上がった、その瞬間だった。

障子に手をかけ、静かに引いたはずの指先とは裏腹に、建て付けの音が思いのほか大きく響く。

開いた障子の向こうに立っていたのは、ツキシマだった。

その視線は、取り繕うことのない拒絶と、刃物のように研ぎ澄まされた警戒心を宿し、真っすぐに私を射抜いていた。


「――異国の貴族が、軽々しく姫に近づかないで貰いたい」


短く、鋭い言葉だった。吐き捨てられたその声に、私は思わず唇の端をわずかに上げた。


「……軽々しく、ですって?」


わたしはあえて笑った。

そして、その目をまっすぐに見返す。


「そちらこそ、随分な挨拶じゃなくて? ……私の国の商人がサクラ姫に失礼を働いた件なら、謝るわ。けれど、その商人は処罰することも約束したのに、まるで加害者であるかのように私を扱うのは、ちょっと理不尽じゃなくて?」


処罰を約束して以来、わずかに態度が和らいだかと思えば――やはり、根は変わらない。

ツキシマは相も変わらず不遜な目を向け、ふん、と鼻を鳴らした。


「俺はただ、姫を守りたいだけだ」


低く落とした声の奥には、忠義と誇り、そして――恐れのようなものが混じっていた。


「……素晴らしい忠誠心ね。けれど、私はサクラを傷つけたりなんてしてないわよ」


その言葉に、彼の目が一瞬だけ揺れた。

だが、次に返ってきた言葉は、やはり鋭く冷たいものだった。


「姫に悪影響を与えないで貰いたい」


「は?」


「この国では、お主のように自由に生きる事は出来ない。身分のある女性は特にな。周囲から非難され、居場所を奪われる。――苦しむのは姫だ。甘言で姫を惑わすのは、止めてもらおう」


「何よ、それ……」


「今この国では、外つ国への反発が強い。表立って動かぬだけで、排除を望む者もいる。そんな中で、お前のような異国人と親しくしてみろ――姫は憎悪の的になる。俺は……、姫を傷つけたくない」


最後の言葉だけが、静かに落ちた。

その声音に含まれた焦燥と恐れが、胸に鋭く刺さる。


彼は必死だった。必死に、サクラを守ろうとしていたのだ。

けれど、私はその声の奥に、別の感情も読み取った。


私は静かにまぶたを伏せ、深く息を吸った。

そして、裾をひとつ揺らしながら、彼の前へと歩み出る。

畳がきしむ音が、張りつめた空気の中で妙に大きく響いた。


「あなたは怖れているのね――サクラが、変わってしまうことを」


「……!」


ツキシマの表情が一瞬でひび割れた。

怒りとも困惑ともつかない影が走り、その奥に、確かに“恐れ”が見えた。

図星を突かれた痛みが、拳の震えとなって滲み出ている。


それでも彼は、何も言わなかった。

ただ沈黙のまま、剣を抜く寸前のような鋭い視線で私を見据える。


私はその沈黙を、あえて壊さなかった。

少しだけ視線をやわらげ、低く静かに続ける。


「貴方の気持ちは理解できるわ。大切な人だからこそ、傷ついてほしくないのね。この国の常識や掟を破った時に、彼女がどれほど非難を浴びるか……心配しているのでしょう」


「……そうだ。だから俺は、守らねばならん。叶わない夢など見なければ、傷つかずに済むのだ。身分ある娘は、殿が定めた男に嫁ぎ、大事にされて……そこそが、この国での女の幸せなのだ」


その声には、怒りよりも哀しみが混じっていた。

まるで、自分に言い聞かせるような響きを持っていた。


「――それは違うわ」


私の声が、自然と強くなった。

彼の黒い瞳がこちらを捉える。


「夢を見ることは、傷つくことと同義じゃない。確かに道は険しいでしょう。それでも――傷つくかもしれないという理由で夢を閉ざすことが、幸福だなんて私は思わない」


――夢を諦めて、親に決められた人と結婚する。

与えられた立場と役目を受け入れて、周りから期待されるままに敷かれた道を歩く。


それが“女の幸せ”だと、そう言われたなら。

果たして本当に、サクラは幸せになれるのかしら?


私はゆっくりとまぶたを閉じた。


……いいえ。

私はそうは思わない。


私も、かつてその道を歩こうとしていたから。もしあのまま進んでいたら、破滅が待っていた。


「あなたが守っているつもりのその檻こそ、彼女の未来を奪い、閉じ込めているのではないかしら?」


サクラは、あなたの鳥かごの中の小さな鳥じゃない。

決して、守るために閉じ込めるべき存在ではない。

彼女は羽ばたくための力を持っていると、私は信じている。


「……あなたも、彼女の幸せを願うのなら――、その一歩を信じてあげたらどう?」


ツキシマは何も言わなかった。

ただ、強く握りしめた拳を下ろし、ほんのわずかだけ視線を伏せた。


「……ツキシマ。貴方、サクラと一度話した方が良いわよ」


私はそっと息を吐き、ドレスの裾を揺らしながら、静かに踵を返した。


――時間の猶予は与えたわよ。


背後から届いたのは、何の返事もなかった。ただ、遠く、沈黙のなかに立ち尽くす気配だけだった。


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