9話 花魁と鉛の白
夕暮れのヒノモトの街は、茜色の空に灯がひとつ、またひとつと点り始める頃だった。
今日はサクラにヒノモトを案内してもらった。城下の呉服店、賑やかな魚市場、そして静かな寺院の庭まで歩いた。
通りには団扇を片手にした町娘や、商売人の男たちの笑い声が満ちている。
私は、隣を歩くカミルとともに、賑わう往来をゆっくりと歩いていた。
「今日は、ずいぶん歩いたわね」
私が息を整えながら言うと、カミルは懐から懐中時計を取り出し、少し驚いたように眉を上げた。
「気づけば半日以上経っているんだね」
「サクラが張り切ってくれたもの。あれも見せたい、これも知ってほしいって。呉服店、魚市場、寺院……お陰で色々と知る事が出来たわ」
「そうだね。おかげでヒノモトという国がどんな国なのか、分かりました。サクラ嬢、ありがとう」
カミルの感謝の言葉に両手を振り、少し照れたように頬を染める。
「そ、そんな……どういたしまして」
「私からも感謝するわ。着物があまりにも素晴らしくて、呉服店では、つい何着も仕立ててしまったもの」
そう言いながら、私はふと、路地の先に見える朱塗りの門へと視線を向けた。
その時だった。
道端で、ひとりの女性がふらりと身体を揺らし、土塀にもたれかかる。
薄紫の打掛に身を包み、黒髪を高く結い上げた姿は、ひと目で分かるほど整っている。しかし、その肌は不自然なまでに白く、血の気を失った唇は青く色づいていた。
「……大丈夫? 貴方、顔色が悪いわ」
思わず駆け寄ると、女性はかすかに首を振り、笑みとも苦痛ともつかぬ表情を浮かべた。
「お見苦しいところを……お嬢さん、どうぞお構いなく」
その声には艶があるが、喉の奥で掠れていた。
カミルが膝をつき、彼女の脈を取る。
「冷たい。……血の巡りが悪いな。それに、この香り……」
彼は眉をひそめ、袖口をかすかに嗅ぐ。甘く、重い香。白粉と香料が混ざり合い、むせ返るほどだった。
私はそっと女性の頬に触れる。粉の下の肌は荒れ、細かな亀裂が走っていた。
――なるほど。原因は、これね。
「このまま放ってはおけないわ。お宅はどちらですか? お連れしましょう」
私は身をかがめ、彼女の手を取った。冷たい指先がわずかに震えている。
カミルと視線を交わすと、彼も静かにうなずいた。
「行こう。放っておける状態じゃない」
私たちはその女性の肩を支え、ゆっくりと歩き出す。
彼女が口にしたのは、「世話になっている」という一軒の店の名。それは、町でもひときわ灯りが華やかな界隈、すなわち花街にある店だった。
すると、ツキシマに呼び止められる。
「そこは……いささか、姫様の行き先として相応しくござらん。申し訳ないが、護衛としてそこに行くのは許せない――」
彼の顔には明らかな戸惑いと警戒の色が浮かんでいた。
だが、サクラがぴしゃりと言い返す。
「体調の悪い方を見捨てることのほうが、よほど恥ずかしいことよっ!」
「けれど、そこは……」
「ツキシマが許してくれないなら、私達だけで行くわ」
ツキシマは渋い顔をしていたが、最終的に首を振ってくれた。
「……では、俺も参ります。何かあったら困りますから」
私たちは、提灯の灯りが連なる花街へと足を向ける。夜風に混じる香の匂い、遠くから聞こえる三味線の音。その中を、ひとりの女性を支えながら歩いていった。
店の戸口をくぐると、鈴の音がかすかに鳴った。
中から駆け出してきたのは、まだ年若い娘だった。
「姐さん! どうしたんですか!」
薄桃色の着物の裾を押さえながら、娘は駆け寄る。
女性――先ほど助けた花魁は、壁に手をつきながら息を整え、かすかに笑んだ。
「……具合が悪いところをねえ、助けられてね。連れてきてもらったんだよ」
「そんな……姐さん……」
娘は目を潤ませながら、こちらへ向き直った。
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げるその姿は健気で、どこか幼さが残っている。
ほどなくして店の者たちが駆けつけ、「姐さん」を両脇から支え、奥の部屋へと連れていった。
香の匂いと女たちのざわめきが、廊下の奥へと消えていく。
残された娘が、改めて私たちを見上げた。
「ええと……あなた方は?」
彼女の瞳には、明らかな戸惑いが浮かんでいる。
金髪に青い目。異国の衣をまとった私たちは、ここではひときわ目立っていた。
そんな空気をやわらげるように、カミルが穏やかに微笑んだ。
「実は、僕たちは海外から交易のために参っている者です。今は、藩主さまのお城でお世話になっているんですよ」
「えっ、藩主様のところに!」
娘は目を丸くし、すぐに背筋を正した。その表情には緊張と、そして安堵の色が混じっている。身分の確かな人間だと分かり、安心したのだろう。
カミルは軽く頷き、少し声を落として続けた。
「実は僕は医者なのですが……先ほどの彼女の具合が気になりまして」
「お医者様……!」
娘の顔がぱっと明るくなる。
「それなら、ぜひ姐さんを診てあげてください! 最近どうも体調が悪くて……」
私とカミルは目を合わせ、静かにうなずいた。
――やはり、放っておくことはできない。
花の香りの奥に潜む、見えない病の気配を感じながら、私たちは奥の座敷へと足を踏み入れた。
店の奥へと進むと、空気がひんやりと変わった。
障子越しに差し込む夕暮れの光が、畳の上に淡い朱を落としている。
香の煙が細くたなびき、かすかに白粉と香水の匂いが混ざり合っていた。
「こちらです」
案内してくれた娘が、静かに襖を開けた。
中には、先ほどの花魁が布団に横たわっていた。
薄く紅を引いた唇は乾き、呼吸は浅い。
額には冷や汗が浮かび、首筋にはわずかな震え。
見た目の華やかさとは裏腹に、彼女の身体は限界に近いのが一目でわかった。
「姐さん……お医者様が来てくださいましたよ」
娘がそっと呼びかけると、花魁はゆっくりと目を開けた。
「え? おや……先ほどの……。お医者様だったんだね」
かすれた声でそう言い、微笑を浮かべようとする。
しかし唇が震え、力が入らない。
カミルはそっと膝をつき、持っていた手提げ鞄から聴診器を取り出した。
「ご無理はなさらず。少し診せていただきますね」
彼の動きは静かで、無駄がない。
脈を取り、瞼を持ち上げ、喉の色を確かめ、香の匂いに鼻を寄せる。
やがて、眉をわずかに寄せた。
「やはり……」
カミルは低く呟く。
「どうなんですか? 姐さん、病気なんですか?」
娘が不安そうに身を乗り出した。
「病というより――慢性的な中毒ですね。白粉に混ざっている鉛が、少しずつ身体を蝕んでいるようです」
「鉛……?」
娘が首をかしげると、カミルはうなずいた。
「白粉の中に、毒が含まれているのです。毎日塗り重ねれば、皮膚から体内に入り込み、血を濁し、臓を弱らせていくんです」
私は花魁の枕元に座り、彼女の手を取った。細く、骨ばった指先。白粉の下に隠された手のひらは、冷え切っていた。
花魁はその感触を拒むことなく、かすかに微笑み、ゆっくりと目を閉じる。
「けど、毒だからって化粧は止められないよ。この身は見世物だからね……いつだって、美しくなきゃならないんだよ」
花魁の言葉に、私は胸の奥がきゅっと締めつけられた。
毒と知りながら、それでも笑って美しくあろうとする。その姿は痛ましくも、どこか気高かった。
「……そんな。自分を削ってまで美を保たなければならないなんて」
「はっ、安っぽい同情なら要らないよ」
私は首を振る。彼女の手を包み込み、静かに息を吸った。
「でも、毒に頼らなくても、美しくなる方法はあるわ。肌を傷つけず、命を削らずに――。私がこの国に来る前に、開発したの」
花魁がゆるりと目を開け、かすかに眉を上げた。
「毒じゃない……化粧、ってことかい?」
「ええ。自国でも、鉛を使った化粧品による健康被害が問題になったの。それで、体に害のない素材だけを使って化粧品を作ったわ。もしよければ、その化粧品を譲るわ。あなた一人だけでなく、芸子の皆さんで使ってほしいの」
私の提案に、花魁はしばし黙り込み、ふっと笑った。
「ふふ……あんた、変わってるねぇ。私達にみたいな、末端の人間の事を気にするなんてさ……」
「身分なんて、関係ないわ。安心して使える化粧品を、みんなに使ってほしい。それだけよ」
花魁は、じっと私の顔を見つめていた。値踏みするようでもあり、何かを確かめるようでもある視線。けれどすぐに、その瞳から棘がすっと抜け落ちる。
「……変な人だね、ほんと」
そう呟いて、彼女は小さく息を吐いた。
「良いよ、ありがたく使わせて貰おうか。ただし、正体の分からないものを、いきなり他の芸子に使わせるわけにはいかない。まずは私が使う。大丈夫だと分かったら……その時、周りにも配らせてもらうよ」
「ええ。それでいいわ」
後ほど化粧品を届けさせる。そう約束を交わし、私達は席を立つ。
「またおいで」
見世を後にする間際、花魁はそっと私の手を取り、ぎゅっと握り返した。
その指先には、先ほどまでの冷えはなく、かすかな温もりが残っている。
「お礼に、芸を見せてあげるよ。うちの見世一番の芸をね」
「あらっ……良いの?」
思わず聞き返すと、彼女は悪戯っぽく唇の端をつり上げた。
「もちろん。あんたたちの気持ちが嬉しかった、その礼だよ」
障子越しに射し込む行灯のあかりが、彼女の白粉を透かして柔らかく照らした。
儚いその姿が、まるで夜明け前の花のように美しく見えた。
私は軽く頭を下げ、そっと部屋をあとにした。
背後で、花魁たちの笑い声が、鈴のように転がっていた――。
悪役令嬢ものの短編を2作書きました!
『あくまで悪役令嬢だもの』
『モブの俺が悪役令嬢にプロポーズしたら、乙女ゲームのシナリオが崩壊したのだが ~死の大地と呼ばれた領地を本気で復興してみる~ 』
どちらも「ざまぁ」あり! よろしければ、お時間のあるときに読んでいただけると嬉しいです。
完結間近の『婚約者に冷遇された令嬢、妹の身代わりに嫁いだら辺境伯に溺愛されました 』もよろしくお願いします!




