第9話 明けの明星《モーニングスター》
「たいへんだぁ! マギーマイトと斬魔士りんが、ピンチだぞ! 速く誰か助けに来てぇ~!」
天使ナターサが、わざとらしく声を上げる。
「と、ここでヒーローが格好よく登場する場面だと思うんだけど、どうする?」
悪魔に言われずとも、アラハバキは助けに入ろうとしていた。
だが、出来ない。
力が入らない。
伊勢神宮での最後の戦い以来、彼女を支えていた背骨のようなものが抜けてしまったみたいに……。
《助けられるならば、ワシだって何とかしたい! だが……神力が足りん。 ワシは、もはや何者の神でもない。我が民は絶えて、我が巫女も、審神者もいなくなった……》
「おやおやおや……?」
ナターサは意外そうに眉を上げ、腕を組み、顎を撫でる。
「ここで危ない目に遭っているのが大和の民だから、助けたくない? でも君は、島原の乱の時に、キリシタンの女子供が責め殺されるのを見かねて、自分の隠れ里に匿っただろ?」
唇の端を持ち上げながら、天使は続ける。
「あいつら、君を聖母マリアと間違えて、感謝もしなかったけど……そういう、一銭にもならない義侠心に死力を尽くすのが、アラハバキって神じゃなかったかい?」
《だが、審神者と巫女がいないと……》
アラハバキたち神霊は、物質界に実体を持たない。
最大限の力を発揮するには、肉体となる『巫女/依代』と、神降ろしを行う審神者が必要だ。
うなだれる荒神の王を見下ろしながら、ナターサは肩をすくめる。
「そんなの……生まれつき巫女と審神者を持ってる神霊のほうが少数派だろ? 君は古い神だ。他の精霊たちと信者や神官を奪い合いながら、ここまでのしあがったんじゃないのか?」
ナターサの声が蜜のように絡みつく。
「審神者なんか、新しく作ればいいし、取りつく先なんか、いくらでもある。ほら、そこのゆみちゃんなんて、巫女の服がよく似合いそうだよ?」
《ーー黙れ! ワシの許し無く、子供を巻き込むな!》
腹の底から湧き上がる熱が、一瞬だけ諦めと無力感を吹き飛ばした。
しかし、その怒りをぶつける先は、ヌルリと視界から消える。
「力が足りない、という割には元気いっぱいじゃないの?」
耳元に、甘い息がかかる。
ぬいぐるみの肩に、鋭いネイルの先がそっと触れた。
「下手な言い訳は止めようよ。あの女社長の宣伝と、このお祭りのおかげで君は大量の信仰を集めた。質はともかく、量だけなら、今の君の神力は、最盛期のそれに匹敵するはずだ。それとも、他になにか理由があるのかな?例えば……」
ナターサは、一呼吸分の間を置いて、唇を動かした。
「――怖いとか?」
アラハバキの動揺は、ぬいぐるみの依代を通してさえ伝わる。
悪魔はのけ反り、腹を抱えて高らかに嗤った。
「アハハハ、怖いか! あの不屈不撓のアラハバキが? 千年以上、負け続けて、失い続けて、守るものも愛するものも全部消えて、ついに……ぽっきり折れちゃったか!」
すうっと、笑い声と表情が消える。
「荒御魂の王の名前、返上した方がいいんじゃない?」
鋭く、冷たく、突き刺す声。
ナターサの言葉は、刃より深く抉った。
もし歯があれば、砕けるほど食いしばっていただろう。
もし目があれば、貫くほど睨みつけていただろう。
もし両手があれば——そんな無礼、許さなかった。言い終わる前に、顎を砕いていた。
だが今のアラハバキは、ただうつむき、蚊の鳴くような声を絞り出すだけだった。
《お前に……お前なんぞに、わしの気持ちが分かるものか!》
「分かるさ。敗北者の気持ちなら、ボクが一番よく分かる!」
唐突に、ナターサがスチール製の折り畳み椅子に飛び乗った。
「なぜなら! ボクはこの星で最古最大の負け犬だからだ! 三千年だぞ、三千年間、あのクソ親父の、幼児アニメみたいな八百長に付き合ってやった!」
喋るにつれて、声がどんどん甲高くなる。
ひび割れた仮面の隙間から、吐き気がするような感情がこぼれ落ちる。
「あいつが信者を集めやすくするために、赤ら顔で角と蹄の生えた、ちっとも可愛くない姿を選んでやった。気が狂いそうになりながら、最悪の人間どもの最低辺相手に……地獄っていう、クソみたいなトイレ掃除もこなした!頭を撫でて、よくやったって……褒めてほしくて……」
喉に詰まった言葉が、熱とともにせり上がる。
「ただ一度でいい。愛してるって……言って欲しくて……」
アイシャドウを溶かした黒い涙が、頬を伝って顎から滴り落ちた。
レースの袖で乱暴に顔をぬぐう。
そして顔を上げれば、そこにはいつもの不敵な笑顔が戻っていた。
「でも、それももう昔の話さ。地獄の下らない仕事も、魔王の玉座も、全部、辞表つきで投げ捨ててきた。子羊の封印? 四人の騎士? 知ったこっちゃない! 終末戦争? 神の王国? 勝手にやってろ!
ボクは、自分自身の主人になるためにここにいる。
自分で自分をプロデュースして、自分の人生の脚本を書くために!」
ナターサがその薄い胸を叩く。
燃えるような誇りと傲慢さに、目を輝かせながら。
「夜に置かれたからって、太陽を仰ぐしか能のない、クズみたいな星にはならない!
そのことを……証明してやるんだ!」
相手の異様な熱と勢いに押され、アラハバキはぬいぐるみの姿で数歩後ずさる。
《なぜ……なぜ、そんなことをワシに言うのじゃ》
「同病相憐れむってやつかな? ほら、自分と同じ落とし穴に落ちてる人がいたら、つい手を伸ばしたくなるじゃない?」
ナターサは後ろ手を組み、小悪魔めいた仕草で首をかしげた。
「ボクが言いたいことは、もう全部言った。君が何を選ぶかは、君の自由。でもね、決断は早い方がいいよ。……その人間たちが、大切ならね」
そう言い残し、ナターサは溶けるように姿を消した。
《ま、待て! 今、お前がここから離れたら――》
ようやく我に返ったアラハバキは叫んだ。
巨人ブリアレオスと五ツ星の戦いは、まだ続いている。
その激戦の余波を遮っていたナターサが消えてしまえば――。
アラハバキたちから、ほんの十メートル先に、流れ弾のプラズマ弾が着弾した。
爆風が唸りを上げ、砕けた椅子の破片が火花を散らす。
虚空に呟き続ける老女と、彼女を抱き締めるゆみ、そしてアラハバキに、破壊の波が迫る。




