第1話 現実
――続きです。
「………っ」
指先にチクリとした痛みが走り、逃避しかけていた僕の思考は、現実へと引き戻された。
目の奥がズキズキと痛む。窓の外の世界がやけに眩しかった。
頭の中でガンガンと鳴り響く痛みに耐えながら、じっと窓の外の眩しさに目を凝らしていると、今度は不意に、身体から力が抜けていくのを感じる。
目の前の景色が急激にぼやけ始め、つま先から頭の天辺に掛けて、じ~んとした甘い痺れのような感覚が広がっていった。
「………?」
やがて恐る恐る目を開けた僕を包み込んだのは、見慣れた白塗りの壁。
強烈な圧迫感をもって目の前に立ちふさがり、視界の360度全てを覆い尽くすようにして、目の前の世界を”白“で染め上げる。
―――右を見ても壁、左を見ても壁。
目に映る全てを覆い尽くすその様は、さながら罪人を閉じ込めておく牢獄のようでもあった。
遠い窓の外から覘く、あの美しくも輝かしい青の空とは対照的に、午前中の薄暗い西向きの学園の廊下が、まるで罪人のようにして僕を飲み込んでいる。
廊下の奥へ奥へとどこまでも続いていく校舎の柱が、出口のない迷宮を連想させた。
「あぁ…………」
一度思い出してしまうと、もう後戻りは出来ない。
いつの間にか、寒さですっかり詰まってしまった鼻をずるずると引きずりながら、僕は廊下で一人鼻声混じりに、今日何度目とも知れない溜息を吐いたのだった。
………思い出した瞬間、両肩にズシンとした重みがのし掛かる。
それは最早、精神的憂鬱さからくるものだけでなく、物理的にのし掛かる重みでもあった。
両腕に科せられた重い金属の枷が、まるで地の底へと引きずり込むようにして、僕をずるずると下へ下へと引っ張り続ける。
「くそっ………」
………いい加減、バケツを持つ両腕が痛い。
もうかれこれ二十分くらいは、こうして廊下に立たされているだろうか?
水のたっぷり入ったバケツが重いのは当然のこととしても、時折、こうして廊下の無造作に開け放たれた窓から吹き込む、凍えるような四月の山風が、身体だけでなく僕の心まで蝕んでくる。
錆び付いた金属製のバケツを握る手から感じる、ヒリヒリチクチクとした独特の不快感が、既にこれ以上ない程にまで磨り減った僕の心を、いつまでもじわじわと蝕み続けた。
「………はぁ」
………本当に、どうしてこうなった?
いくら溜息を付いたところで、どうにもならない事くらい分かっている。
が、それでもふとした瞬間に、溜息を吐いてしまいたくなる僕のこの気持ちも、少しは分かってもらいたかった。
「―――――である。この時――、……は、―――」
廊下の壁越しに反響する、聞き覚えのある低いテノール。
こうして僕を廊下に追いやった張本人であるあの中年小太り教師は、僕の事なんてとっくに忘れて自らの職務に邁進しているようだし、果たしてこのまま廊下で一人頑張り続けたところで、僕に救いなんてあるのだろうか……?
そりゃあ元を辿れば、授業中に居眠りをしていた僕が悪いのだろう。
授業は本来、真面目に聞くべきものだし、そもそも僕らはその為に学園に通っているのだから。
決して学生の安い睡眠時間を確保する為に、親御さん達も高い授業料を払ってまで、子供を学園に通わせている訳ではないだろうに。
教師の側からしてみても、自分が分かり易い解説を出来るようあれこれ試行錯誤しながら授業をしているのを余所に、目の前で惰眠を貪っている生徒がいたら、まぁ多少は腹も立つだろうなという気持ちも少しは理解出来る。
………けれど、だからといって、これはちょっとないんじゃないだろうか?
いくら僕が学生の本分を疎かにしていたからといって、それでこんな体罰紛いの苦役を、生徒に科して良い理由にはならないと思うんだ?
学園の校則で、教師が独断で生徒に体罰を与えるような真似は厳しく禁じられているし、それがなくたって、余所様の家の子供に、自分勝手な理屈で危害を加えるような真似が許される訳がない。
万が一それで生徒の身に何か起きようものなら、普通に傷害事件として処理されるレベルの案件である。
なのに、それを平然と実行出来るなんて………、流石に頭がイカれてるとしか思えない。
放っておけば風邪を引くどころか、下手をすれば低体温症で死にかねないようなこの極寒の環境に、あまつさえバケツで両腕を塞いだまま長時間放置しておくなんて、これが体罰でなければ一体何だというのだろう?
………大体、授業中居眠りをしていた生徒の一人や二人居たくらいで、何をそこまで腹を立てる必要がある?
僕は別に授業中、大声を出して先生の話を妨害したわけでもないし、教室を抜け出して遊び呆けていた訳でもあるまいに。
ただ教室の片隅で、密かに机と合体して静かに寝息を立てている生徒の一人や二人居たくらいで、何をそんなに顔を真っ赤にしてまで怒鳴り散らす必要があるのだろう?
「…………はぁ」
………まぁ、これ以上ここで愚痴を言っていても仕方がない。
どれだけ壁に文句を言ったところで、この理不尽過ぎる待遇が改善する可能性は、万に一つも無いのだから。
―――時刻は、およそ十一時過ぎ。
三時間目の授業が終わるまで、まだ大分時間が残っていた。
陽光と人肌の温もりに溢れた、あの温かい教室が懐かしい。
もし許されるのなら、早く寮の自室に戻って、温かい布団に包まりながら惰眠を貪っていたかった。
あれから、あの中年教師が僕を監視している様子はない。
こちとら教室を追い出されてからというもの、背後の教室の中が静かになる度に、もうすぐあの中年教師が、僕を監視しに廊下へ出てくるんじゃないかと思って、内心ビクビクしながら構えていたというのに、結局はこれまで一度も、あの中年教師が廊下へ出てくる事は無かった。
挙げ句の果てには僕の方も、途中から教室の中の様子を気に掛けるのも面倒になり、気が付けば、適当に空でも眺めながらぼーっとして時間を潰すようになっていた。
いっそのこと、このまま本当にサボタージュを決め込んで、途中で寮に帰ってしまってもバレないんじゃないかな~?とも思ったりもしたが、あくまでそれをしなかったのは、これ以上あの頭のおかしな中年教師を刺激したくなかったから。
自分勝手な怒りと理屈を胸に、平然と校則無視の体罰を命令してくるような奴だ。
これ以上下手に刺激して怒らせようものなら、次は何をさせられるか分かったものではない。
“反省”という大義名分の下に下される罰なら、既に十分過ぎるほど受けた。
これ以上のとばっちりは、御免である。
「…………………」
再び溢れ落ちそうになる溜息をどうにか飲み込むと、いつしか僕の視線は自然と空へと向いていた。
ただ青いだけの空を見るのにも飽きてきたが、無駄に豪華過ぎる校舎の内壁を見るのには、もっと嫌気が差していた。
自分の両手に収まる錆び付いた古い金属との対比が、自分が如何に場違いな存在であるかを思い起こさせる。
【王立ノースポール学園 】
それが、僕が通うこの学び舎の名前にして、この【ユリス王国】で唯一、貴族と平民が同じ環境で教育を受けられる学園の名前だった。
山間の大して発展した土地に面している訳でもないのに、山々に生い茂る木々の緑に混じって、この【王立ノースポール学園】の建物だけが一際異彩を放って存在している。
学園の敷地が無駄に広いので、外から少し覗いただけでは、敷地の正面にある教会関連の施設くらいしか中々目にする事は出来ないが、それでも山下の町の、木造や石レンガ造りの質素な建物と比べて、山間で燦然と輝くこの白磁の学園の大聖堂は、さぞかし違和感の塊であろう事はまず間違いなかった。
例え王国の辺境に位置していても、流石は“王立学園”を名乗るだけの事はある。
そこに掛けられたお金も、生徒達の為に用意された整備の質も、僕なんかでは想像もつかない程レベルが高かった。
加えて、学園で行われる授業自体のレベルも非常に高い。
それもその筈、基本的にこうした貴族向けの高等学園は、中等部の段階でしっかりとした基礎教育を受けた、貴族達の紳士淑女の為に運営されているからだ。
毎日の授業では当たり前のように専門用語が飛び交い、黒板の上では一体何を召喚する為の術式なんだと文句を言いたくなるような、複雑な記号やら数式やらが展開される。
僕ら“平民”が学校と聞いてイメージする、授業で稲作や畑の耕し方を教えてくれるような芋っぽい田舎の学校とは、在り方からして根本的に異なるのだ。
そんな進んだ環境に、僕みたいな中等部レベルの教育ですらまともに受けておらず、最低限の読み書きと算学の基礎知識しか身につけていないような阿呆が、いきなり放り込まれた所で、まともに授業について行ける訳がなかった。
実際、貴族と平民が同じ学校に通っていると言っても、その割合の殆どは貴族階級の子供たちが占める。
平民出身の学生なんて、精々一クラスに二、三人もいればいいところ。
一度、身分の違いに気後れしてしまえば、学園で満足に友達を作る事も出来やしない環境だった。
“平等”とは名ばかりで、所詮はこの【王立ノースポール学園】も、始めからある程度の英才教育を受けた、貴族達の為の学校と言っても過言ではなかった。
…………ただ、それでも僕なりに努力はしたのだ。
誰も好き好んで、最初からこんな風に捻くれたりはしない。
学園に入って最初の頃は、先生が話している内容の半分も理解出来なかったし、顔を上げる度に黒板の上を、右へ左へと流れていく授業の板書を取るだけでも必死だった。
学園が終わって寮へ戻った後も、所々読めない字のある教科書やノートを何度も見返しながら、少しでも内容を理解しようと、暗い寮の自室で消灯時間を過ぎるまで、机に向かい続けた日々も過去には確かにあったのだ。
―――しかし、その程度の努力でどうにかなるくらいなら、今頃こんなところで落ち零れてはいない。
学園での日々を重ねていく内、自分が夜通し机に向かって勉強し理解出来る内容よりも、尚早いペースで授業が進んでいくことを理解し、僕は絶望の淵に落とされた。
他の学生が一度聞いただけで理解出来る内容を、僕が頭の中で二倍三倍の時間を掛けて反芻し、ようやく最初の内容を理解出来た頃には、授業は既に追いつかない所まで進んでいるのだ。
後でじっくり時間をかけて理解すればいいなんて言葉は、最早気休めにもならない。
学園に入ってから最初の数日で、僕は自分の限界というものを嫌というほど見せつけられた。
―――そして、ようやく気付いたのだ。
学園は“平民”の為に待ってはくれない、と。
学園は、貴族達と同じように学ぶ機会はくれても、それについて行けない落ちこぼれの為に、わざわざ時間を割いてはくれないのだ。
そんな風に自分の無能さに打ちひしがれる毎日が続いた結果、いつしか僕は学園で筆を執るのも億劫になり、気付けば授業時間の殆どを教室で寝て過ごすようになっていた。
…………早いもので、僕がこの学園に入ってからも既に一年の時が過ぎた。
こんな僕でも、なんと【王立ノースポール学園】の二年生なのである。
留年をしなかったのは単に、この学園に“留年”という制度が存在しなかったから。
最低限、出席日数さえ満たしていれば、年度の終わりにはほぼ強制的に学年が一つ上がるし、家庭的な事情や、余程の素行不良で学園を退学にでもならない限り、四年生になるまでは安定した学園生活を送ることが出来る。
そして四年次の最後に、この【王立ノースポール学園】の卒業生として、相応しい学力と立ち居振る舞いを身につけているかどうかで試験があり、最終的に学園側から合否判定が下される訳だ。
―――要は、“卒業に必要な環境と、それに見合う実力を身につけるだけの機会はこちらで用意してやるから、後は自力でどうにかしろ”というのが学園の基本的な方針だ。
良く言えば放任主義、悪く言えば無責任とも取れる学園側の在り方だった。
色々と縁あって、平民の出でありながら運良くこの【王立ノースポール学園】に入学出来た僕ではあるが、正直、無事に卒業出来る気がしなかった。
これでは長々と恥を晒す前に、さっさと学園を辞めてしまった方がマシと言われても仕方がない有様である。
―――と、随分長くなってしまったが、僕を取り巻く大凡の環境については大体こんなところだ。
分不相応な環境に入ってしまったが故に、上手く周囲に馴染めず、見事落ちこぼれとなってしまったが生徒が一人いる、くらいの認識でまぁ問題ないだろう。
「ふわ~ぁ…………」
長い間気を抜いてぼーっとしていた所為か、久しぶりに大きな欠伸が口を吐いて出た。
自分以外誰もいない廊下。
よもや人目を気にする必要もないので、大口を開けて廊下で一人だらけていると、肺の中に入ってきた冷たい空気が、良い感じに眠気を覚ましてくれた。
北の山から吹く四月の風はまだまだ冷たい。
何の対策もせずこのまま眠りに就けば、間違いなく風邪を引いてしまうだろう。
しかし、退屈が故のこの眠気には、どうにも抗い難い魅力があった。
薄らと涙で滲んだ空を見上げ、まだ昇りきってもいない太陽の影を追う―――。
「―――――とを、…………るのかっ!?」
微睡みと覚醒を繰り返す意識の中、脳裏に響くのはあの思い出したくもない男の声。
妙に苛立ちを含んだその男の声が、僕の意識を急速に覚ましていった。
沸々と沸き起る嫌な予感を胸に、僕はそっと壁に預けていた自分の背中を離した。
「もういいっ!!お前も出て行けっ!!」
―――そして直後、校舎に響き渡る大音量の男の怒声。
予め備えていたにも関わらず、反射的に竦み上がってしまう程の怒りの声が辺りに木霊し、廊下の壁を何度も反響しながら、周囲の喧噪を飲み込んでいく。
全てが消えた後に残されていたのは、辺りを包み込む不自然な程の静寂だけだった。
余所のクラスから響いていた楽しげな授業の声も、寒さに震えていた木々のざわめきさえも、まるでその男の声に竦み上がったかのように静まり返っていた。
静寂が校舎を包み込む中、僕が最初に目にしたのは、様子を窺いに廊下へ出てきた、隣のクラスの教師の顔だった。
「「………………」」
お互いの目が合った瞬間、両者の間で何とも気まずい空気が流れる。
『………お前か?』
物言わぬ視線と、密かに此方に向けて人差し指を立てるだけの動作。
無言の問い掛けが、僕へと投げかけられる。
対する僕の返答は、当然“否”。
ふるふると首を左右に振り、首を後ろにクイッと傾ける動作だけでそれに答えてみせる。
「……………」
苦笑と共に去って行く、その名前も知らない教師の背中を目にし、僕は何とも居た堪れない気持ちになるのだった。
「………やっぱり、彼奴の方がよっぽど授業を邪魔してるじゃないか」
―――とは、実際には口が裂けても言えないので、僕は心の中でだけ悪態を吐くことにした。
“授業中に怒られて廊下に立たされていた”という事実を書く為だけに、ここまで使うとは自分でも思わなかった……
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