プロローグ
敢えては語らない……、
導入部分なので、雰囲気だけでも楽しんで頂ければ、
「…………寒い」
―――肌を吹き付ける風が、恐ろしい程に冷たい。
ビュウビュウと声を荒げ、あらゆるものから温もりを奪い去っていく。
悴んだ手足に既に感覚はなく、もはや満足に動かすことすら儘ならない。
指先が氷のように冷たくなり、錆び付いた金属のようにして固まって離れようとしなかった。
首筋を、一陣の風が撫でる。
襟元に開いた僅かな隙間から入り込み、骨の芯まで凍てつかせるような鋭い冷気でもって、僕の全身を蝕んでいく。
氷のように冷たい抱擁が全身を包み込み、鋭敏になった感覚が、肌を撫でる風の感触を凶器の一振りへと作り替えた。
―――身体が熱い。
吹雪いている風は氷のように冷たい筈なのに、風に晒された僕の身体は、まるで焼き印でも押されたかのように、酷くヒリ付いて仕方がない。
風が肌を這い回る度に、骨の芯から焼かれるような鋭い痛みが、身体の奥からじんわりと込み上げてきた。
「……………っぁ」
喉の奥から、微かに嗚咽が漏れる。
それは悲鳴にも満たない、小さな叫び。
轟音と共に吹き荒ぶこの風の中で、一体誰に向けてのものだったのか?
荒れ狂う風の音を超えるにはあまりに頼りなく、すぐさま獣のような咆哮に掻き消されると、吹き荒れる風の怒号と共に空の彼方へと消えていった。
「………………」
―――自然は残酷だ。
悲鳴を上げる生命の声に、耳を貸そうともしない。
強風に晒された木々の枝は今にも折れそうな程に曲がり撓り、時折、枝が悲鳴のような軋みを上げながらも、今も必死で嵐に耐え続けている。
風が吹き抜ける度に、その身に纏う緑が大きく波を打ち、ザワザワと枝葉同士を擦り合わせながらも、必死で嵐に耐え続けていた。
そんな彼らの足下には、いつしか小さな動物達の影。
そびえ立つ大木にすら悲鳴を上げさせるこの自然の猛威に、吹けば飛ぶような小さな身体の彼らが、耐え抜く術などあろう筈もなかった。
生い茂り始めた木々の緑を全面でその盾としながら、それぞれの命を守るように、只じっと身を寄せ合って嵐に耐え続ける。
―――荒れ狂う風の声は未だ止まず、少しずつその勢いを増していくようですらあった。
風にのって運ばれてきたのは、あるいは氷そのものではないかと錯覚させるほど、唯々冷酷に、それはあらゆるものへと牙を剥いた。
…………これでも、一ヶ月前と比べれば大分暖かくなってきた方ではある。
四月も半ばともなれば、多少なりとも日は長くなり、少しは太陽の暖かさを肌で感じられるようになってきた。
冷たい空気の中にも春の匂いが混じり始め、季節の変わり目を告げる鳥たちの声が、森に木霊する。
茶色で埋め尽くされていた山肌には、いつしか新しい緑が取って代わり、樹上では春の訪れを謳歌する動物達が嬉しそうに駆け回っていた。
白く冷たい雪に埋もれ、長い間忘れていた生命の気配が、そこら中に満ちていた。
――――しかし、まだ本格的な春の訪れとはいかないようで、過ぎ去った筈の冬は、まだこうして僕らにその手を伸ばしてくる。
北の山から吹き下ろす冷たい春の木枯らしが、足下を這う冷たい氷のような感触が、過ぎ去った筈の冬を忘れさせてくれない。
「上着……、着てから来るんだったな………」
こんな寒空の下でも、せめて上に着る服があと一枚でもあれば、まだ多少はマシだったのだろうか?
薄地のYシャツが一枚。
少し目を凝らせば、下には薄らと白磁の肌が浮かぶ。
防寒着と呼ぶには、あまりに心許ない。
風と共にはためく薄地の白いシャツが、追い打ちを掛けるようにして、冷たくなった僕の身体を何度も何度も打ち付けた。
「………はぁ」
………思わず、溜息が溢れる。
背中を伝う無機質なコンクリートの感触が妙に懐かしい。
壁越しに感じる微かな温もりが、僕を却って憂鬱な気持ちの底へと引きずり込んでいくようだった。
逃げるようにして見上げた空はとても綺麗で、僕の憂鬱な気持ちの全てを飲み込んで尚、泣きたくなる程に綺麗で澄んだ色をしていた。
―――見上げれば見上げる程に遠い、澄んだ青の世界。
雲一つ無い空の世界に果ては無く、吸い込まれるような深い青だけが、どこまでも遠く遠く続いていく―――。
「………………」
………相変わらず外の世界では、春の木枯らしが吹き荒れていて、今もまた刈り取られた命の芽が、一片の淡い桃色の欠片となって空に溶けていく所だった。
「………………、はぁ………」
―――本当に、溜息が出る。
ある筈のない偽りの温もりに縋ってしまう自分にも、こんな惨めな気持ちを抱えたまま、ただ立っていることしか出来ない今の情けない自分にも、僕はほとほと嫌気が差していた。
―――薄い壁一枚。
厚さにして、たった数センチ。
あの空とは比べるべくもないその距離が、今はとても遠く感じる。
誰も居ない廊下に一人佇む僕は、”孤独“という名の寒さをひしひしと感じていた。
「――― 一体………、」
―――どうしてこんな事になってしまったのだろう?