魔に刺された王太子殿下の話
「――“魔”などと見えぬものを恐れるのは如何か」
楽園信仰を下地に成り立つある国の王城。
その王太子殿下の私室にて、部屋の主たる王太子が演説でもするようにそう言い放ったのは彼の婚約者たる《聖女》に向けてだった。
声変わりを済ませた低く、落ち着いた柔らかな声が今や暗く落ちている事を感じつつ、《聖女》はにっこりと微笑む。
「まあ…。殿下、最近いけない事は致しましたか? わたくしはふかふかのホットケーキにたっぷりと蜂蜜をかけて台無しにしてしまいましたの。はしたないですけれど、とてもわくわく致しましたわ」
春の眼差しと評される、王太子のたれ気味の目蓋の下に納まる瞳。そこに宿る剣呑な輝きに《聖女》は臆する様子はない。
それから、《聖女》のしろい手はマメのできた王太子の手を包む。やんわりと伝わる温度に、王太子はこの美しい少女が自らと同じ人の形をしているのだと思い知って眉根を寄せる。
「聖女など…神など」
唸るように言って、歯噛みをする。
「聖女は作られた存在だ。女神に身を捧げる者は男も女も貞節を誓うはずだ、それに背き産まれた赤ん坊をそのように謀り、王家に混ぜようと画策しているに違いない」
「魔などと曖昧なもので民衆をいいように操るなど……」
続く王太子の言葉の数々に、《聖女》は今回は重症かしらと頬に手を当てた。
――この国には魔が刺すという言葉がある。
その前に、この世には《魔》と呼ばれる存在があった。
天から遥か下、地上に生きる人々は、かつて無垢な天使だった。
天の国で世界樹の葉から滴る朝露を舐め、甘く柔らかい雲を食み。天の楽園で存在していた彼らはあるとき感情を覚えてしまう。
あれが楽しい、これは嬉しい。――それが妬ましい、悔しい。
覚えてしまった感情は、心は天使の体を重たくしていく。
特に重たく思ったのは昏い感情たちだ。それを排斥しようとした結果、天使の胎から産まれたのは
――《魔》、忌むべきそれだった。
忌むべきそれを産んでしまった天使は羽を千切られ、今は天の牢獄に幽閉されている。
そして、他の天使たちはもはやその胎にも《魔》を宿しているとされ、みな天の国から追放される事となった。いつ《魔》を産み落としてしまうかもしれない彼らは、決して無垢な天使に非ず。
その罪を償うべく地上の生活を送るために新たな人類として生まれ変わったのだ。
これを創世神話とし、真に《魔》を断ち切ったその時こそ神の御座す天の国に招かれ天使に生まれ変わることが出来るのだというのが人々の信じる救済であり、目指すものであり、つまり信仰だ。
そのように信仰される程度には内なる《魔》を断ち切る事は難しく、だからこそ人々は夜中の間食や学業に勤しむはずの日に二度寝をしてみるといった少しのいけない行いで定期的に内なる《魔》を少量ずつ祓うのだ。
(指先をちょっと絡めてみたり、はいあーんをしてみたり…。なるべくお手伝いしてきたのだけど)
然し、人の心にはどうしても隙がある。そこを内から《魔》に刺されるのだ。
《魔》に刺された心は風船のように弾け、法や人道に背く悪事を行ってしまう。
一度弾けた心を修復できるのは《神の御業》のみ。そして、《神の御業》の再現を可能にする《聖女》という存在もまたこの世に存在している。
《聖女》は不定期に現れる存在で、天使が空に二本の虹を掛けた美しい日。大教会に据えられた女神像の足もとに聖布に包まれた赤ん坊の姿で降ろされる。
つまり、《聖女》には肉体がある。定義としてはヒトである。
厳密に言えばそれは《女神》が精巧に作り上げたレプリカだ。
そもそも、《神》は幻獣のような姿をしている。
人間に限らず生命あるもの全てを漠然と祝福する存在だ。
そもそも、《女神》というのはただの人間の女性であった。
遥か昔、信仰がより原始的だった頃。
聖なる洞穴に篭もり何年何十年と祈りを捧げた彼女は、何よりも国と民の事を愛していたが、国王への異性としての興味や、国政参与の意思、社交界への興味などは一切なかった。
ただひたすらに清貧な暮らしに励む平民を、国を富ます貴族を、王族を。この国に息づく人々、動物、植物、昆虫。それら全てを平らかに愛していた。そんな彼女の心根を認めた天は彼女を天の国に招いたのだ。
――つまり、彼女の祈りは《神》に届けられた。
《神》と、《女神》となった女性は漠然とした心ながら不思議とお互いを愛した。
ふたりの愛に満ちた天の国に光が生まれる。
天使とは異なるその存在――スピリットは、ふたりを《親》と看做してふわふわと漂う。《女神》はただの人間であった記憶があるから、子どもたちを可愛がり、自らの愛する国を見せ、言葉を教える。
そうしている内にある子どもが、当時の王子に恋をしたのだ。
彼のそばで息をしてみたいという願いに、《女神》は《聖女》という存在を想像/創造して子どもに人の形を与えた。
《聖女》という概念は神託として与え、以降は時折女王と聖者という概念に形を変えたりしつつ続いている。
《聖女》が不定期に現れるのは《女神》の子どもが願うかどうかに委ねられているからで、《聖女》が現れない時代の人々は《初めの聖女》とともに与えられた、内なる《魔》を計測する神具でもって犯罪者の罪の重さを測っている。
蛇の足までをも思い返してしまってから、《聖女》は目の前の婚約者に意識を戻す。
「ねぇ、アンリ様。よろしければ、今からお昼寝を致しませんこと?」
「…こんな昼間から、午後の務めも放棄してか」
「ええ、ほんの少しだけおめめを瞑ってみるだけです、なんにも問題ありませんわ。それに、アンリ様ならば少しくらいの遅れもすぐに取り戻してしまいますでしょう?」
そう言葉を重ねながら、《聖女》は東洋から伝わる桃の花によく似た色の瞳で王太子を見つめる。
実際、王太子はとても優秀だ。
よく学び、自身の至らぬ点は素直に認め、今現在は学園という小さな国をまとめ上げる主として側近候補の生徒達と経験を積んでいる。
そのようになまじ期待に応えられる子どもだったから、国王夫妻も際限なく彼に課題を与えてしまう。
一応、国王はよくやったなとかお褒めの言葉を口にするし、王妃も偉いですねと頭を撫でるが……。それでも、上に立つ者として日々感じる重責は軽くはならない。
だからこそ、その息抜きにと《聖女》は彼をいけない遊びに誘う。先ほども思い返したように、普段からも真面目な王太子が重い罪の意識を抱かない程度に済むはしたない事をして発散のお手伝いをしていたのだけど。
最近は、学園のテストや王太子と王太子妃になる前の試験として水害に見舞われた地域の補償に奔走したりとなかなか二人きりの時間が取れなくなっていて心配はしていたのだ。
本来、この国に於いて《神》や《聖女》を批判することは重罪。それを王太子たる彼が口にしてしまうという事は、即ち既に《魔》に心を刺されてしまったのだろう。
だが、それでもなお大衆に向けて語るのではなく、こうして二人きりの場を選ぶ辺りに彼の精神の強さを感じ、《聖女》は心を震わせた。
強く、靱やかで、けれど完璧ではない人の王子。
「…ね、アンリ様。わたくしを甘やかすと思ってどうかご一緒に」
「どうしてきみを甘やかすということになるんだ。僕の方こそ…、きみに甘やかされてしまっているのに」
そう言って苦笑する王太子の目じりに朱が走った。それを見て甘く胸を締め付けられる感覚を覚えつつ、《聖女》は柔く笑み崩れる。
「だって、アンリ様と過ごす時間はわたくしにとって楽園にいる時のように心安らかで素晴らしい時間なんですもの。そして、ご存知でしょうか。人は眠っている時僅かに死んでいるのだそうですの」
――わたくしをどうか天の国に連れて行ってくださいまし
王太子の耳朶に口付けるほどくちびるを近付けて囁き、先ほど包むようにして重ねたままだった手のひらを上向けて指を絡める。
誘っているのは果たしてどちらか――。
判然としないまま、寝室に繋がる扉を開き二人は楽園へと旅立った。
眠りから覚めると、王太子の心はすっかり《修復》されていた。
自身の失言を恥じ、青ざめた顔で彼はベッドの端に腰掛けていた。
「すまない……。きみのように清らかで美しい存在を妻にするという事に勝手に怯えていたんだ」
あらかたの内省を終えると、まだベッドに横になっている《聖女》の手に怖々と触れ、そう吐露した。王族の証である金の瞳からほろほろと零れる涙は不謹慎にも美しい。
まだたったの十七年しかこの世の経験がない男の子なのだ、と《聖女》は超然的な感覚で思った。それから、王太子が触れたのとは反対の手で彼を招き、近付いた蜂蜜色の髪をよしよしと撫でてそっと胸に抱いて寄せた。
「そんなことに自信などなくてもよろしいのに……。わたくしは何があったとしても勝手に貴方をお慕いしてしまいますわ」
きっと明日天変地異が起こってこの国が滅んだとして、彼が王太子という肩書きを失っても関係ない。彼を両親の元へ連れて行って、そちらで結婚式を挙げるだけだ。
「わたくしはアンリ様の王族としての立派な姿も、こうして目の前におられる姿もどちらもお慕いしておりますの。神々に与えられしこの魂に誓いますわ」
教師に課された課題が解けなくて泣きそうになりながら必死に図書を漁っていた背中、剣技の授業であっさり転がされて歯噛みしながらも教師に食いついていた頃のボロボロの手。
天から覗き見たそれらにたまらなく胸を打たれたから、母に頼んでこっそり猫の姿で近づいた事もある。その時、顎を擽る指先と彼が付けてくれた名前がそれまで名もなかった、いずれ溶け消える運命のスピリットに本当の心を与えたのだ。
彼の柔らかい所を守ってあげたいと思った。だから、《聖女》は望んでこの地に遣わされた。
「…ありがとう。僕は本当にきみに参ってしまうよ」
やはり清らか過ぎる《聖女》の笑み。だが、その瞳に浮かぶ愛情はただ無垢なだけのそれではないのだ。人が、人を慕うその色。
王太子は、確かに彼女は自身を一人の人間として、男として求めてくれているらしいと認める。――そして、自身が初めての恋に及び腰になっていたのだとも認めた。
「…そうだな。ずっとそばに居てくれたきみが聖女だからとか…それだけではなく、得難い大事な存在だと最近やっと分かったんだよ、僕は」
「アンリ様…」
王太子が《聖女》と引き合わされたのは九つの時だ。《聖女》は同じ年の頃だったが、彼は《聖女》という尊い存在との顔合わせに緊張していたので、彼女が女の子だという意識はあまり持てなかったのだ。
それが共に長じるにつれて、同じ年の頃の美しい少女というふうに見え方が変わったのだろう。
王太子と、聖女。その身分を剥がせばただの青年と少女。そこにあるのは、人並みの恋愛。
青年は少女のたったひとつの名を呼ぶ。
それから、ベッドに乗り上げ、少女の手をやんわり掴んでシーツに縫い止めるとつられて上向いた桃色の瞳を愛しげに見つめつつ。――そっと顔を寄せた。
二人が迎えた初めてのその瞬間、王都では全ての花が一斉に開き、街や人々は甘い香りに包まれまるで楽園に訪れたかのようだったという。