85 ラース
(あちゃー)
血が止まらない己のこぶしを見ながら、ミラはこっそりため息をついた。さっきラースのことをぶん殴った際にできた傷だろう。いくら才能があるといったって、たった数刻の訓練であっという間に強くなることなんてできない。日々の鍛錬あってこそである。
自分の限界はわかっているつもりだ。あのラースという男がどれだけ強いのかということも。おそらく、ミラはまだあの男に勝てていない。すぐに意識を取り戻すはずだ。リオンとレオはもう秘密通路に入ったとさっき連絡があった。エドの声で。
どうやっているのか知らないが、さすが最強の魔法使いだ。
となると、ミラに残った仕事はノルを無事に送り返すことだけ。
(とりあえずこのまま走って通路に飛び込もう)
「捕まえた」
語尾にハートマークがつきそうなラースの猫なで声がした。瞬間的な恐怖がミラを襲う。
(早すぎる……! まだ二十秒経ってないのに……)
秘密通路の入り口はすぐ目の前に迫っており、あと一つ角を曲がったところにあるマンホールを下りればいいだけだ。
(ウチはまだ動けるけど、ノルは満身創痍。今逃がさなきゃノルが殺される。それだけは絶対ヤダ)
なんで嫌なのかといったら、当然ノルのことが好きだからだが、こんな状況でも、ノルが好きだというまったく別の事柄に思考を持っていかれる自分にびっくりして、ミラは言い訳のように脳内で言葉を並べ立てる。
(……ノルはこう見えてウチがいなきゃ多分だめだし! まだノルのお世話、ほとんどできてないんだもん。それにそう! ノルは王子様だからそういうことだから! そういうことにしとけウチのバカ! 逆にウチが世話されてるから、されるだけは性に合わないってだけだし、ていうか誰だって人が死んだら寝覚め悪――……)
顔の横を槍が通り抜け、ミラの思考は中断する。ノルが魔法を放とうとして、ふらついた。
おそらく限界だ。魔力のではなく、肉体の、である。これ以上使えば、良くて気絶、悪くて死である。今ここで、ノルが倒れたら……
「使うな! ノル!」
手をつないだ先で、驚いたような顔のままノルがミラの方を向いた。ミラは咄嗟に魔力を込めてノルの手を握り、そのままぶん投げた。
「え? ミラ!? おい!」
ノルはカーブを描いて角を曲がっていく。ずしゃっと音がしたけど気にしない。マンホールは開いているはずだ。落ちてもリオンがいる。ここよりは幾分安全だ。
ぶん投げた方の手にはまだノルのぬくもりがあって、反対の手は嘘みたいに冷たい。血の気がひいたその手に回復魔法をかける。
「おや、王子様は用済みかい? お嬢さん。ほう、すばらしい回復魔法だね。傷跡ひとつない。それに、ずいぶんと美しい白髪をお持ちのようだ」
「……」
「どうしたんだね? さっきみたいな帯魔力法はもう使わないのかい? なかなか刺激があったのに……。残念」
少しも残念そうではない顔で、ラースはやれやれと首を横に振った。
「残念といえば、君が先ほどぶん投げた王子はひどかった。本当にアリアの息子かい? 彼は。興味が失せたよ。ただの魔力馬鹿じゃないか。あんなやつより、ぼくと来ないか? 君はとても興味深い」
『もしかしたら、「魂の器」かもしれないしな』
音が反響した。心の声だ。
(『魂の器』って、なんだ?)
「それに、いきなり殴った上に逃げるなんてひどいじゃないか。お詫びの一つもしてもらいたいものだよ」
「……。ごめんなさい。知らない人に話しかけられたら、殴ってでも逃げろと教育されていますので」
「君が昔居た世界でかい?」
「――っ!」
(なん、で。いや、鎌をかけただけかも。いやそれでも、なんでそんなことを確認する必要がある?)
言葉に詰まるミラを見てなにを察したのか、一つ頷くラース。いつの間にか槍は彼の背にしまわれている。戦う意思がないということか。
勘ぐるミラをちらりと見、ラースはにこりと笑って人差し指を立てた。
「君は何か知っているみたいだね。取引をしようか。君も、これ以上争いたくないならそうするのが懸命だと思うけど」
「……。内容は?」
ミラが了承の意を込めて頷くと、ラースは笑みを深めた。
「こうしよう。君の仲間を見逃す代わりに、君は僕と一緒に来る。どうだい?」
「……だめっしょ。もうあなたが追ってた人間はみな、あなたから逃れたこの瞬間からグラマリーに所属している。あなたに見逃してもらわなくても、もう手出しはできないんだから、ウチがそれに頷く理由、ないじゃん」
「……気づかれたかあ。さすがだね。じゃあこれはどうかな。この先、ウィザードがグラマリーにちょっかいを出さない代わりに、君は僕の研究に協力する。もちろん危ないことはしないさ。話を聞くだけ」
ミラは少し考えた。これは結構いい取引のように思える。
『いいぞい。おぬしの好きにしろ』
「うわっ」
「ん? どうしたんだい?」
「いや、なんでも」
ミラは『念話』を使えないのでエドの声を受信することしかできないのだが、どうやってこの状況を把握しているのだろう。
ただこのタイミングでの、その指示は大変ありがたかった。グラマリー全体が関わってくるので「ノー」とも「イエス」とも安易に言い難い。しかし、トップに許しを得られれば大丈夫だろう。
「じゃあ、イエスで。その話、乗るよ。その代わり、一回会うごとに質問は二つ。答えるかどうかはウチが決める。それと、ちゃんと書面で、あなただとわかるサインと印鑑も」
「インカン? ああ、印璽のことだね。いいよ。……一度に二つか。けっこう太っ腹だね」
「本当にいいの? 結構強気な提案をしたつもりだけど」
「え? いいよ。ぼくは自分の研究が滞りなく進むのならそれで。邪魔をしたら殺したくなるけど」
この男の腹が読めない。言っていることが本当なら、彼はただ研究の邪魔になったというだけで、ノルの母親を殺し、リオンとレオを追い詰めていたということになる。
そうまでして遂げたい研究とは一体何なのか、それともただの方便なのか。心の声は聞こえない。
どこからかペンと印璽と契約書を取り出したラースは、さらさらとサインをし、印璽を押す。ミラも、上から下まで確認をして、騙されていないかを確認する。
「……本当に君は不思議だね。まったく興味深いよ。そんなに用心深い八歳はなかなかいない」
「なんでウチの年齢知ってんのか知らないけど、そーいうのやめて。あと、ノル馬鹿にしたこと、ウチふつうに怒ってるから。絶対許さない。ノルはウチよりずっとすごい」
「……そういうところは年相応なんだけどなあ」
「何か言いました?」
「いーえ。なにも」
一言多い男だ。絶対嫌われてる。
不備がないことを確認し、ミラもサインした。
「君、なにか失礼なこと考えてるだろ」
「……」
「まあいいよ。さっそく質問させてくれ。君は一体、何者?」
「スチュワート伯爵家の長女で、オリバー=ウィステリアの婚約者。ミラ=スチュワート」
ラースががっかりという顔をした。思っていた答えと違ったということだろうか。
「そうじゃなくて。じゃあ、君はどこから来たの?」
「それが二つ目ってことでいい?」
「うーん、ちょっと待ってね」
ラースは少し考えこむようにあごに手を当て、ややあってもう一度口を開いた。
「君の中にある、もう一つの記憶の、名前と住所を教えて」
その質問にミラは息を呑んだ。ラースの表情は変わらない。
(なんでか知らないけど、この人は知ってるんだな多分。それか、そのことが研究内容なのかも)
そう結論付け、ミラは問いに答えることにした。
「……名前は、黒後雪那。住所は、地球という星の、日本という国」
ラースがごくりと喉を鳴らした。昂りをおさえられないという風に、歴史的瞬間に立ち会ったというように、期待に満ちた目でこちらを見ている。
「ふうん……やっぱり君、ぼくと来ないかい?」
「遠慮する。ノルのお母さん殺したような奴と、一緒にいたくない」
そう言うと、なぜかラースが寂しそうな顔をした。一体どうして。
ノルには、あんなに憎々しげにアリアの悪態を叫んでいたのに。
「……僕は彼女を殺してない」
そのままラースは微笑んだ。
信じてよいかもわからず、ミラは黙り込む。
「そう言ったら、君はどうする……?」
「それは、三つ目の質問?」
そう聞くと、驚いたようにラースはまばたいた。
そして仕方なさげにもう一度笑う。
「それもそうだね。……こうしちゃいられない。早速帰って考えをまとめなくては……。ではね、美しいお嬢さん」
「……」
「また今度」
ひらりと手を振って、ラースは姿を消した。一緒に、まわりにあった数人の気配も消える。
ミラはため息をついた。
よくわからないが、とりあえず危機は免れたらしい。
「あのぼろぼろの格好で何日研究室に閉じこもる気なんだ、アレ。今度会ったら風呂屋にぶち込んで服屋に強制連行だな。食べてる感じもなかったし、どこからあの馬鹿力出してんだ」
どこかやつれて見えたラースの姿に、ミラは世話係らしい発言を零す。
そしてぼろぼろになったメイド服に目をやり、秘密通路までの道を歩きながら、「殺していない」と言ったラースの表情を思い出していた。




