79 エド=グレイ1
「とりあえずこっちで話そうかのう」
その瞬間、空間がぎゅんと裂けて、裂け目の向こうに一面の野原が現れた。
空は蒼く、流れる小川の水はどこまでも透き通っている。
エドはひょいとその裂け目に身を入れ、ぽかぽかと日の当たる場所でミラたちに手招きした。
「……何度見てもじっちゃんの魔法には誰も敵う気がしねーっす」
目の前の光景にしばらく言葉を失っていたミラは、ナオのつぶやきに、そうかこれは魔法かと我に返った。
最上級最上位魔法。ほとんど都市伝説となったその魔法を使える人間は、世界にほとんど存在しない。ミラはもちろん無理だが、エマさえも最上級上位魔法までしか使えない。
ミラはおそるおそるその裂け目の中に足を踏み入れ、向こう側の世界の空気を吸い込む。晩春の、初夏に近いさわやかさを含んだ風が耳を通り抜けた。
「さて、みんな来たかのう」
それまで、ふくふくと陽気に笑っていたエドは優しげな表情をすっと収めた。
「まずは謝らせてほしい。ウィザードが今こんな状態になっているのは、わしのせいなのじゃ」
ざわ、と花々が風に揺れる。美しい景色の中、エドはゆっくりと頭を下げ、それから話し始めた。
「わしはもともとウィザードの長を務めておった。エドウィン=グレイという名前でな。組織ができたばかりの頃は皆純粋に『魔法』という現象についてまっすぐに探究し、倫理的に研究を進めていたのじゃ。あまりの楽しさに、寝るのも忘れて没頭したものじゃ」
ノルの母親アリア=ウィステリアも、その頃はまだ王族ではなく最強と名をはせる魔法師だった。
彼女もまた、魔法というものに強い興味と好奇心を持ち、己の魔法が何かの役に立つのであればと度々魔法研究のためにウィザードを訪れていた。
膨大な魔力量と、完璧な魔力操作、そして彼女の魔法のアイデアで当時ウィザードの魔法研究は驚くほどの成果を上げていた。ウィステリア国王の側室となってもそれは変わらず(むしろありとあらゆる脅威から守るための手段の一つでもあった)ウィザードは瞬く間に一大組織となり、世界の強大な魔法・魔術組織に名を連ねるようになったのである。
一つ気がかりなことがあると言えば、それはアリアに恋情を向けるラースのことだった。
彼は能力はあるものの、何かにつけ粗暴でわがまま。時に暴力的な男だ。アリアの輿入れに関しては特に激しく反応した。自分の好きな相手は無条件に自分を愛していると思っているらしく、「アリアも俺を好きなのにどうしてあんな王に」などとのたまい、まわりを呆れさせたものである。ちなみにアリア本人にそれとなく聞いた女性研究員によれば「私、あの王様好きよ。国のために何でもしてしまうところとか。え? ラース? どなた?」と言って微笑んでいたそうなのでラースの思いは残念ながら届いていないだろう。
すべてが順調だった。
あの日までは
「五年前の抗争を覚えているかね。ウィザードが辛勝した、あの忌々しき魔法抗争じゃ」
当初、ウィザードはディアブラーリとの円満な平和的合併を目標にしていた。しかし血気盛んな面のあるディアブラーリとの冷静な話し合いは度々決裂し、よく言えば温厚、悪く言えば気の弱い部分のあるウィザードは話し合いの席で暴力を振るわれる場面が増えるようになった。
「アリア殿のおかげでそれもずいぶん鳴りを潜めておったんじゃが、如何せん血の気の多いやつが多くてのう。彼女は交渉の席で魔法を行使することはなかったが、向こうはそうではなかった。ある日アリア殿の目の前で一人の研究員がケガを負ったのじゃ」
それはもともとアリアに向けて放たれた魔法であったという。それを庇おうと咄嗟に女性研究員が前に出て、傷を負った。その上にさらに攻撃魔法が放たれ、アリアは防御魔法を発動したが、強すぎて逆にディアブラーリの職員に当たった。
その騒ぎで話し合いどころではなくなり、ディアブラーリは引き上げていったが、後日抗議の手紙がウィザードに届いた。
それには『ウィザード職員の不手際でこちらの職員がけがを負ったのでディアブラーリに有利な条件で合併を進めろ』という旨が書かれており、当然だがエドは憤慨した。大切な職員が傷つけられたのはこちらのセリフだ。防御魔法が当たったところで負うケガなど擦り傷にも満たない内出血程度のものである。アリアを庇った女性研究員は戦場で使うレベルの攻撃魔法を受け、アリアの回復魔法をかけても未だ熱を出して苦しんでいるのだ。
そんな言い分が通用するはずもない。
「わしは拒否の手紙を送り返した。大事な社員をコケにするような内容を看過するわけにはいかん。あくまで冷静に、静かな怒りを込めて手紙を出したよ。でものう、どーしても許せん一言があったんじゃ。それが悔しくて日記にその気持ちを書いたんじゃ」
ディアブラーリはアリアを庇った女性研究員を『腑抜け職員』と表した。アリアを庇った行動を『愚行』と書いた。どうして何も知らぬ組織にそんなことまで言われなくちゃならない。アリアにはノルがいた。まだ年はたったの二つで、アリアと行動を共にすることの多かった女性研究員はノルのことを大層かわいがっていた。
子一人は辛いということも、孤児だった彼女にはよくわかっていたのだろう。アリアの視界の外からの魔法に無意識に体が動いてしまったのだと、迷惑をかけてすまないと涙ながらに謝っていた彼女を見てなお同じことが言えるのかとエドはやるせない思いだった。
「そのページは呪詛のごとく文字で真っ黒になってしまってのう。わしは破り捨てたんじゃ。それを見るたびに嫌な気持ちが戻ってくるからのう。でも次の日仕事に来たら、ゴミ箱からそのページだけが消えておったのじゃ」
「ゴミ収集とかじゃなかったってことっすよね」
「持ってったのがそれだけだもんね」
ナオの言葉に、ミラも同意するように頷く。
「そういうことじゃ。誰かが持ち去ったんじゃのう」
とはいえそれだけでは何もできようのないただの日記のページだ。共用のゴミ箱に入れたので誰のものかもわからないだろう。エドの筆跡を直に目にするような、高位の職員でもない限り。そしてそれらの職員全員がエドの問いに首を横に振った。
おそらく平の研究員の一人が物珍しさから持って行ったのだろうとエドは気にしないことにした。
その日はエドの手紙に縮こまったディアブラーリの幹部会と会議があり、約束の時間も迫っていたからだ。この案件は後回しでもいいだろうとエドはその場を後にする。
エドは外との交渉の際に職員を一人同行させる。商いという面での魔法を教えるためだ。己が研究しているものが、外にどのように還元されているのかという流れを見せるにはその方法が一番効果的なのである。
毎回、同行する相手とは研究所のエントランスで待ち合わせる。最近の順番から行くと、今日はマリーか、それかシモン、ああスベンもいた。さて……
『今日の同行は……おお、ラースか。んん? 何をそんなに怖い顔をしておる。笑顔が大事じゃよ。笑顔』
ラースはアツい男だということで組織内でも有名であった。目的のためならば何でもするという貪欲さも、いい方向へと導いてやれればこの上ない戦力になる。しかしいつも不機嫌そうな顔はしているが、今日は一段と目つきに棘のあるラースを見て、エドは少しばかり嫌な予感を感じた。
『……はい』
危機感を持ちながらもエドはラースの前に立って歩き始めた。交渉の後に話を聞いてやろうと。
エドはディアブラーリとの交渉をどんな状況に持ち込もうかということに気を取られ、ラースが白衣のポケットに手を入れ、何かをクシャリと握りつぶした音には気づけなかった。




