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73 ジャスパー=オースティン2


 ドロシーの顔の横に彼の手が置かれた。


「心外です」

「……」


 敬語交じりの拗ねたような声。

彼の手がおずおずとドロシーの方に伸び、髪をやさしく撫でられる。


「おれはずっと、いやそうな顔をしていたように見えましたか」

「……へ?」


 思ってもみなかった問いに、ドロシーはぽかんと口を開けた。

 ジャスパーは真剣な顔でドロシーの目を真っ向からみつめる。

 その声音がひどく不安げで、ドロシーの胸が締め付けられるように痛くなる。


「だとしたら、とんでもない誤解だ。君と一緒にいる時間が不快だと思ったことなんてただの一度もない」


 手は少し下がって、ふわりとドロシーの頬に触れた。

 ドロシーは生まれてこのかた、異性からそんな風に扱われたことは無い。

 まるで、こわれものに触れるかのような手つき。


「……う、うそ」

「違う」

「だって、今まで一回もあなたが私に触れてきたことなんてない。あなたがそうしないようにしてるのもわかってた。私に魅力がないからでしょう? 私に触れるのが、いやだからでしょう?」


 そのドロシーの発言を聞いて、ジャスパーの目が大きく見開かれた。


 そうなのだ。この人はドロシーに触れないようにしていた。

 一度何かの拍子にお互いの手が触れた時、ものすごい勢いでよけられたことがあった。

 ああ、この人も私に触れられるのは嫌なのだと、落ち込んだのを覚えている。


 ドロシーのもとに来る患者にもそういう人はいて、ドロシーが脈を計ったりすると口元をギュッと引き結んでいやそうな顔をこらえるのだ。

 触れてわかることは多いし、それをしないわけにはいかないのだが、自分の手が離れて露骨にほっとされるのはやはりきついものがある。


 それでも、哀れまれるよりは幾分かマシだ。


 そう回想したドロシーの顔を見、ジャスパーは、はぁ、とため息をついた。


「今回ばかりは、フィルに感謝しなくちゃいけないな……」

「え?」


 ジャスパーは、何のことかわからず首を傾げるドロシーの頬をなぜかむにむにとつまみ、ドロシーの瞳をじっと見据えた。


「いくつか質問させてください。大事なことです」

「……うん」


 この体勢で? と思ったが、大事なことだと言うのでドロシーは頷いた。

 たしかにこの結婚についてジャスパーと何か認識の違いがあるのは事実だ。

 すり合わせをしておく必要がある。たとえそれが、この結婚に愛がないことを確認するためのものであったとしても。


「まずはじめに、おれは君に触れたくて仕方がないんだが、どこでどうして『いやそう』という認識に至ったのか教えてくれないか」

「無理に気づかってくれなくても……」

「はやく」


 言うまでこのままだからな、という目がこちらを見る。


「……私と居るときにあなたが笑うのを見たことがない。討伐に行く前手が触れたことがあったときも、あなたは急いで離したように見えた。だからきっと、この結婚も私に触れるのも、あなたは嫌だったんだろうって……」


 ジャスパーは思い出すように目線を左上に走らせる。

 ややあって口を開いた。


「……おれは君と過ごしているとき、とんでもなく幸福だった記憶しかないのだが……」

「へ!?」


 全く予想外の返答にドロシーは思わず叫んでしまった。

 いつもと全く変わらない生真面目な顔でいうものだからなおさら。

 この二か月の間に、この人にいったい何が起きたのだ。


「手が触れた時の件は、すまない」

「……」

「あのまま触れていたら、止まらなくなりそうだったから。まだ君がおれの妻になったというのが信じられなくて。気を付けていたころの態度が抜けなかったんだ。君は弟の婚約者だったから」




 おれが手を伸ばしてはダメだとジャスパーは己にずっと言い聞かせていた。

 彼女は弟の妻になる人で、たとえどれほど好きで焦がれようと、手を出すことまかりならぬと。


 ドロシーは今日からおまえの妻だと言われたとき、ジャスパーはどれだけ神に感謝したかわからない。

 大切にすると心に誓った。決して弟がしたようにぞんざいに扱ったりせず、大事に、大事にするのだと。

 彼女が快く暮らせるように。自分と居るのが楽しいと思ってもらえるように。


「おれは君に無理強いしたり、ましてや泣かせたりしたくない。君が仕事に集中したいと考えているのもわかったから、その邪魔になりたくなかった」


 結局泣かせてしまったわけだが、とジャスパーはドロシーの目に残る涙を親指でぬぐう。

 その骨ばった手が自分に触れるたびに、ドロシーの心臓は妙にドキドキと鳴った。

 その音を打ち消すように、ドロシーは息をはいた。


「……私を嫌ってたわけじゃない、なら、よかった」

「……っ! ごほっごほごほっ」


 それを聞いて、なぜかジャスパーが口元をおさえ、大きく咳払いをして、強引に話題を変える。


「次に、『能無し』だの『かわいそう』だのの件ですが……」


 ジャスパーのまわりの空気が二、三セレン下がったような気さえした。

 ひんやりとした、静かな怒りだ。眼鏡の奥の瞳の蒼がぐっと深くなる。


「誰に言われた?」

「……」

「答えてください」


 ドロシーは気まずくなって目を逸らした。

 告げ口はあまり好きではない。


「……別に、なんとなくそうじゃないかって、思っただけで」

「なぜウソをつくんです」

「ウソじゃない」

「ウソだ」

「……」


 なぜ気づかれているんだろう。ドロシーがわかりやすいだけなのだろうか。

 それともこの人が鋭いんだろうか。


 でも、とドロシーは思った。

 ジャスパーの言う『ウソだ』にはどこか確信めいた響きがある。


 沈黙するドロシーの顔から何かを読み取ったらしく、ジャスパーは口を開いた。


「……おれは嘘がわかるんです」

「……そうなんだ」

「疑わないのか?」

「ウソなの?」

「……本当だ」


 ジャスパーはふうと息をはき、ベッドに置いていた手を戻した。

 ドロシーに覆いかぶさるようにしていた体も起こす。


「怖がらせてすまなかった。そんなに怯えなくても平気だ。これ以上は何もしない」


 膝を抱えて座ったドロシーの反対側に背を向けるようにしてジャスパーも腰かけた。

 顔が見えるでもなく、触れるでもなく、けれどほんの少し先にお互いの気配を感じる位置。


 嫌じゃなかったと言ったら彼はそのままでいてくれたのだろうかと考えて、それを打ち消すようにドロシーはこっそり首を振った。


「どうやって、ウソを見抜いているの?」


 ゆったりと続く沈黙の中、ドロシーはふと疑問に思って口を開いた。

 顔の見えない今なら、聞いてもいいような気がしたからだ。

 ジャスパーは言うのを迷うでもなく、いつもの真面目そうな声で教えてくれた。


「その人が嘘をつこうと思ってつくとき、その声が雑音に混じって聞こえる。それを買われて軍の情報部にいた。世界各地を回ってきた上司がいたんだが、その人が言うには、どうやら魔力の少ないものに稀に見られる能力の一つらしい」


 ジャスパーが微笑んだ気がするのは気のせいか。

 どこか陰りを帯びた、少し寂しそうな声。


「やっぱり、気味が悪いか?」


 その声は軽い質問の(てい)をしていたが、ドロシーにはなぜかこれが彼が本当に聞きたかったことのように思えてならない。

 この先のジャスパーとドロシーの関係を決定づけてしまいそうな、そんな直感。


 ドロシーは何と答えるか少し迷って、結局自分の本心を言うことにした。

 どうせウソをついても意味がないのだから。





「別に、何とも思わない」


 ドロシーの声はいつも通り。静かに降る雨みたいに、不思議とよく通る音。

 彼女の胡桃色のねこっけとともに、華奢な肩がふんわりとジャスパーの背中に預けられる。


 ドロシーの体温を感じながら、ジャスパーは泣きたいような気持になった。

 うちの妻はこれだから困る。いつもあっさりと、ジャスパーの憂いを消し去ってしまう。


「あなたがどんな力を持っていても、逆に何も持っていなくたって、あなたがあなたである限り変わらない」


 気づいたら、振り返ってドロシーを抱きしめていた。

 彼女をもっと近くに感じたい。

 なにもしないつもりだったのに、と彼女の低い肩に顔をうずめながらジャスパーは思った。


「おれの所属する小隊長のフィリップという男が、言っていたんです。『言わない』タイミングを間違えるなと」

「……」


 たしか、ミラがノルに何か想いを伝えるのをためらっていた時だったかとジャスパーは思い出す。

 ジャスパーはその様子を後ろで見ていた。

 フィリップの言葉を聞いて、大いに焦ったのは言うまでもない。

 自分は二人を微笑ましく見ている場合ではなかった。


「言葉通り、夢にまで見たあなたとの結婚のあと、まわりに散々あなたのことを自慢してきましたが、考えてみたらあなた本人には面と向かって伝えていないような気がした」


 ジャスパーは苦笑いする。自分のあまりの愚かさに。





「家に帰ったら言おう。一番に言おうと、そう決めて今日帰って来た」


 二つの蒼い瞳がまっすぐにドロシーを見つめた。

 窓からうっすらと差し込む星明りだけが、この部屋を照らしている。


「ドロシー、君を愛している」


 身体が離れ、代わりにこつんと、ジャスパーの額がドロシーの額に合わせられる。

 すぐそばにある彼の整った顔が、ほんの少し伺うような表情になる。


 返事の代わりに彼の瞳を見つめ返すと、やさしい口づけが落とされた。ドロシーはゆっくり目をつむる。


 長い。

 上を向くドロシーの頭の後ろと腰は、がっちり捕まえられている。


 束の間、彼の唇は名残惜しそうに離れ、ドロシーが目を閉じたままでよいのか迷っている間に再び触れる。




 

 深さを増した二回目の途中。

 ドロシーが火にかけた鶏もも肉の存在を思い出すまで、あと……



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