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72 ジャスパー=オースティン1

「お帰りなさい」


 夫の返ってくる足音を聞きつけ、ドロシー=オースティンは先に玄関扉を開けた。

 そこには穏やかなオレンジ色のポーチライトに照らされた夫の顔があり、その瞳が驚いたように瞠られる。


 ついで優しく細められた。


「ああ、ただいまドロシー」


 二か月ぶりのその姿は少しやつれているが、それでも怪我無く元気そうな様子にドロシーはこっそり安堵する。

 ひょろりと背の高い夫に対してドロシーは小柄で、顔を見るにはどうしても見上げなければならない。

 その首の痛みさえも嬉しいのだが、それは彼には内緒だ。


「ドロシーだ。おれの……ただいま」

「……わわわっ」


 彼はとろりと顔を緩めたかと思うと、ドロシーの手を引いてあっという間にその長い腕の中に閉じ込めてしまった。

 耳のすぐそばで彼の安堵の吐息が聞こえ、ドロシーはふるりと身を震わせる。


「ドロシー……好きだ。愛してる」

「ふぁ!? だ、大丈夫? せ、精神系の攻撃でも受けた?」


 ドロシーは普段の夫ならまず言わないだろう甘い声を耳にして驚愕した。

 そもそも彼が自分を抱きしめたいと思うことがあるなんて知らなかった。


 自分たち夫婦は紆余曲折あって交際期間がほぼゼロ。

その上、夫は結婚してすぐ『禍』討伐に召集された。

彼がどうしてドロシーを選んでくれたのかもわからないうちに


「帰ってきて扉を開けたら、愛する妻の顔があるんだ。うれしいに決まってる」


 言いながら、更にぎゅっと力が込められた夫の腕。

 ドロシーはいよいよ赤面した。彼は一体どうしてしまったというのだ。


「とりあえず中に入ろう。こんな玄関先じゃなく、もっと明るい場所で君の顔を見たい」


 黙りこくるしかないドロシーをひょいと持ち上げると、夫はその体勢のまま居間に向かう。

 どうやら身綺麗にしてから来たらしく、ほのかに石鹸の香りがした。

 ドロシーが使っているのと同じ、出発前に渡した石鹸である。


 本当にこの男はわからない。

 討伐に行く前はむしろ、いやいやドロシーと一緒にいるようだったのに。


「……な、なんで。突然……どうしたの?」


 以前の婚約者がよそに女を作って、ドロシーがためたお金をすっかり持ち逃げした。


 言葉にしてしまえばそれだけのことだ。

その割を食ったのが、今ドロシーを担いでいるこの男、ジャスパー=オースティンだった。

 失踪した元婚約者の兄である。


 ジャスパーの実家は商家で、ドロシーは医者。

 祖父同士の気まぐれな約束のせいで、ドロシーがその商家の男に嫁ぐことはすでに決まっていた。

 弟の方との婚約だったのは、そのときジャスパーが軍隊の情報部に所属していたからである。

 滅多に家に帰ってこないジャスパーよりも、という気づかいもあったのかもしれない。


 けれど結果として、ドロシーの婚約者は逃げ、ジャスパーがドロシーの夫になった。

 彼は軍隊の情報部に異動願を出し、現在は騎士団の小隊員である。

 もう一つ仕事があるようだが、それについてドロシーが聞いたことはない。


 忙しい身なのはお互い様だからと家事は分担されたし、ドロシーが医者として仕事をすることにも前の婚約者と違って文句は言われなかった。


 『回復魔法も使えない女が医者なんて』

 さんざん言われてきたその言葉も、彼の口からはただの一度も聞いたことはなかった。


ジャスパーとの結婚生活は快適だったと思う。


ふれあいがないことを除いて。


「や、やっぱりあなたも婚約破棄された能無しをからかうの?」

「君は何を言っている?」


 ジャスパーが訝しげに眉を寄せたが、ドロシーがそう思うのは自然な成り行きだった。

 婚約者に逃げられたあと、まわりの人々は一層ドロシーを見下したからだ。

 身の丈に合わない職に就いた上に、男一人つなぎとめる魅力もない女。

 周囲からのドロシーの認識はおおむねそのようなものだ


「それとも、哀れんでいるの? かわいそうになったから、一時の気まぐれ? そうだと言うなら、どうか離して」

「……本気で言っているのか」


 そこから響くような低い声に、ドロシーは身をすくませる。

 けれど不安は拭えなかった。


 思い出したのだ。

 ジャスパーが討伐に行っていた間、 以前同じ医院で働いていた同期の女の子たちがドロシーの診療所を訪ねてきたこと。

噂でドロシーの婚約が白紙になり、その兄とむずびなおされたことを聞いたようだった。

回復魔法を難なく操り、医院でも活躍していたその子たちとはもともとそこまで交流があったわけではない。

ドロシーはとろくて融通が利かないとむしろ嫌われていた。


好奇の目を隠そうともせずにいきなりやってきた彼女たちは、ドロシーのことをまるで誰かの噂話のように口にし、見ないようにしていた傷を容赦なくえぐった。

極めつけは帰り際の『ドロシーかわいそう』である。


 言葉とは裏腹に、それはどこか喜びの色を纏っていたのを覚えている。

 自分の嫌いな女が不幸だという、ほの暗い安心の色。


 その時感じた、ジャスパーもそうかもしれないという恐怖は、実際は想像以上のものだった。

 情熱的(ロマンチック)なものではなくとも、対等に、おだやかに接してくれるジャスパーとの時間はドロシーにとって大事なものだった。


 憐れみというのは、そのつもりはなくとも相手を一段下に見ているからこそ生まれる感情である。

 その関係は決して対等ではなく、同時に居心地の良いものではない。


 彼が自分に向けていたのがもし憐憫であったなら、ドロシーにはもうどこにも居場所がなくなってしまう。


「だって、だって前は、ずっといやそうな顔だった。そうじゃなくなったのは……そういうことなんでしょう?」

「なんだって?」

「それでも、あなたは違うと思ってたのに。あなたは……ジャスパーだけは、馬鹿にしないでくれるって思ってたのに……」


 とすんと、下ろされた先はベッドだった。

 いつの間にか方向転換していたらしい。


 涙目でジャスパーを睨みつけながら、どうしてこんなことになってしまったのだろうとドロシーは考えていた。

 さっきまで、鶏もも肉を焼いていたのだ。ドロシーが唯一知っている、ジャスパーの好物。

 直接聞いたわけではない。けれど食卓にそれが並ぶといつも、彼はどことなくうれしそうだった。


 労いたかった。安心してほしかった。ジャスパーの家は、帰る場所はここにあるよと伝えたかった。

 彼がくれる穏やかな日々にお礼をしたかった。

 玄関で待って、いくつも通り過ぎる靴音を聞いた。どれか一つが止まるまで。


たとえ彼の気持ちが自分に向いてなどいないとわかっていても。


 けれど今のこの状況はどうだろう。ドロシーが一方的に思いをぶつけたせいで、ジャスパーを労うどころかむしろ、いやな思いをさせている。

 私という人間は、なんて勝手で、なんてわがまま。


 じわりとドロシーの目に涙が浮かんだ。


今日はもう一話投稿します

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