70 入学準備1
「お嬢さま、そんなに詰めたら鞄がはちきれてしまいます」
「でもほら、教科書、紙、着替えとタオルとギルドカード、髪紐、シャンプー、リンス、せっけん、米のとぎ汁、本とお化粧品がちょこっとずつと包帯とガーゼと……」
「……」
どっすんと置かれたパンパンの鞄を見て、エマが渋い顔をした。
ミラは今実家のスチュワート伯爵家にいる。
先日ノルとともにラインハルトの留入学打診を受けて、フィリップ小隊一同ウィステリアに戻ってきたのだ。
到着後すぐ国王陛下に謁見し、息つく間もなく馬車に乗って帰宅。
打診を受ける旨の書類にハンコを押し、ラインハルト宛に提出し終えて今ここ。
もしやエマが待ち構えているんじゃなかろうか、と予想してうきうきしていたのだが、うちの侍女は特に何の感慨もなくスンとした表情であった。
まったく薄情なものである。
とりあえず今ミラが準備できるのはここら辺までであろう。
少し寂しい気持ちさえも鞄に押し込めるようにミラは荷造りの手を止めた。
エマが一瞬嬉しそうな顔を見せたような気がしたが、魔法書をどさどさ持って机に座ったミラを見てまたスンとした表情に戻る。
紙に試験の過去問を解いていく。
途中手が止まったら即チェック。
何の試験の勉強かというと、入学試験である。
え? 打診来てるんじゃないの? とミラも思った。
ラインハルト魔法学院の留入学打診は少し特殊だ。
それは留入学試験打診なのである。
『入学するための試験を受けるかどうか選べる』ということらしいが。
この打診が来ることも結構すごいことらしいのだが、その試験も難しいことで有名である。
打診が間違いではないことを確認するためのものだからだ。
試験の内容は大きく二つ。魔法実技とその他一般教養を見る学力筆記試験だ。
筆記試験の方は魔法だけでなく地理、歴史、語学、数学の計五つ。
よく見るやつである。
ミラは魔法実技での結果が見込めないので、学力で点数を稼ぐしかないのだ。
だというのに、ラインハルトの学力筆記は最難関で有名である。
魔法実技が精度、強さ、技術の各100点で300点。学力筆記各100点で500点。
計800点で、合格条件は6割の480点。
魔法実技の精度をなんとか半分とるとしても、難しいと有名の試験で430点だ。
うかうかしていたら学院に行くまでもなく落ちる。
試験範囲は以前勉強したところとエマにならったところなのでほとんど復習のようなものなのだが、わからないところはないか、忘れている箇所はないか、目を皿のようにして隈なく探して見つけしだい潰す。
そう。現代日本にいた忌まわしき蚊の如く。
「お嬢さま、私の髪、編み込みません?」
「ごめんエマ。後でね」
「……はい」
試験は1週間後。頭に入っている内容とはいえ不安要素は消しておかねばならない。
エマの誘いは大変魅力的だが、今のミラは1日も無駄にできないのである。
ガリガリガリガリ
この世界にもペンというものがある。
万年筆とちょっと似てるがあんなに使いやすくはない。すぐカスカスになってインク付け直しまくらなきゃいけないし、手も汚れやすい。
もっと使いやすくできないかな。
「お嬢さま、軽食を……」
「あとで食べるからそこに置いておいといてらってもいい?」
「……」
あの後ジャスパーが言った。グラマリーからの指令は三つであったと。
一つはウィザード元幹部ジゼルの監視。もう一つはウィザード所属のリオンの監視。そしてノルと、なぜかミラの保護観察。
しかしあくまで観察・監視は小隊での任務のつけ足しであり、それ以上の手出しもグラマリーからは禁止されている。
別にバレてもバレなくても特に支障はないのでフィリップだけに事情を伝えてあったそう。
『禍』討伐終了時点でミラとノルに留入学打診をすることは決まっていたので本格的な旅に出る前に打診を受けてもらおうと、ミラたちがアザレアにいる間にグラマリーに報告に帰っていたらしい。
カミングアウトの後リオンたちにも何やら話していたがその内容はミラは知らない。
「お嬢さま、お風呂が沸きましたが……」
「ここ終わったら入るね」
「……」
せっかくジャスパーに通してもらった推薦だ。無駄にしたくない。
ラインハルト魔法学院は入学した者が17歳になるまでの10年間の身の安全を保障する。
ノルがなにも気にせずに大人になれるなら、それを隣で見ていられるチャンスがあるなら、ミラは何としてもつかみ取りたかった。
「お嬢さま、お風呂です」
「だからここが終わったら」
「お風呂です」
「だから……」
言いながら顔をあげたらすぐ目の前でエマがのぞき込んでいた。
「お風呂です」
「……はい」
めずらしく怒っている顔である。ミラはおとなしく言うことを聞く。
「初日に気合を入れてもだめです。初日の気合は初日限定ですから。長く続けたいのなら、自分が弱っているときに合わせた方法をとってください。今身体を壊してしまったら、合格どころかゼロ点です」
「……はい」
「お座りください。髪を梳かします」
ミラは鏡の前に座る。編み上げていた髪がほどかれ、丁寧にブラシで梳かされる。
なんだか心地よくて眠い。安心しているからだろうか。
「あ、あの。お嬢さま」
「んー?」
「お、怒ってたりしませんか……?」
突然の謎の問いにミラの眠気が吹き飛んだ。
「なんで!?」
「いえあの、つ、強く言いすぎたかと……」
「いやいやいやいや、それはない」
「ならいいのですけど……」
エマはそれ以上何も言わずにまたミラの髪を梳かす。
『は、恥ずかしい。お嬢さまが帰ってきて浮かれすぎだ。自分がかまってもらえないからって……』
「ほぇあ!?」
「え?」
最近心の声聞こえる頻度高くない? とミラは思った。しかもなんかあんまり深刻でもなさそうなときに。
いや、今回のは割と深刻かも。深刻なかわいさだ。
というかさっきの『髪編み込みません?』はエマのかまってアピールか、とミラは気づく。
深刻なクーデレだ。
「もしかしてエマ、結構寂しかった?」
「な!」
鏡を見る。エマの顔が真っ赤である。
「そんなわけありません。私はいつも通りですお嬢さま」
「そう?」
「はい」
「そっか」
エマがミラの髪を梳き続ける。さっきから同じところばかりだ。そこだけサラサラになってしまう。
「そ、そそそ、そんなことよりお嬢さま、髪の色なんだか前より淡くありません?」
「あ、やっぱエマも気づいた? ライラにも言われたんだよね」
「はい。上から徐々に」
「なんでかわかったりする?」
「うーん、髪の毛の色素変化は単純に体内の魔力量の変化だと思うのですけど、お嬢さまの魔力量に変化は見られませんし……」
あいかわらずさらっとびっくり発言をする侍女である。
「体内の魔力量って、見れるの……」
「え? ああ。ざっくりとですが」
「うそぉ……」
「それはちょっと複雑なので説明は今度しますが、きちんとした手順を踏めば魔力のより明確な可視化も可能ですよ。まずは……」
お椀のようにしたエマの両手のひらの上に青白い光が集まっていく。
「次に自分の周辺の空気をマイナス30セレンまで下げます」
エマはパチンと指を鳴らした。部屋の温度が一気に数十度下がる。
エマが温度変化の魔法を使ったのだ。
この魔法は温度上昇は比較的簡単なものの、降下が非常に難しい。
しかし恐ろしいことに部屋の温度計でこの部屋は今ぴったりマイナス30セレンである。
ちなみに1セレンは現代日本の1℃と同じだ。
水が凍る温度から沸騰する温度までを100個に区切ったセルシウス温度と同じようにできている。
つまりこの部屋は今めちゃめちゃ寒い。
「魔素の凝華点はご存知ですね?」
これはエマに教わった。
魔素はいろいろ不思議な物質だ。
その一つに液体という状態がないことがあげられる。
そもそも状態変化が適応できるのかもわからないが、便宜上、気体、固体の2つの状態に分けることができ、その2つの状態を行ったり来たりする。その気体から固体に変化するときの温度を凝華点と呼ぶ。
ちなみにマイナス30セレンだ。
「うわあ……綺麗……」
エマの手のひらの上の魔力がだんだんと固まっていく。美しい立方体だ。
うっすらと青く透き通るその立方体はエマの空中でくるくると回転している。
「魔素だけで凝華した場合、その固体は0.5×0.5×0.5立方メートルの体積の立方体になります。必ずです。そういう特性です」
「ほほう……」
「ですので、これの質量を調べれば、先ほど私が出した魔力量がどれくらいかわかります」
「おお~!」
中学理科。密度の問題みたいである。
「ですが、魔力量は非常に単位が小さくて、それを精密に測れる道具がありませんので現在は目視で濃さを見ます。色が濃いほど魔法は高威力になります。だから大まかな強弱しかわかりません」
「じゃあ仮にエマが全力で魔力を出して固めたら、この青がすごく深い色になるってこと?」
「限りなく黒に近い青になります」
「へえ~!」
ミラはエマの手の上で回る立方体をいろんな角度からじっくり見る。
神秘的だ。
「へっくしゅっ!」
くしゃみが出た。部屋がマイナス30セレンならしょうがあるまい。
エマはミラのくしゃみに驚き、慌ててもう一度指をパチンと鳴らす。
すると部屋の温度が元に戻る。
美しい立方体は常温の状態に戻り、それもやがて見えなくなった。
部屋の温度計は何食わぬ顔で20セレンを指している。
「……すごい綺麗だったなー! さっきの! また見せて!」
「お嬢さまにもできますよ」
「ほんと!? へっくしゅっ! くしゅん!」
「……とりあえず、お風呂入りましょうか」
「うん!」
エマとのお風呂は久しぶりだなと思いながら、ミラはホカホカと湯気を立てる浴室へと向かった。




