19 ノル3
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頬に温かいものを感じてノルは目を覚ました。
目に残る水滴をまだ幼い少年の手でぬぐって、彼は起き上がる。
窓の外は雨だった。鈍色の雲から次々に落ちてくる雫は、萌葱に生い茂る木草を淡々と濡らしている。
ノルはしばらくベッドに腰かけて雨の音を聞いていた。
「……ゆめか」
ノルは誰にいうとはなしにそうつぶやいてベッドから降りる。
あれからもうすぐ2年が経とうとしているというのに少しも色褪せることなく思い出せてしまう。
台に上って自分で水を汲んで、顔を洗う。
白いシャツに袖を通し、サスペンダーのついたコーヒー色のスラックスを着て、最後に仕上げのように丸い眼鏡をかけた。
それから部屋にある台所に台を置いて立ち、小さな冷蔵庫の中からタマゴを2つ取り出す。
温めたフライパンにバターを落として溶かし、そこに溶いた卵を流し込む。
とんとんとフライパンの柄を叩きながら、綺麗なオムレツの形をつくる。
それが終わると、今度は、小さな手でトマトを切って、レタスをちぎり、昨日つくり置いてあった野菜のスープを温めて、マグカップにそそぐ。
それを部屋の中央にあるテーブルに運び、席に着く。
いただきます。と手を合わせる。
まだ母が生きていた時に、遠い東の国から来たという侍女から教わったものだ。
テーブルを見やると小さなメモが置いてある。
ノルが今日の予定を忘れないように、と昨日書き留めておいたものだった。
・朝7時から勉強。時間割は、礼儀作法、歴史、地理、の順。
・正午から父上に謁見。のち、騎士団フィリップ小隊の面々と会議。王宮で済ませてから戻る。
・夕茶会は欠席連絡済み。あの丘に行く。
最後の一文を見て、ノルは表情のない顔にふんわりとかすかな紅色を乗せ、昨日出会った少女のことを思い出す。
夏色のワンピースに身を包み、軽やかに踊る七色の雨の中で微笑んでいた彼女。
日の光を受けてきらきらと輝く姿にノルはわかりやすく見惚れた。
その顔を隠したくて、見つかったときにとっさに妙なポーズで謝ってしまった。
『ねえ、名前は? どうしてあそこにいたの?』
こちらを見る彼女の深い琥珀色の瞳が、たとえようもなく美しくて、ノルは一瞬言葉に詰まってしまった。
『なんなら、一緒に魔法でも練習する?』
嫌なことがあってここに来たと言ったノルを気遣っての言葉だろう。
なんてことの無いような笑顔とともに、発せられたそれに、ノルは以前心にあった温かいものが、かすかによみがえるのが分かった。
もしも――
もしもこの離宮に彼女が遊びに来てくれたら、どれほど賑やかなんだろう。
そんな考えが一瞬ノルの頭をよぎり、すぐに消えた。
ノルにとって、それは実現することの無い想像だ。
王宮から隔離されるようにつくられたこの離宮は昼でも薄暗くて、空っぽだ。
誰かが会いに来ることはない。
ここに来てから毒を盛られる回数が増えて、寝込みを襲われそうになったこともあったから、ノルのほかには信頼できる騎士が一人とじいやしかいない。
この騎士は以前の騎士団部隊長だった男で、離宮に移り住むと同時についてきてくれた。
国王であるはずの父は何もしなかった。
護衛の兵をつけるでもなく、顔を見に来ることも、笑いかけてくれることさえ――。
剣の稽古で全身傷だらけになっても、魔法の時間に大やけどを負っても、父の顔に心配の色はなかった。
怯えたような目で、地に倒れ伏した宮廷魔法使いと騎士団部隊長を見るのみだった。
がんばっても。がんばってもがんばっても。
どれほど強くなっても、有能になっても、いや、強くなればなるほど、有能になればなるだけ、国王はやはり畏れるようにこちらを見る。
それだけだった。
昨日、国東部に出現した、『禍』の討伐を命じられた。
『禍』は人々に害をなす存在そのもの、と言い換えていい。
放っておけば、病が流行り、犯罪が横行し、穀物の芽は枯れ、人々は飢える。
それにとり憑かれれば、無事ではいられない。正気を失い、だれかれ構わず攻撃し、最後には自らの手で命を絶つ。
今回、別の魔物の討伐に行った冒険者パーティーが遭遇して発見された。
今はまだ、森の奥に小さく存在しているだけだが、半年もすれば周辺の街を飲み込むほどになる。
本来ならじっくりと対策を講じたうえで、十分な装備と人員を配備して討伐に行くものだ。
小さくとも、一旅団ほどの兵が与えられるはずである。
しかし王がノルに与えた軍勢はわずか一小隊だ。出発は三か月後。
それ以上の『禍』の放置は危険だという判断だろう。
父親の怯えたような瞳、わずか一小隊での『禍』の討伐。加えて、ノルはまだ8歳にも満たない少年である。
いくらノルが強いと言っても、これではまるで、まるで――。
どんなに否定したくとも、それが意味するところはひとつであった。
「父上は、ぼくに、死んでほしいみたいじゃないか」
自嘲するような笑みを浮かべてぽつりとこぼすノル。
口にすると、急にそれが現実として襲い掛かってくるようだった。
その考察は、その年で抱えるにはあまりにも重すぎるものだった。
彼の傍には、それを否定しうる人も、ともに背負ってくれるような人もいない。
きっと生きて帰っても、もう王宮にノルの居場所はなくなっているだろうというのは容易に想像がつくことだ。
さびしい。
それは瞬く間にノルの心を埋め尽くしていく。
しかし誰にも届くことはない。
さびしい、さびしい、さびしい。
『ノルは、ノルでありなさい、ということです。わかるわね?』
「おれはなんのために生きている……?」
その呟きは虚ろな離宮にぽつりと響いて、誰にも聞かれることなく消えた。




