『外伝①』茄子君彼を知りたい
彼女は高嶺の花だった。
「おはようございます」
たった一度、挨拶されただけ。
たったそれだけのことで、自分の初恋は彼女に奪われた。
陳腐な表現ではあるけれど、一目惚れだった。
きっと自分の他にも、そうやって彼女に惹かれた男は何十人もいる。
多くを語らぬミステリアスな雰囲気も。
毎回のごとく、当然のようにテストで満点を取る非常識さも。
現実感の無い、どこか浮世離れした性格も。
まるで、現実にはいない、どこか遠い世界に生きているかのような。
手を伸ばしても決して届きはしない、決して汚せぬ宝石のような。
そんな、汚れなき聖域のような彼女に。
ある日、男子達の想いなど素知らぬ女子達がいつものように絡んでいた。
「橘花ちゃんって、彼氏とかいるの?」
去年も、そのまた去年も、この話題が出たことはあった。
彼女の答えはいつだって同じもののはずだった。
「いませんよ」
一年目はホッとした。
もしかしたら自分にもチャンスがあるかも、なんておこがましくも考えた。
「いませんよ」
二年目は嘲笑った。
彼女と釣り合う人間など、この学校にいるはずもないだろうと。
もうその頃には、ほんの一欠片の希望も無くなっていた。
彼女はきっと、誰とも愛し合わずにこの学校を出るのだろう。
告白し、玉砕する男共を何人も見てきた。
運動部のエース、生徒会長、大企業の御曹司、学校一の美男子。
その誰も彼もが、彼女にとっては興味の無いものだった。
男共は次第に、ある種の共通認識が生まれつつあった。
『沙華 橘花 は誰とも付き合うことはない』
それは男共の負け惜しみでもあったのだろう。
自分がダメだから振られたわけじゃない。
誰が行ってもダメなのだ、と。
自分が惨めなのではなく、あいつが異常なのであると。
変なプライドから出た噂ではあるけれど、実際今まではその通りだったのだ。
彼女にはどんな男も寄り付かず、すり寄ろうとしてもはたき落される。
多分、石油王が求婚しても、彼女は袖に振るだろう。
彼女にとって、才覚や資金は大した価値もないらしい。
では彼女にとって何が価値あるものかと聞かれれば、誰もが首を傾げるだろう。
沙華橘花に、凡人が考えるような常識は通用しない。
だから、愚かな女子の質問に対する答えも、いつも通りのはずだった。
「いますよ」
その日、我らが母校に核爆弾が投下された。
★★★
「ふざけんなよ」
多分それは、この学校にいる全ての男子、そして一部女子達の総意であろう。
「なんでお前なんだよ!」
去年沙華橘花に告白し、そして玉砕したテニス部の部長。
彼がまず真っ先に、沙華橘花の彼氏であると男に殴りかかった。
「……いや、だから。知らねぇって」
「このっ……!!」
鍛え抜かれた右腕が、そいつの腹に突き刺さる。
大きく咳き込み、苦しそうに呻いている癖に、そいつは笑みを絶やさない。
「なんでお前なんかが、あいつと付き合ってんだよ。何がいいんだよ、お前の」
「あー……誰でもよかったんじゃねぇの?」
「はぁ?」
「俺でなくても、誰でもよかったんじゃねぇの?だって俺、別にあいつから好かれてるわけじゃないし」
「……なんで好きでも無い相手と付き合ってるんだよじゃあ」
「知らん」
「ふざけんな!!」
次は顔を殴られた。
痛そうにしている癖に、全然態度を変える気が無いそいつに、皆苛立ち始めている。
自分達が届かなった花を、易々と手に取った、大してやる気も人気も無い男が。
自分はあまり暴力沙汰に関わりたく無いので参加はしないが、もし今行っている行動が正当化され罪に問われないなら、自分も今すぐに参加していることだろう。
何せ、自分達が手に入らないものを手に入れておいてあの態度だ。
そりゃ怒りもたまるというものだ。
「何やってるんですか?」
凛とした声が、彼の拳をピタリと静止させた。
おそるおそる振り返った先にいるのは、事の発端でもある彼女。
「いや、これは」
「喧嘩ですか?」
沙華橘花が自分から誰かに話しかける。
それ自体初めて見るが、何より驚いたのはその顔だ。
鉄仮面のように無表情でいた彼女の顔が、まるで普通の女の子のように、心配そうな……或いは、どこか楽しそうな顔をしていた。
「大丈夫ですか、図書委員さん」
「もとはと言えばお前が原因なんだが?」
「そうなんですね。ほら、保健室行きますよ」
彼の手を握りしめ、彼を引きずりながら保健室に向かう彼女。
今までの印象とは180度異なった、なんともまあ珍妙な光景。
それを見て、自分は確信した。
彼は、沙華橘花にとって唯一の人間なのだ、と。
★★★
「『遠藤 雷知』、か」
保健室から出て、楽しそうに話をしている二人を見て、ひとり思う。
何故彼は、彼女に認められたのだろうかと。
「負けているのは百も承知だが、敗者にも敗因を知る権利はあるだろう」
彼女の目に、自分など初めから映り込んではいない。
それどころか、彼を除く他全ての人間は、彼女の目には映らない。
最初からそこにいなかったかのように、最初からそれが存在しないように。
まるで幽霊でも見るかのように、まるで自分には関係の無いものかのように。
そんな彼女がたった一人、唯一関心を持つ男。
「気にならないわけがないだろう」
恋愛的で彼に負けたのにショックを受ける心はある。
だがそれ以上に、あれほど謎に包まれた彼女の心を溶かした彼を、自分は知りたくなったのだ。
一人の女に恋をしてしまった男として。
そして何より、将来の夢である新聞記者、真実を探求する志が燃えるのだ。
「覚悟するがいい、遠藤雷知。新聞クラブ会長、茄子の名において。必ずお前が何者なのかを探求しよう」