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『外伝③』下田遼輔の宝物

『スポーツドリンク、いりますか?』



 照り付けるような太陽の下、テニスコートから追い出され、ランニングをしてこいと怒鳴ってきた顧問の命令で、校舎の外周を五周回ったところで倒れ伏してしていた。

 俺は顧問から嫌われたらしく、練習メニューが俺だけ異様に厳しかったり、逆らえば平気で殴りかかってくるあいつの恐怖に、俺達は正常な思考回路を失っていたのだろう。

 顧問の命令は、俺達にとって絶対のものとなっていた。



『か、ひゅ』


『唾も出せないくらい、身体の水分を持ってかれてるんですね。口開けてください。飲ませてあげます。ゆっくりと飲み干して、無理に動かないように。多少零しても構いませんから、落ち着いて飲んでください』


『あ、ぐ、ぐ』


『この猛暑日に、飲み物も持たず何をやっているんですか?』



 沙華橘花は若干面倒くさそうに、倒れている俺を見てそう聞いてきた。

 自分の手の中で冷たく揺れるスポーツドリンクが、その時の俺にとっては、金塊やダイヤモンドなんかよりもずっと輝いているようにすら見えた。

 暑さで朦朧とする中、どうにか状況を説明した俺に、彼女は溜息を吐いて。



『この暑さの中、一人だけランニングなんて。随分と練習熱心な部活なんですね』


『えっと、沙華さんだよな?本当に、ありがとう。おかげで助かった』


『礼も返事もいりませんよ。多分熱中症ですね。保健室は空いてると思うので、水分だけ補給して早めに向かってくださいね』


『……いや。練習サボると、また、顧問にどやされちゃうから』


『はぁ。サボり、ですか』



 彼女からの酷く呆れたような目線に、酷く居心地が悪くなる。

 あの怒鳴り声が怖くて渋る俺に、彼女は少しだけ考えた素振りを見せた後。

 俺の腕を引っ張って、肩を掴み、そのまま歩き出した。



『えっ、ちょ』


『気を失ったあなたを、私が勝手に保健室に連れて行った。不可抗力であなたに非は無かった。筋書としてはそんな感じでいいでしょうか?』


『いや、あの。俺めちゃくちゃ汗をかいてるし、沙華さん今制服着てるし』


『命を救う代価と考えれば安いものでしょう。顧問の先生が怖いやら、女子の制服に汗を付けたくないやら、そんなくだらない理由で死なないでくれません?』



 ぴしゃりと言い切って、何も反論できなくなった俺を重そうに持ちあげて。



『死ぬなら、もっとどうしようも無いような。死んでもしょうがないって思えるような理由を、用意してくださいよ。じゃなきゃ、私がバカみたいだ』



 俺には、その言葉の意味がよく分からなかった。

 その後俺は、保健室に連れていかれて、休ませてもらって。

 ようやく落ち着いてきたときに、顧問が保健室にまで怒鳴り込んできた。



『貴様、練習をサボってこんなところで何をしている!?』



 保健室の先生がいくら宥めて、どうにか説得しようとしても意味をなさなかった。

 気合が足りないだの、ただ楽したいだけだの、心の持ちようだのと。

 次第に、説得に努めていた保険室の先生の顔にも、疲れが見え始めた頃。



『私ですよ。先生』


『あぁ!?』


『私が勝手に買って、勝手に飲ませたんですから。彼に怒鳴りつけるのは筋違いでしょう。それ以上喚きたいなら、どうぞ私にその臭い口をバカみたいに開いて、聞くに堪えない雑音を喚き散らしてください。受けて立ってあげますので』



 その場にいた全員が啞然として、普段の様子とはかけ離れている沙華橘花見つめていた。

 優等生、才色兼備、学園のアイドル、挙げればきりがない彼女に関する評判。

 物腰柔らかで、誰にだって怒ったことがない、なんて言われていた彼女は。



『さ、沙華!貴様、教師に向かって……!』


『殺人未遂ですよ。私が見かけてなければ、まず間違いなく脱水症状で死んでいました。何を考えて生徒から目を離し、あんな長距離を走らせていたんですか?完全にオーバーワークな上、万一に備えて最低限他の部員を付けておくべきでしょう』


『部員でもない生徒が、顧問の指導に口出しをするのか!?』


『今回の件は、生徒だの顧問だの以前の問題です。以前から悪い噂は聞いてましたが、ここまでの大事を起こした上で被害者に謝罪も無いとは驚きました。自分の立場しか縋るものが無い人の典型ですね。立場と恐怖で、自分に都合がいいルールを作ろうとする』



 沙華橘花は、奴の怒鳴り声をまるで意に介すことも無く、静かに反論を重ねた。

 保健室の先生ですらも、その迫力に口を挟むことすら出来なかった。

 この場を完全に支配していたのは、彼女だった。

 だから、あいつは業を煮やしたのだろう。



『あなたは。生徒を殺しかけた、最低の教師です』


『……あまり調子に乗るんじゃねぇ、クソガキが!』



 バチン、という鈍い音が鳴り響いて、一瞬の静寂が訪れた。

 成人男性の、それも無駄に身体を鍛えている体罰教師の掌が、彼女の頬を叩いた。

 保健室の先生は慌てて彼女に駆け寄ろうとして、顧問の奴は黙り込んだ彼女に、まるで勝利を確信したかのような笑みを浮かべて。



『──あぁ、そうですか』



 氷よりも冷たい声が、顧問を一歩、後ずさらせた。

 鼻から血が出て、酷く赤くなっている頬に、彼女は一片の動揺すら見せずに。

 ただ静かに、無感情に顧問の眼を射貫いて、大声で叫んだ。



『きゃあ!誰か、助けてください!』


『なっ』


『殴られて、血が出てしまいました!誰か、誰かぁ!』



 いつも通りの、優等生の顔に戻って。

 さも悲惨そうに、痛みを堪えるように、助けを求めて、大声を挙げた。

 すぐに騒ぎが広がって、保健室に向かう足音や声が多く集まってくる。



『お、お前!』


『これが、今の世で。指導ってことで済んだらいいですね』


『お前が、ふざけたことを言うから!』


『子供の理屈を並べないでくださいよ。あなた達が言い聞かせるべきことでしょう?』



 隠していたボイスレコーダーを見せて、彼女は初めて、楽しそうに笑った。



『喧嘩って言うのは。先に手を出した方が負けだ、って』



 録音した音声を流して、一連の流れを再生させる。

 固まる顧問に一瞥もせず、彼女は俺にボイスレコーダーをポン、と渡して。

 ひらひらと手を振る彼女の顔は、腫れきった頬のせいで普段の可憐さとはかけ離れていて。



『それじゃあ、あとはそちらで済ませてくださいね?』



 それでも、何よりも美しいであろう彼女の笑顔に。

 俺は、初めて恋をした。







『すいません。せっかくの告白で申し訳ないのですが、お断りしますね』



 あれから結構、俺もがんばったつもりだった。

 元から部活内じゃテニスの腕は良かったし、顧問が変わり、あいつからのやっかみが無くなった後、三年生が引退すると同時に俺がテニス部の部長として任命された。

 練習も、熱中症にならない程度には必死にやったし、成績も同級生の中じゃトップクラス。

 時折彼女とも気軽に話ができるようになったし、彼女も嫌な顔はしてなかったはずだ。


 それでも、彼女を振り向かせることは出来なかった。



『……その。手紙、読んでくれたんだな』


『ええ。結構読み応えあって驚きました。文系なんですね下田君。顔に似合わず』


『友達にもよく言われるなぁ。未練がましいんだけどさ。ダメだったところ、教えてくれないか?もしあるのなら、どうにかして直すから。その時に、改めて……』


『私って多分今のところ、学校でも一番人気な生徒じゃないですか』



 彼女は突然、そんなことを言い出した。

 それは確かな事実であるし、誰だってそれを肯定するだろう。

 けれど、それを彼女自身が言い出したことに、俺は困惑していた。



『ちょっと驚いた。沙華、お前そんなこと気にする性格だったんだな』


『下田君、最近とっても人気ですよね。周りのクラスメイト達も囃し立ててますよ。私とあなたがお似合いだとか、美男美女のカップルだとか。最初会った時とは見違いましたよね、ほんと』


『そう、かもな。けど、俺、他の奴らからの人気なんて別に欲しいわけじゃない。ただ、お前と釣り合いたかったんだ。誰が見てもお前とお似合いだって、一緒にいても納得されるような男になりたくって、頑張ったんだよ。それでも、足りないって言うなら……』


『鬱陶しいんですよね』



 思わず、言葉を詰まらせた。

 彼女はいつも通りの笑みでは無く、俺が惹かれたあの時と同じ目で。



『鬱陶しい……?』


『はい。きっとあなたは、やろうと思えば今のあなたになれる人だったんでしょうね。大好きなことで誰よりも優れるようになれて、自分自身の努力に応えられて。頑張ったんでしょうね。凄いです。本当に本当に、些細な切っ掛け一つで、よくもここまで立派な人になれた』


『……じゃあ、なんで』


『あなたは何かを叶えたとしても努力できる人でしょう?切っ掛け一つでどこまでも走れる人でしょう。だから、あなたは私を飛び越えて、私はあなたの切っ掛けに成り下がる。私が必死に築き上げた価値を、あなたはいともたやすく崩して壊す』



 俺には彼女が何を言っているのか、理解することは出来なかった。

 仮に理解できても、きっと俺は彼女の言うことを受け入れることは出来ないのだろう。

 俺は、大嫌いな奴に感じていたそれを、大好きなはずの彼女からも感じ取ってしまった。



『フフッ。そうですよね。きっと私とあなたじゃ、価値観が違うんだと思うんです』



 いともたやすく、それを言葉にして突き付けられた。

 あの顧問が言っていることも、やっていたことも、俺は全く理解出来なかった。

 だから怖かった、何をするかが分からず、一歩間違えれば殺されるかもしれないなんて、普通に暮らしていれば感じることのない焦燥を味わったから。

 けれど彼女は、あいつに一切の恐怖を持たず、ただ淡々と対応していた。



『私。あなたが嫌っていたあの人の事、理解できるんです』


『何を……』


『だって、ズルいじゃないですか?才能があって。顔も良くて。友達も沢山いて。それら全てを、本気にならずとも手に入れていた。どん底に居て、ただ見上げるだけなら憧れで済ませられるけれど。彼は社会の立場として、あなたより上の立場にあった』



 俺はかつて持っていたそれらを、当たり前だと思っていた。

 努力は報われて、友達はいい奴らばっかりで。

 けれど彼女にとって、それは当たり前では無かったようだ。



『なんで自分はこんなにつらいのに。お前はそうやって、何の苦労もせずに笑えるんだ?って』



 なんであいつが、俺を目の敵にしていたか。

 それを彼女に教えられて、今初めて知った。



『ええ、嫉妬です。薄汚くて省みる価値も無い、くだらない悪意です。けれど私、理解出来ちゃったんです。ああ、私も同じ立場ならそうするかもなって、理解出来ちゃったんですよ。あなたがきっと思わないであろうことを、私は思えてしまうんですよ』


『沙華は。そんなこと、しないだろう?』


『あなたはきっと、そう言うんでしょうね。本当に立派な、いい人だ』



 彼女は諦めたように笑った。

 慌てて何か、彼女からの好意を得るための言葉を探した。

 理解できなくても、ハリボテでも、俺は彼女と一緒に居たかったから。

 可憐ではなくとも、何よりも美しいあの笑みを、もう一度だけ向けてほしかったから。



『最後に、ひとつだけ。あなたは。私と一緒に、死ねますか?』


『ああ、勿論!俺は、お前のためなら……!』



 薄っぺらく聞こえたかもしれないけど、それは本心だった。

 俺には彼女のことは何も分からないけれど、それでも俺は、手を伸ばしたかった。

 長い時間を経て、理解して、沙華橘花の理解者へとなりたかった。



『うん、やっぱり』



 けれどそれは。

 彼女の求めた返答では無かったようだ。



『下田君って。一緒にいたら、なんか鬱陶しそうかな』



 俺の求めていた彼女の笑みは、拒絶と共に突き付けられた。







『ちゃんと断ったんだろうよ、きっと。あんたが本気だったから』


「分かってんだよ、そんなこと」



 あいつらと別れた後で、どうしようも無いやるせなさと共に溜息を吐いた。

 分かっている、沙華橘花にとって、俺はそう悪い奴では無かったんだってことも。

 分かっている、あの男にとって、沙華橘花は理解できない存在ではないってことも。

 分かっている、遠藤雷知と自分には、彼女にしか見えない差があるのだと。



「分かっては、いるけどさ」



 些細な切っ掛け一つで、よくもここまで立派な人になれた?



「些細な切っ掛けなんかじゃ、無かったんだよ」



 お前も、俺のこと、全然理解できてなかったじゃねぇか。



「謝って、話をして。多少はすっきりできたかい?」


「……ああ。その、悪いな。場を、整えてくれて」


「まったくだ。二度とあんな真似はするなよ?次やったら本気で君を殴る。ボコボコにする」


「分かってる、分かってるって!」



 俺はいい友達に恵まれていると思う。

 俺はテニスの才能があるんだと思う。

 けれど俺は、彼女が言う程、立派な人ではないと思う。



「なぁ。俺って結構、嫉妬深いし、くだらないことするし、割とバカだよな?」


「割と、ではなく。普通にバカだな。成績が良くても、頭の悪さは治らないものだ」


「言いすぎだコラ。けどまあ、そうだよなぁ」



 あいつには悪いし、馬鹿なことをしたな、って今じゃ思うけれど。

 今なら、ほんの少しだけ、彼女のことを理解出来たのかもしれない。

 スマホのメッセージアプリを開いて、保留にしていた返事を打つ。



「ようやく吹っ切れたか?親友」


「おう。俺に告白してくれた子にちょっと会ってくるわ」


「勇気を出してくれたんだ。受けるにしても断るにしても、誠実にな」


「分かってるよ」



 ペットボトルの中に入ったスポドリを飲み干す。

 それを見たあいつが、少しだけ呆れたような目で俺を見て。



「水筒くらい買えばいいだろうに」


「うるせぇ。俺の命を救ってくれた恩人だぞこいつは」



 俺に彼女は理解できないけれど。

 何ならこれを聞いて、引いてる姿すら想像できるけど。

 それでも俺にとって、彼女から貰ったそれはずっと。



「宝物なんだよ、こいつは!」


「割と重いよな、お前」


「うるせぇ!」



 ずっと、大切な宝物なんだ。

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