憧れの人
『まずは、人より好かれる人間になろう』
子供というのは、大なり小なり人生を楽観視しながら生きていくものだ。
俺はその中で、人生をかなり甘く見ていたクソガキだったのだろう。
自分は特別だと、なんでもやれるのだと勘違いした奴の栄誉は得てして短い。
『■■■君、サッカーの助っ人来てよ!』
『■■■君、またテスト百点だったの?』
『■■■君、もうそのゲームクリアしたんだ!早いなぁ』
あの男を演じるために、まずは人気を勝ち取ることにした。
離婚のごたごたのせいで転校する羽目になったが、それがチャンスだと考えた。
少し観察すれば、小学生という年齢層が運動能力が高く、明るく、よく喋り、自分に利益を与える人間を好むことはすぐに分かったし、それを実行に移すことはそう難しくは無かった。
実際にどう思われていたかは知らないが、教師からの受けは良かったのだろう。
物覚えは早い方だし、やる気は他よりあったから、すぐに知識を吸収できた。
あとは適当に上手くやれば、とりあえず周りに頼られる、立派な天才もどきが出来上がった。
その頃にあいつと出会ったと思うが、正直なところあんまり覚えていない。
というより、個人のことをちゃんと見るようになれたのが、中学生になってからだった。
小学生の頃の人間は酷く単純で、分かりやすかったから。
『次は、天才にならなくちゃな』
一通り評判が良くなったあとは、あいつと同じ歳に児童劇団に入った。
幸いにも才能はそれなりに受け継いでいたようで、自分でも驚くほどトントン拍子に劇の主役を任されて、他のメンバーからの信頼も獲得できた。
もっと辛く、苦しい道だったと考えていたから、少し拍子抜けだった。
『別に過酷な人生送って歪んだわけでも無いんだな、あのクソ野郎』
あいつへの評価が、また地の底を突き抜けてマントルにぶっ刺さった。
なんで母さんがあいつのことを好きになったのか疑問に思いながらも、あいつの真似をして、あいつを演じて、数年の月日を演劇につぎ込んだ。
『天才になるのって、案外難しいのか?』
そしてそれくらい演劇に関わり、実力を認められると、自然と上を勧められるわけで。
一度楽できたことを経験すると気が緩むもので、最初の方は苦労させられた。
天才が努力して、秀才がもっと努力してようやく足を踏み入れられるステージに立って、俺はようやくあいつが少しくらいは努力したのかもしれないな、という幻想を抱きかけ。
その後すぐに、そこでも天才だのなんだのと持て囃されて、別にそんなことは無かったのだと思い直した。他の奴らの十の努力を、一の努力で抜き去ってしまった。
それに対して特に何か思うことがあったわけでも無いが、ほんの少しだけ居心地の悪さを感じた。努力は美しく、素晴らしいものだというくらいはガキの俺でも知っていた。
『なんだ。やっぱりそれほど難しいことでも無いんだな』
才能が物を言う世界では、例え子供でも嫉妬や悪意が渦巻くものだ。
俺としては実力を示すことよりも、それをどうにか制御し、人気になることに苦労した。
あいつは誰にも嫌われず、誰からも好かれる、本性を隠すのが上手いクソ野郎だったから。
俺も同じように、誰からも己のくだらぬ本性を晒さぬように、あいつの仮面を付けてきた。
『反吐が出るな。よくやるもんだ』
『俺は違う。俺は上手くやれる。俺は、母さんを幸せにできる』
そして、その効果は絶大だった。
あいつの仮面はどこまでも魅惑的で、だれかれ構わず惹きつけた。
猿真似程度の俺でもこうなれるのだ、きっとあいつが狂わせた人間は母さんだけじゃない。
誰も彼もが、あいつの本性を知らず、煌びやかな仮面に墜ちて行ったのだろう。
ただ一人を除いて、俺は周囲にいる人間全てと友好的な関係を築き、敵対関係を駆逐した。
『なんで』
それで上手く行くと、それで全てどうにかなると考えていたのは、俺だけだったのだろう。
母さんは、最後には俺なんかを見ることは無く、どこまでも嫌いなあの男と心中した。
特別になれると、代わりになれるなんて考えているのは俺だけだった。
『なんで、あんな奴なんかに』
結局俺は、あいつに勝てなかった。
結局俺は、生きる意味を取りこぼした。
「あらやだお姉様。シンデレラがまた馬鹿なことを言ってますわ!」
そして、新しい光を見出した。
本気で演劇を愛して、本気で役を羽織ることの出来る、最高の役者。
俺がそれと出会ったのは、近くでやってた文化祭の、陳腐な出し物の一つ。
空いている教室で行われた程度の、スポットライトも舞台幕も無い、お遊びのような演劇。
とても期待できそうにもないその劇に、俺は幼馴染の彼女に引っ張られて見に行って。
「アハハ!あなたみたいな灰かぶりが、王子様とダンスできるわけ無いでしょう!」
演目は何の捻りも無いシンデレラ、役割は脇役も脇役な、シンデレラを虐める姉の一人。
やる気も技術も無い役者の中で、彼女の役は、脇役のはずの彼女だけが、異彩を放っていた。
隣で見ていた彼女にとって、劇はそれほど面白く無かったようだけど。
俺は、ただいじわるな姉の役者を見るためだけに、その劇に釘付けになってしまったのだ。
「キー!シンデレラが王子様と結ばれるなんて、なんてこと!?」
多分だけど、アドリブもかなり入れてたと思う。
演劇において過剰なアドリブは悪手だ。
周りに混乱を招くこともあり、褒められたことではない。
それでも、俺は彼女のその演技を、ただのお遊びだと、素人だと言うことは出来なかった。
劇団が求める役者としては赤点な彼女の演技に、俺はただただ魅せられた。
彼女は、その世界にたしかに存在していた。
与えられた役割の仮面を付け、その通りに動くだけのロボットでは無かった。
彼女が発する台詞は文字ではなく、その登場人物の生きた声として伝わった。
脚本には書いてなかったであろう人間味を、存在しなかったはずの性格を、誰も気に留めなかった脇役の魂を、彼女は壇上に呼び出した。
『楽しそう』
ああ、そして何より、誰よりも。
楽しそうに役を羽織り、感情豊かに声を出し。
己の存在を自分達に刻み付けようとする彼女が、果たしてどれほど美しいか。
それに気づいたのは、きっとあの場では俺だけで。
『凄い』
俺の脳裏には、セリフの一言一句がこびり付き、離れはしなかった。
初めて演技に魂を感じた。初めて父親よりも素晴らしい役者に会えたと思った。
誰よりも素晴らしい才能だと思った。誰よりも代えがたい演技だと思った。
そして初めて、母親以外の人間に心を揺れ動かされた。
『え、あの劇を見てたのかい?んー、恥ずかしいな。ただの脇役だったし、あれ以来出てないんだよね、劇。ほら、部員を怒らせちゃってさ』
『私に憧れて入学!?いや、それはバカだよ君!もっといい場所行けばよかったのに……いやまあ、来ちゃったものは仕方ないけどさぁ。私に期待しない方がいいと思うけどね』
『私と一緒にかぁ……アハハ、嬉しいことを言ってくれるね。君がどんな役割を果たすかは知らないけど、その時が来たらよろしくね、後輩君』
誰よりも素晴らしい人だった。
『ん、好きなタイプ?……ん~、そうだな。私を幸せにしてくれる人……なんてね!』
『私のようにはなっちゃダメだよ。しっかり部活には行きなさい。終わった後なら幾らでも話してあげる。あいつらと話すのは嫌だけど、君と話すのは好きだから』
『かえるぴょこぴょこ三ぴょこ……君の目の前で発声練習するのちょっと恥ずかしいな。いや、やるけどさ。どうせもうステージに出る機会無いと思うけど……分かった分かった、頑張るよ』
『ほら、怪我は隠さない。無駄に意地を張っちゃダメだよ。絆創膏持ってきてるから貼ってあげる。こらこら、逃げるな。後輩ならおとなしく先輩からの厚意を受け取りなさい』
きっと、本気で好きになったんだと思う。
母さんとは違う、恋愛感情を持てるような、素敵な女性だったんだと思う。
マナ先輩も俺のことを憎からず思っていると感じたし、告白したら付き合えるかもしれない。
もしかしたら、俺にだって人並みの幸せが、真っ当な人生が送れるかもしれない。
二人でいつか、同じ舞台の上に立ちたいと思った。
学生の舞台ではなく、もっと大きな、先輩に相応しい舞台の上で、一緒に役を演じたい。
そしていずれは二人で結婚して、家を建てて、子供を育てて──
『ごめんね』
できると思うか?
◇◇
目覚まし時計のベルが鳴る。
悪夢から目を覚まして、汗だらけになったTシャツを洗濯機に投げ捨てる。
幸い通学時間の電車が来るまで余裕があるし、シャワーを浴びることはできそうだった。
「何が、幸せだ」
頭を壁に叩きつけた。
煮えたぎった熱を冷ますために、何度も何度も、ガンガンと。
こういう時は、一軒家を建ててくれたクソ親父に多少感謝すべきだろうか。
「血のつながった家族を、死に追いやった人間が?」
頭から血が出た。
それでようやく冷静になって、血を拭って風呂場に向かう。
今日はあいつは居ない。当たり前だが、今日だけは居てほしかったかもしれない。
「……何が天才だ」
上っ面だけの演技では、母さんは騙せなかった。
俺は、先輩のようには演じきれない。