「どこ行くんですか?」
「あ~、喉乾いたから自販機でも探しに行こうかなと──おいこら今すぐドアを閉じろなんでわざわざ開けてんだよバカか」
「すっごい早口になりましたね。別に見てもいいんですよ?」
「痴女め、もうちょい自分の身体を大切にしろ」
「あなたにしか見せないので痴女ではないです。あ、私は緑茶でお願いしますね。無ければオレンジジュースか、それも無ければ一番安いやつでお願いします」
「ホテル代タダの理由がお前じゃなけりゃ断れたのにな」
ドアを開いた音が、シャワーを浴びている最中のあいつに聞こえたのだろう。
気分転換がてらにホテル内を散歩しようとしただけなのに、出費が一つ増えてしまった。
「……遊園地の自販機と比べると滅茶苦茶良心的だなぁ。当たり前ではあるが」
たしかホテルの外に自販機があったな、などと思い返しながら玄関に向かう。
幸い俺が飲みたかったコーラも、あいつが飲みたかった緑茶も自販機に並んでいた。
眠気を嚙み殺しながら、五百円玉を自販機に入れようと財布を開く。
「何やってんだい、こんな時間に」
「げっ」
思わず声を出し、すぐに『しまった』と口を塞ぐ。
音も無く俺の背後に近づいたあいつの叔母さんは溜息を吐いて、ポケットから千円札を自販機の中に突っ込んだ。
「好きなの買いな。奢ってやろう」
「いや、悪いですよ。ホテル代もタダにしてもらってるのに……」
「なに言ってるんだい。子供の内から遠慮なんて覚えるんじゃないよ、甘えられるうちは甘えておきな。大人になっちゃ、もう甘えることもできなくなる」
「……なら、遠慮なく。コーラと緑茶をお願いします」
叔母さんに買ってもらった飲み物を手に、さてここからどうしようと頭を悩ませる。
ほんとなら茹で上がった頭を落ち着かせるために風にでも当たろうとしたのだが。
どうも叔母さんは自販機の前を離れるつもりがないようで、煙草まで吸い始めた。
「それで?あんた、あの子とどこまでできてんだい」
「なんですか、どこまでって。あいつとは……いやまあ、一応付き合ってますけど」
「その煮え切らない態度は何だい。彼氏ならさっさと夜遊びの一つくらいしてやりな。ベッドも汚していい。あの子を幸せにしてやれるなら何でもやりな」
「さっきと言ってること真逆なんですけど。未成年に何言ってるんですかあなた」
「生きる目的を与えてやらないと、ぽっくり逝っちゃいそうで怖いんだよ、あの子は」
「……借金云々の話ですよね?」
「それもある。けどそれ以上に、今までのあの子は空っぽ過ぎたのさ」
空っぽ、とはどういうことだろうか。
少なくとも学校では、あいつは俺なんかでは及びもつかない人気者だが。
具体的に言うと、嫉妬してる奴らのおかげで俺の学園生活の質が三段階下がるくらいに。
「あの子の母親。私の姉さんは、あの子を子供として見ていなかった。自分が母親として優れていることを示すための、トロフィーのような扱いしかしていない。反吐が出る」
「トロフィー、ですか」
「自分に自信が無かったんだろうね、今思うと。姉さんは綺麗な人だったけど、性格が悪かったから誰にも愛されなかった。その癖誰かに褒められなきゃ自分を肯定できない、可哀想な人だったのさ。だからあんな男に引っ掛かった」
「あんな男?」
「平気で人を裏切るような、金と力だけは持ってた男さね。姉さんよりも性格が悪かったかもしれない。あの子もそんな両親の子供だったんだから、もっと上手に生きりゃよかったんだ。なのにあの子は優しすぎた」
正直それには同意しかねるが、まあその両親よりはマシということにして納得しておく。
少なくとも被害者が一名ここにいるわけだが、それを言ったらどうなるか分からないし。
「全部自分で背負い込んで、壊れてしまいそうだった。姉さんとはもう随分前に絶縁したけど、あの子のことだけはずっと気になっててね。……自殺しないかなんてことを、毎晩考えてた」
「……」
「兄さんは身内にも容赦しない人だからね。どうにか頼み込んで少しの間だけ返済を待ってもらったけど、姉さんが兄さんから借りた金は莫大だ。返す当てなんてないだろうさ」
『じゃああなたは手伝ってあげないんですか?』と尋ねようとして、やめた。
それはあまりにも無責任だ。彼女には彼女の生活があるし、できることにも限りがある。
今こうしてあいつに優しくしてやってるだけでも、対応としては随分と甘いはずだ。
俺なら身内であろうと、借金を背負った人間なんかに近づきたくはない。
それも、闇金関係で追われているのであれば猶更にだ。
「だから、次はもう会えないかと思っていたが……久しぶりに顔を見て、驚いた。あの子があんな明るい笑顔を浮かべるなんて」
「え、明るかったですかあれ」
「バカだね、自分の彼女の顔ぐらいずっと見ておきな。あんたといる時は、あの子の顔はとても和らいでる。昔会った時とは全然違う、あの子自身の笑顔だよ」
「はぁ……」
俺にはずっと胡散臭い笑みにしか見えないのだが。
血縁にしか分からないこともあるのだろうか。
「だからね、あんた。あの子に、せめていい思い出をくれてやってくれ。私にはあの子をどうこうすることはできないけど、あんたならきっと何かを変えられる」
「会ったばかりの男にそんなことを頼むんですか?」
「私らには何もできないさ。せいぜいが、こうやって困った時に少し力を貸してやるだけ。それ以上に手を付けることはできない。兄さんも私も、臆病者だからね」
「臆病者?」
「自分のせいであの子が傷つかないかと考えると、心配でたまらないのさ。何も助けてあげずに、むしろ重荷を背負わせたダメな大人達。何度かどうにかしようとして、そのどれもが失敗して、ダメな方向に転がった。もう私達には、あの子を助ける勇気がない」
「……」
何をしようとしたのか、どう転がったのかは俺が知る所ではない。
それを知ろうとする気も無いし、深入りする資格も俺には無い。
けれど、少しだけその言い癖にもやもやとしたものを抱えた。
「あと一年もしない内に、あの子は水商売させられる。親の借金を背負ってそんな惨めなことになるなんて、あんまりじゃないか。だからせめて、初めては貰ってやってあげなよ、あんた」
「自分の姪に幻想を抱きすぎでは?案外と、既にやることやってるかもしれませんよ」
「そんな時間があの子にあったのなら、わたしゃこんなことをあんたの頼まんさ」
叔母さんは真剣な目で俺を見た。
「せめて、せめて。初めては、好きな人とやらせてあげたいじゃないか」
胸のもやは晴れぬまま、俺は部屋に戻って行った。
◆◆
「お帰りなさい。遅かったですね」
「パシリにしといてその言いぐさかよ」
「喉が渇いているので早急に緑茶をください」
「はいはい」
風呂上りのそいつをあんまり見ないようにしながら、茶を手渡してベッドに寝転がる。
それでも男のサガとは悲しきもので、どう自制しようとしても目が彼女を追ってしまう。
艶やかな髪が水気を帯びて、熱で肌がピンク色になっているその姿は、どうにもエロい。
「そんなに隠さなくても、ちゃんと見てもいいですよ?」
「うっせー見てねぇよ!」
「見てくださいよ勿体ない。可愛い彼女の湯上がり姿ですよ?」
「性根を治してから出直してこい。お前が相手じゃ、いくら美人でも興奮しねぇよ」
難癖をつけられないように、横向けになってあいつのベッドから体を背ける。
やはり付き合うならば先輩のような、可愛く性格の良い人と付き合いたい。
こんなよく分からんやつに俺の童貞を捧げてやるものかよ。
そもそもの話、こいつと付き合ったのは俺の本意では無いわけだし。
「照明消しますね」
「おう」
叔母さん、あんたには悪いがやっぱりこいつは無理だ。
母さんと似てるなんて何をトチ狂ったことを考えているのだ俺は。
こんな何を考えてるか分からない、自分の命を捨てようとする女なんて。
「えい」
むにゅり、と背中に柔らかな何かが当たった。
一瞬脳がバグる。何を当てられたのか、必死に答えを導き出そうとする。
感じたことの無い、俺にとってまったく未知の感覚が、背中に押しつけられて。
「興奮しました?」
「……お、まえ。何やってんだ」
俺の背中に胸を押しつけながら、俺に抱きつき耳元で囁くそいつ。
あらゆる想定外により考えが纏まらない中で、どうにか絞り出した言葉に、顔は見えないけどそいつはきっと蠱惑的な笑みを浮かべて言ったのだろう。
「初体験、済ませちゃいませんか?」
俺は生まれて初めて、女に誘惑されてるらしい。