2502 贐(中)①
2502 『贐(中)①』
「前回の話の内容を僕は直接聞いていないので、確認させて下さい。
娘さんの怪我、それを自分の生霊の仕業ではないかと考えたのは何故ですか?」
「3回目の怪我、娘が倒れていたのはアパートの駐車場でした。
そのすぐ後、駐車場を出て行く女性を見た人がいて、
その背格好や服装が私に良く似ていたと。」
「それで、警察に事情を聞かれたんですね。」 「はい。」
「なのに、あなたの行動には制約も監視もない。
捜査の対象から外れた理由は何でしょう?」
「娘が怪我をしたのは6時少し前、私がその時間にアパートに帰るのは無理です。
その日も同僚といつも通り退勤して、その時間はまだ電車の中でした。」
納得。これは文字通り完璧なアリバイ。
「小学生の女の子を狙った変質者の仕業とは考えられませんか?」
「3回目の怪我については警察もそう考えているようです。
ただ、1回目と2回目の怪我は変質者じゃありません。
どちらも家の中、でしたから。」
「家の中で?」
「最初の怪我は両腕のアザです。朝起きた娘が痛がるのでパジャマを脱がせたら、
二の腕に大きなアザがありました。もの凄い力で腕を握られたようで。
多分夜の間に。」
「二回目の怪我も夜、ですか?」
「夜と言うより夕方です。娘はお風呂で倒れていて、頭から血が...可哀相に。」
女性は俯いて小さく身震いをした。無理もない。相当なショックだったろう。
「意識がボンヤリしているようだったので救急車を呼びました。
3針縫って、次の日から実家に。念の為に2日間、学校を休ませました。」
「悲鳴や物音は聞きませんでしたか?」
いいえ。私、娘がシャワーを使っている間に居眠りをしてしまって。
目が覚めても娘がいなかったので様子を見に行ったんです。
そしたら、あんな事に。」
どちらも女性が眠っている間に起きている。
それで生霊ではないかと考えたのなら、
この女性は生霊について多少の知識を持っているということだ。
「3回目の怪我はどうです?あなたは電車の中だったんですよね?」
「はい。ずっと、考え事をしていて、少し居眠りをしたかも知れません。
居眠りをして、その間に私の生霊が娘を。」
「○村さん、生霊は本体が憎む相手に害をなすものです。
勿論、その憎しみを本体が意識していない場合もあります。
しかし、たとえ無意識であっても、憎しみは必ず表面に滲み出てくるもの。
でもあなたからは、娘さんに対する憎しみの感情を感じません。
それに、はじめに言った通り、娘さんの怪我の原因は生霊ではありません。」
「生霊でないなら、一体何が娘を。」
「詳しいお話を聞かせて頂くのはこれから、まだ結論を出せません。
話を聞かせて頂く前に5分程休憩しましょう。その間に飲み物を用意します。」
一礼して部屋を出た。
葵さんに飲み物を用意してもらう間、改めて精神を集中する。
『それ』は女性の意識がある間は活動しない筈だが、
用心するに越したことはない。
飲み物を持ってカウンセリング室に戻ると、既に女性はソファに座っていた。
グラスを2つテーブルに置く。女性は飲み物を一口飲んだ。
俺も喉を湿らせる。涼しげな、氷の音。
「さて、本題です。まずは娘さんの父親について聞かせて下さい。
その人はあなたの夫ではありません。あなたの娘さんは養子、ですよね?」
女性は息を呑んで俺を見詰めた。眼を伏せて小さな溜息をつく。
「それも、術で?」
「術ではなく、感覚です。あなたには妊娠の経験がありません。だから。」
「いきなり養子の件を話したら、事前に事情を調べたと疑われる。
だからさっき、あの術を。」
「ご理解頂いて有り難いです。
あんな、瞞し討ちのような方法は失礼だと思いましたが、
あなたが思慮深い女性だということが分かっていましたから。」
女性は寂しそうな微笑みを浮かべた。伝わってくる深い悲しみ、そして自己嫌悪。
「私が本当に思慮深ければ、こんな事には...
娘の父親は、私の兄です。これはまだ、娘にも話していません」
「特に必要がなければ、僕がそれを娘さんに話す事はありません。御心配なく。」
「兄は離婚して娘を引き取り、約半年後に亡くなりました。交通事故で。
娘が3歳の時です。それで私が娘を引き取りました。」
「未婚の若い女性が子供を引き取る、御身内の反対は有りませんでしたか?」
「いいえ。兄が離婚したあと、ずっと世話をしていたので、
娘は私に良く懐いていましたから。
最初は実家で両親と一緒に娘を育てていました。
でも、娘が小学校に入学する前に両親を説得したんです。
私が戸籍上の母親になれば、それが一番、娘の為になるって。」
「あなたの『娘』という言葉は、とても強い力を宿しています。不思議ですね。
どんな言葉も、これ程の力を宿す事は滅多にありません。一体、何故でしょう?」
初めて見た時から、彼女に『力』があることは分かっていた。
これほど悪化した状況の中で、理性を失わずにいられたのは奇跡だ。
持って生まれた力と、それを制御する強靱な精神力あってこその、奇跡。
そして彼女の言葉に宿る言霊は、
彼女の『適性』が俺と同じ『言の葉』だと教えてくれる。
「あの子が本当に私の産んだ子ならどんなにか。
いつもそう思っているからかもしれません。」
「何故そんな風に? 勿論、今話したくないのでしたら無理にとは言いません。」
「いいえ。あなたを信じると決めましたから、全部話します。
それに、もしかしたら私、誰かに聞いて欲しかったのかも知れません。
今まで誰にも、両親にも友達にも話せなくて、本当に辛かったから。」
女性は一旦言葉を切り、俺を見つめた。
「少し頼りない人でしたが、私は、小さい頃から兄が大好きでした。
それは何時の間にか恋愛感情に変わり、
そして、大学に入学した年の夏に。私は...」
揺れ動く心が発する言葉が宿す、微かな言霊。
不謹慎かもしれないが、それは美しかった。
オーロラのような淡い光が彼女を包んでいる。術者でなければこれ以上は。
「やはり無理しない方が。」 「大丈夫です。」
彼女はもう一度俺の目を見つめた。本当に、強い人だ。
「私は兄と体の関係を持ちました。両親が不在の夜、兄の部屋に行って。」
そうか。それが、術者の想定を遥かに超えて、『それ』を成長させた原因。
兄への深い愛情、そして現代の倫理では許されぬ関係に対する強い自責の念。
十数年に渡る激しい想い。その膨大な精神エネルギーが、
人1人の命を奪いかねない程の存在を育ててしまった。
「両親の目を盗んで、私と兄の関係は続きました。
兄がとても気を遣ってくれたので妊娠の心配はありませんでした。
でも私は、本当は...」
「お兄さんの子を産みたかった。
だから、娘さんが本当に自分の産んだ子ならどんなにかと。」
「結局最後まで、それは言えなかったんです。
口に出したら、兄を失ってしまう気がして。
だから兄が結婚した後も私を求めてくれた時、とても嬉しかった。」
「お兄さんが、離婚した時も?」
「はい、毎日仕事の帰りに保育所で娘を迎えて兄の部屋に通いました。
娘の世話も、家事も、とても嬉しくて楽しくて。私、本当に嫌な女ですね。」
「お兄さんが亡くなった後、娘さんを引き取って、本当に大切に育てて。
本当に嫌な人間ならそんな事出来ません。あなたは立派だと思いますよ。」
「でも、私と兄との関係は近親」
「待って下さい。」 思わず右手で女性を制した。
自己否定的な言葉を続けると、感情が闇に引きずり込まれる。
「確かに現代の倫理では禁忌です。
でも、古い神話や伝承では、兄と妹・姉と弟の婚姻譚は珍しくない。
実際僕達の一族では、今も結婚自体は禁忌じゃありません。それよりも。」
「それよりも?」
「お兄さんがあなたの意志に反して体の関係を持ったのが問題です。」
「でも、兄の部屋に行ったのは私で、だから兄には何も。」
「確かにあなたはお兄さんが大好きで、恋愛感情を持っていた。
でも同時に兄と体の関係を持つ事は禁忌だという、現代の倫理観も持っていた。
なのに何故、それを易々と踏み越えてしまったんでしょうね?」
今までの話からして、『それ』を作ったのは女性の兄。
多分、俺の推測は正しい。でも納得してもらえなければ道は閉ざされる。
慎重に、慎重に言葉を選び、心を込めて話を進める。
「何か、思い当たる切掛がありますか?
お兄さんの縁談を知って強い嫉妬を感じた、とか。」
「いいえ、兄の縁談を知ったのはずっと後で、
兄に恋人がいるとも思っていませんでした。
思い当たるような切掛は、特になかったと思います。」
「初めて体の関係を持つために相手の部屋に行く。
相手がお兄さんでなくても一大決心です。
それなのに、特に切掛がない。いや、切掛を憶えていない。
変だと、思いませんか?」
『贐(中)①』了
休日の生活習慣改善のため朝活5回目。本日は2回投稿を目指します。




