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『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第3章 2010
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2402 遠雷(中)

2402 『遠雷(中)』


「ねえ、祖母ちゃん。」 「何だい?」 「めかけって、何?」


黙って針仕事をしていた祖母の表情が突然険しくなり、

居間の空気が凍り付いた。


「ナオ、一体何処でそんな言葉を。まさかお前、アキちゃんに。」

「違うよ。釣りから帰る時、高校生みたいなヤツがそう言ったんだ。

アキちゃんは走って帰っちゃったし、泣いてた。

オレ、どうすれば良いのか分からなくて。」


祖母は眼鏡を外して深呼吸をした。

「お前には未だ早いかも知れないけど、あの娘を守るためだから、仕方ない。

妾は、お金持ちの男に養って貰う女だよ。2番目・3番目の奥さん、だね。」

怒りが、腹の底から怒りが沸き上がって眼が眩んだ。

アイツ等、そんなことをアキちゃんに。


「アキちゃんの母親は高校卒業したら島を出て、都会の男と結婚した。

『育った島に後足で砂をかけて』、『婿を取って○△の家を継ぐ立場なのに』、

そう言ってアキちゃんの母親を罵る人は多かった。『あれは裏切り者だ』と。

大学を出たら島に帰るって約束だったのは確かみたいだね。

○△の家も、アキちゃんの母親を不義理だからと勘当してしまった。

そういう古いしきたりが、まだこの島には、生きてるから。」


言葉を切ってオレを正面から見つめる祖母の顔は、とても悲しそうだった。


「妾ってのは、アキちゃんの母親を罵る奴らが流した、根も葉もない噂。

『あの女は金持ちの妾になった』、『器量を鼻に掛けて』、

『島に帰るのが嫌だから』ってね。

○△の家の人達は噂を否定しようとしたけれど、

アキちゃんの母親の結婚を咎めて勘当した手前、強くは出られない。

却って噂は広まり、その噂を信じる人の方が多くなってしまった。」


「逆効果、だったんだね。」

「そう。その後○△の家では悪い事が続いた。当主が急な病で亡くなって、

養子にして家を継がせた男は嫁も貰わず酒と博打で身を持ち崩した。

たった3年の間に、○△の家は土地と畑の殆どを売り払って、

家の人たちも散り散り、島を出た人も多い。

今は、荒れた畑が少しと、代々の位牌を安置する無人の小屋が残ってるだけ。」


「しかも、その翌年、アキちゃんの両親が亡くなった。交通事故でね。

あっちの家も2人の結婚には反対で、アキちゃんの父親も勘当されてたらしい。

だから、折角助かったアキちゃんに行き場はなかった。それで。」

「だからこの島の親戚に引き取られたの?」

「前にアキちゃんを送っていった家、憶えてるだろ?」 「うん。」


「嘘ついて御免よ。アキちゃんの親戚じゃ無い。

昔から○△の家に抱えられてた漁師の家だ。アキちゃんを引き取る話が出た時、

『先祖代々世話になってきたから』って、手を挙げてくれた。

○△の家が傾いて、自分たちの生活も苦しくなっただろうに。

本当に、有り難かった。」


「そんなの、酷いよ。祖母ちゃんが引き取ってあげられなかったの?」

「古いしきたりだけど、勘当された娘は他人。

勘当された娘が産んだ子を親戚として扱っちゃいけない。だから。」

ふと、あの時祖母が風呂敷包みを持っていたことを思い出した。それから、

切れ切れに聞こえた「...だけでもお世話になりっぱなしで、」という言葉。


もしかしたら、祖母はアキちゃんを引き取れないから、代わりにあの家を助けて。

だからアキちゃんには魚釣りを頼んで、それでお駄賃を。きっと、そうだ。


軽はずみに祖母を責めるような言葉を口にした事が、恥ずかしかった。。

「ごめん。祖母ちゃんの気持ちも考えないで、オレ。」

「良いんだよ。私が古いしきたりに負けたのは確かだからね。

でも今まで何とかあの子を守ってきた。なあに、悪い事ばかりじゃ無い。

あの子の事、真剣に考えてくれる人も、何人かはいるしね。」


「そういえば、その高校生達を怒鳴りつけた男の人がいたんだよ。

すごく大きな人で。体も、声も。」

「シゲ坊、か。あの家の一人息子だよ。腕は良いけど、船や道具がね。

朝早くから夕方まで海に出てるから、あんまり家にはいないけど。」


翌日、昼ご飯を食べた後、オレは家を出た。

行き先はあの家。出かける前に、祖母には話してある。


「御免下さい。」

門を入って声を掛けると、縁側に白髪の老婆が出てきた。

「僕、ナオです。◎野のサチの孫の。」

「わざわざこんなところに、有り難う御座います。アキに御用でしょうか?」

「はい。アキちゃんに釣りを教えて貰う約束をしてるんですけど。」

「アキは昨夜から部屋に籠もって出てこんのです。一体何が有ったのか。」


「ええと、昨日、港からの帰りに。」 「ナオさん、止めて!お願い。」

悲鳴のような声。老婆のすぐ後ろに、アキちゃんが立っていた。

頬を伝う涙、胸の奥が痛い。

「ごめん。でも、もう分かった。本当に、ごめん。」


祖母が『シゲ坊』と呼んだ男の人が、昨日の事を話していないとしたら、

それはこの老婆やあの老人の体や心を心配したからだろう。

なのに。オレは、馬鹿だ。

「帰って、下さい。もうナオさんは1人でも、魚釣れるから。」

「オレ、友達はアキちゃんだけなんだ。本当に、アキちゃん1人だけ。

だから、どうしてもアキちゃんと一緒にいたい。駄目、かな?」


「駄目じゃ...ない、けど。」

アキちゃんは縁側に頽れて、泣き続けた。オレは縁側に腰掛けて、

その背中をそっと擦った。オレに出来る事は、それだけだったから。

家の中に戻ったのか、いつの間にか老婆の姿は見えなくなっていた。


どれ位経っただろう。やっと泣き止んだアキちゃんはオレの隣に座ってくれた。

「心配、かけて御免なさい。私。」 「もうその話は止めよう。それより。」

寝ないで、朝まで考えた、たった1つの言葉。

「外で釣りも良いけどさ、今日は仕掛けを教えてよ。糸の結び方とか。」

アキちゃんは黙って頷いたあと、また少しだけ泣いた。


翌日から、オレは毎日その家にアキちゃんを訪ねた。もちろん釣りの話もしたが、

そのうち二人で本を読んだり、アキちゃんの宿題を手伝ったりするようになった。

勉強(国語以外)が全く駄目で驚いたけど、

それは学校が嫌いだからだと直ぐに分かった。

ポツポツと話してくれた学校での出来事は、胸が痛くなるような事ばかりで、

オレはすぐに学校の話題を封印した。


「分かった!これ、分かりました。ありがとう、です。」

宿題が1つ終わる度に、アキちゃんは勉強にも自信を持つようになったから、

楽しい話題は幾らでもあった。例えば2人で読む本のこと。

オレが島に持って来てた数冊の本は一語一句暗唱できる程で、

父親に電話したら、駅前のブック○フでまとめ買いしたっぽい文庫本が、

小さな段ボール箱一杯、翌々日に届いた。


父親の趣味で選んだものばかりだから心配したけれど、

アキちゃんは夢中になった。

宿題を2ページ終わらせたら、後は2人縁側で本を読む。それがオレたちの日課。

日が経つにつれ、オレはますますアキちゃんが好きになった。

もういっそこのまま、この島で暮らせたら。そしたらずっとアキちゃんと一緒に。

そんな風に考え始めたある日、父親から電話が掛かってきた。


「あれから母さんと色々話をしたよ。それで、3人で話をしようって事になった。

家の事とか、将来の事とか。一週間、休みを貰ったし、

4年も帰ってなかったから、里帰りのついでだ。急だけど、明後日から、な。」

父親は努めて明るく話していたが、かなり深刻なのはオレにも分かった。


母親の問題が解決したなら、オレを呼び戻せば済む話だ。

わざわざ急な休みを取ってまで、この島に来る必要はない。しかも、一週間。

その日数は、母親がこの島から帰った後、オレの事を祖母や親戚と相談するため?

つまり話し合いの後、両親は離婚する。そんな不安が胸をよぎった。


「ナオさん、どうして今日は元気がないんですか?」


朝から両親の事を考えていて、上の空だったかも知れない。

「ああ、ゴメン。昨夜、両親がこの島に来るって電話があって。それで。」

「ナオさんのご両親が。どうして?」

「『暫く里帰りしてないから』って言ってた。」

オレと母親、家の事情を話せば心配をかける。そう思ったから。


「それは、何時?」 「えっと、明日。最終便だって。急だけど。」

「あの、ご両親が島に来たら、もうナオさんはこの家には...」

寂しそうな、不安そうな顔。

胸の奥が苦しくなった。もしかしたら、アキちゃんも少しはオレの事。

「アキちゃんのお陰で、オレは毎日楽しい。

オレがアキちゃんと一緒なのは父親も知ってるんだし、大丈夫だよ。」


「じゃあ、お迎えするために、私、大きな魚を釣ります。」

突然、東屋での出来事がフラッシュバックした。

アキちゃんが釣りに出かけて、もしも。

「いや、いいよ。両親はあんまり魚好きじゃないし。」

「でも、私には魚しか。本のお礼が」


思わず、アキちゃんを抱き締めた。爽やかな、シャンプーの匂い。


「駄目だよ。あんなヤツらがいるのに、わざわざ嫌な思いしなくても。

お願いだから。」

「ナオさん...」

その日、オレはシゲさんが漁から帰ってくるのを待って、それから帰った。

オレが帰った後、アキちゃんが釣りに行ったらマズいと思ったからだ。


でも、オレの考えは浅かった。


翌日、その家にアキちゃんはいなかった。

マツさん(縁側に出てきた老婆)に尋ねると、帰ってきた答えは、

『釣りに行くと言ってましたよ。何か、お祝い事があるとかで。』。


聞き終わる前に、走り出した。最初はあの港。一緒に釣りをした場所を順番に。


雷の音が聞こえた。急に強くなった風に混じる、雨の匂い。嫌な、予感。

漁協の建物の裏に数台のママチャリが見えた。心臓がバクバクする音が聞こえる。

アキちゃんが囲まれていた。怒りが、沸き上がる。

足音を抑え、静かに歩み寄った。


「毎日アイツと一緒らしいな。一体二人で何やってんだ?この売女が。」

「何してたって、あんた達に関係ない! 私、ナオさんが大好きなんだから。」

ソイツがアキちゃんに向かって伸ばした腕を、背後から掴んだ。

ソイツは一瞬ひるんだが、直ぐに凄い力でオレの手を振り解いた。


オレよりずっと背が高い。襟を掴まれて、腹を殴られた。2発・3発。

予想はしてたけど、息が詰まって膝から力が抜けそうになる。

「余所者が良い気になりやがって。思い知らせてやる。アキはオレが。」

醜い薄笑いが目の前に。馬鹿め。力を抜くふりをして上体を後ろに反らせた。

「情けないな。折角来たのに、もう、終わりか?」


全力で右足を踏ん張り、額をソイツの鼻目掛けて。 鈍い、音がした。


足下の地面に血が滴る。ソイツは声も無く地面に膝を着いた。

でも、相手は他にも3人。ゆっくりと迫ってくる。みんなオレより体がでかい。

アキちゃんを背後に庇ってじりじり下がる。だけど、後ろは桟橋。

桟橋の幅が狭い、3人の間をすり抜けて逃げるのは無理。


すぐに追い込まれた。もう桟橋の突端、逃げ場はない。

漁に出ている時間だから周りに人気も無い。


「ナオさん。御免なさい。私が。」

「アキちゃんは悪くない。でも、これはマズいね。」

近づいて来る3人。その背後に血塗れの顔。怒りに我を忘れている。

こんな奴らに捕まったら、アキちゃんが何をされるか分からない。


「飛び込もう。アキちゃんと一緒なら、オレどうなっても良い。」

「はい。」 ポツポツと雨が降り出した。でも、濡れる心配は要らない。

それが何となく可笑しい。しっかり手を繋いだまま、2人で桟橋の端を蹴る。

スローモーションのような景色、稲光、激しい水音。視界が白い泡で覆われた。


何か大声で叫ぶ声が聞こえる。ざまあみろ、ここまで追ってこれるなら。

でも、オレは泳げない。確かアキちゃんも。息をする度に海水を飲んでしまう。

咽せて息が詰まり、体が沈む。

途切れ途切れに、エンジンの音が聞こえた。漁船?

アキちゃんの手を握り締めたまま、オレの意識は途切れた。



『ナオさん、起きて下さい。ナオさん。』

耳元でオレを呼ぶ声。誰?

眼を開けると、見知らぬ男女がオレを見詰めていた。

『アキを庇って下さって有り難う御座いました。』

『でも、ナオさんにはまだ、頼みたい事があるんです。』

頭の中に、男の人と女の人の声が響く。


「あの、あなたたちは?」 『私たちはアキの。』

不意に2人の姿が薄れた。待って、さっきの話が未だ。

左脇腹に鈍痛。


もう一度、今度こそ眼が覚めた。

オレの顔を見つめているのは父親、そして、母親。

どうして? あ、アキちゃんは。

跳ね起きようとするのを父親に抑えられた。


「離して!アキちゃんが!」

「落ち着け。アキちゃんも此所にいる。怪我はしてないし、きっと大丈夫だ。」

「良かった。ナオはもう、大丈夫ね。」 感情の感じられない、冷たい声。

母親はすっと立ち上がった。オレに背を向けて、隣のベッドの傍に座る。


「たまたまシゲさんの船が帰って来た所らしくてな、運が良かった。

でもどうして飛び込みなんか。お前、泳げないだろ?」

「飛び込み?」 ああ、そうだ。オレはアキちゃんと。

「釣りに来てた高校生たちが『ふざけて飛び込んだみたいだ』って。」


ギリ、と、自分の奥歯が軋む音を聞いた。


「漁協の建物の裏で、アキちゃんが、アイツ等に囲まれてた。

助けようとしたんだけど、腹を殴られて。他に、人もいなかった、から。」

「それ、本当か?」 父親の顔色が、変わった。

オレは黙って青っぽい着物をはだけた。左脇腹の痣。悔しくて、涙が零れる。

「額の傷もその時に?」 「頭突き、したから。」 「そう...か。」


父親は暫く黙っていたが、やがて口を開いた。

「腹が、立つだろうな。でも、小さな島の事だ。

ややこしい事情がある。良く聞け。」

固く握りしめられた父親の右手は、小刻みに震えていた。


「『ふざけて飛び込んだ』って話したのは、

漁協の組合長の孫とその同級生らしい。

揉め事になると、シゲさんはまずいことになる。アキちゃんもだ。」

そうか、シゲさんは漁師だから、漁協と揉めたらきっと。


「いいか、これから誰かに何か聞かれたら『覚えてない』って言え。

シゲさん達には父さんから話す。アキちゃんがこの島で、

穏やかに暮らしていくためだ。分かるな?」

オレは黙って頷いた。オレの事はどうでも良い、アキちゃんさえ。


「...に、...のに。」

オレと父親は振り向いた。母親がアキちゃんの髪を撫でている。

「こんなに、可愛い娘なのに、可哀相。早く、眼を覚まして。」

父親は小さく溜息をついた。やはり母親は。


『遠雷(中)』了

本日投稿予定は1回、任務完了。

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