2304 邂逅(下)②
2304 『邂逅(下)②』
数日後、ある場所を訪ねた。
山中の小さな集落に佇む、こぢんまりとした日本家屋。
俺と姫を迎えてくれたのは、かなり高齢の老人。
その男性が何歳なのか、見当も付かない。
「本当に、良く来て下さった。この日が来るのを、
私は、それこそ一日千秋の思いで待っていたのです。」
柔らかな声。老人が淹れてくれたお茶から、良い香りが漂っていた。
「あなたは、私達と、それからKさんにも縁のある方だと、
当主様から伺ったのですが。」
「はい。あなたがRさん、そしてこちらのお嬢さんがLさんですね。
私にとってRさんは曾姪孫、LさんとKさんは曾孫ということになります。」
では、この老人は姫と『あの人』の曾祖父。だが俺にとっては。
「曾孫はひまご、ですね。でも曾姪孫という言葉は初めて聞きました。」
「Rさんの曾祖母は私の姉です。父の指示で、私は家の中から、姉は家の外から、
外法に手を染めた者たちを孤立させるために活動していました。
ただ私達の力が及ばず、LさんとKさんには辛い思いをさせてしまい、
本当に申し訳なく思っています。特にKさんには何と...」
老人の目に涙が浮かんでいた。
「何故、外法を使おうという意見が通り、
一族から離脱することになったのでしょうか?
それさえなければ、このように長く無益な争いは避けられた筈なのに。」
姫の口調は穏やかだったが、その声から深い悲しみが伝わってくる。
この争いが姫から父親を、そして10年以上の子供らしい日常を奪った。
『何故?』という問いは、姫の心の奥底から発せられたものだったろう。
「一族からの離脱を決めたのは当時の長、私の叔父です。名は●明。」
●明、その名はあの時の。つまりあの声の主は、分家を一族から離脱させた男。
「一族の中でも一二を争う術者でしたが、
酷く偏狭な考えの持ち主で、一族の意志決定には、
術者の意見を最大限重視すべきだと考えていました。
ですから、事ある毎に、当主様とも、『上』とも意見が衝突し、
年を取るにつれますます頑迷になっていったのです。」
「また、あの男は離脱に備えて一族以外の系統からも強力な術者を雇い入れ、
反旗を翻す者が出てこないような、恐怖政治の体制を築いていたのです。
取り敢えず●明の決定に従って一族を離れ、
その死後に家系の方針を変えて一族に復帰する。
それが嫌なら、身一つで家系を離れ、経済的な基盤の無い状態で生きていく。
当時の私達に許された選択肢は、その2つだけでした。」
「では先々代の当主様と復帰の約束をしたというのは。」
「私の父です。●明の死後、様々な手段を講じて家系の方針を変えました。
長い時間をかけて、外法に手を染めた者達を孤立させる事に成功したのです。
本当に、あと一息という所でした。Kさんが拉致されたのは。」
老人は言葉を切り、深く溜息をついた。
「追い詰められれば反撃に出るかも知れない。それは予想していました。
しかしまさか同じ家系の者に手をかけ、力を持つ子を拉致するとは...
何度かKさんの奪回を試みましたが、いずれも失敗。
私達は数人の術者を失い、大きな犠牲を払う結果になりました。
その後は同じような事が起こらぬよう、力を持つ子を護るのが精一杯で。」
老人の言葉には、深い後悔と悲しみが込められていた。
「今にして思えば、娘夫婦と相談をして孫を、
つまりLさんの母を当主様に託して本当に良かったと思います。
あれ程の力を持った子が奴らの手に落ちていたとしたら、この家系だけでなく、
一族全体の運命を危うくする事態を招いたのは間違いありません。」
まさに此処。俺がどうしても答えを得られなかった、疑問。
「あの」 「でも」
俺と姫の声が全く同じタイミングで重なった。
姫が俺を見つめている。穏やかな笑顔、なら、これは俺の役目。
「はい、何でしょう?」 老人も俺を見つめていた。
「それ程の力を持った子を、どうして分家は手放したんでしょうか?
分家から離れるだけならまだしも、本家の、しかも当主様に託すなんて。
分家の長が、それを黙って見過ごすとは、とても思えないのですが。」
「特に、問題にはなりませんでしたね。
あの子は、鬼子だと思われていましたから。」
「鬼子?」 「そう、鬼子です。」
「それは一体、どういう、事でしょうか?」
「生まれつき、あの子の体には鱗がありました。
右の肩から背中、腰から左の太腿にかけて、体に巻き付くように。
胎児が、母親の胎内で重過ぎる業の影響を受けると、
体の一部が異形に変化した赤子が生まれる。それが鬼子です。
極く稀に、そういう事例が生じるのは知られていました。」
体の一部が異形に変化した、赤子?
『大抵は業の重さに耐えられず、2歳になる前に亡くなる。
それを避けるためには、『分業』の術が必要です。
業の一部を別人に分ける、極めて高度な術。当時その術が使えたのは、
当主様と桃花の方様、そして●明の3人だけでしたから、
娘夫婦はその術を●明に依頼しました。」
「業を引き受ける訳ですから、引き受け手は術者でなければなりません。
娘夫婦は自分達のどちらかで業を引き受けるつもりだったのです。
しかし、『分業』の術は成功率が低い上、
業を引き受けた術者が無事に済む保証もありません。
当然、●明はそれを断りました。
『鬼子を助ける為に術者の命を犠牲には出来ない』と。」
Sさんから聞いた話では、姫の母親は少なくとも21歳までは存命だった筈。
「Lさんの母上は、鬼子ではなかった。という事、ですね?」
「はい、鬼子の伝承とは異なり、あの子には衰弱する様子が無かったんです。
それどころか、成長は、特に精神的な成長は眼を見張る程でした。
一歳になる頃には母親が歌って聞かせていた童謡を全て諳んじており、
二歳になる少し前には、既に、短い祝詞を幾つか詠唱することが出来ました。」
「諳んじたのではなく、詠唱出来たのですか?たった2歳で。本当に?」
姫が驚くのも無理は無い。本当に詠唱したというなら、その祝詞の効力を。
「はい。不用意に祝詞を詠唱するような子では無かったので、
特に問題は起こりませんでしたが。
それで私は娘夫婦と話し合い、あの子は鬼子ではないという結論に達しました。
恐らく、あの子は自らその体の一部を異形に変えて、
幼子の体には過ぎる力に耐えているのだろう、と。
そんな伝承は聞いた事もない、しかし他に説明のしようがなかったのです。
そして、その考えが正しければ、成長につれてあの子の力はますます強くなる。」
もし、そんな力を持っていることを分家の長に知られたら...
だから姫の母親を当主様に。
「そこで、私は一計を案じました。
●明の取り巻きの術者、その一人を通じて願い出たのです。
『鬼子である孫を本家の当主に託す事を許して欲しい』と。」
「でも、そんな事が許されるなんて。」
「●明は『分業』の術を断った。それを利用したんです。
『娘夫婦は『分業』の術を断られたのを恨んでいる。
どのみち助からぬ命、ならば娘夫婦の願いを叶える事でその恨みを逸らせる。』
『本家の当主が引き受けなければ、恨みの対象は当主に移る。
引き受けたとしても術の成功率は低い。失敗すればやはり恨みは当主に向かう。
もし術が成功しても、鬼子が普通の子に戻るだけ。痛くも痒くも無い。』と。」
「取り巻きの術者に、そう吹き込んでおきました。
案の定、あっさり許可が下りましたよ。
勿論、●明があの子の状態を確認したいと言えば、
最悪の事態になったでしょうね。
でも、そうはならないという確信が私にはありました。」
「それは何故、ですか?」
「●明は力を持たぬ普通の人間を蔑んでいました。
まして鬼子を気に掛けるなど、有る筈が無い。
あの男にとって、鬼子は普通の人間にすらなり損ねた、
何の価値もない存在だったのですから。」
老人は冷たい微笑みを浮かべた。
その裏にあったのは皮肉ではなく、哀しみであったろう。
「あの子を当主様に託して3年後、私達にも噂が伝わってきました。
『本家に途方もない力を持つ術者が現れた。それは僅か5歳の女の子で、
しかも本家の当主が何処からか引き取った子。』と。」
「そんな噂が流れたら、貴方たちにも追及の手が。」
「いいえ、それは全く有りませんでした。●明はとても自尊心の強い男です。
私や娘夫婦を咎めれば、自分の失敗を認める事になる。それは許せない。」
「だから結局最後まで、私や娘夫婦には、嫌味の一つも言いませんでした。
勿論内心では怒り狂っていたと思いますし、
それが結局はKさんやLさんの拉致に繋がった。
しかし、本当に申し訳有りませんが、
あの時の私達には、それ以外の選択肢が無かったのです。
「それなら私の、お祖父様とお祖母様にも、お会いできるのでしょうか?」
老人は暫く姫を見つめ、それから眼を閉じた。ゆっくりと首を振る。
「娘夫婦は、Kさんを奪回しようとして犠牲になりました。
しかし娘夫婦には、思い残す事は無かったでしょう。結果的には、
あの時の選択がLさんと、そして一族への復帰に繋がったのですから。」
姫とあの人は又従姉妹。2人が良く似ていたのは当然かも知れない。
あの人も、姫も、外法を使う者達にとって是非手に入れたい存在。
だから2人は拉致され、姫の奪回は成功したが、あの人の奪回は失敗した。
更に、あの人を奪回しようとして、姫の祖父母は命を落とした。
これが『因縁』か、何と過酷で不思議な運命なのだろう。
そして俺は、俺の曾祖母は。
「私の曾祖母は家を出て活動していたと仰いましたね。」
「はい、姉は父の知人の養女になり、
同じように家系から離れた者達を支援していました。
彼女の働きがなければ路頭に迷う者が少なくなかったでしょう。
父の顧客でもあった彼女の養父は裕福でしたが、
それだけで出来る事ではありません。彼女は本当に良くやってくれたと思います。
亡くなる数年前までは、頻繁に連絡を取り合っていましたよ。
彼女が体調を崩して入院してからは、それも難しくなってしまいましたけれど。」
曾祖母は早々に家を離れた。
遍さんからそう聞いて以来、負い目を感じていた。
しかし曾祖母も、必死に自分の役割を果たしていたのだ。
いつか分家の皆が一族へ復帰する道を拓くために。
改めて、近しい親族が辿った運命の数奇を思う。
それは、一族全体が時代の変化を乗り越える為に、避けられない争いだったのか。
争いが終わり、一族が再びまとまって新しい時代に向かえるのなら、
この争いで犠牲になった数多の命も無駄では無かったと、言えるだろうか。
そして、俺と姫の体の中には、犠牲になった人々と同じ血が流れている。
「その通りですよ。Rさん。」 え?今、俺は。 そうか、この老人も。
「RさんとLさんは、私達に残された希望です。
当主様の御慈悲によって、私達の家系は一族への復帰を許されました。
これからは家を離れていた者達も少しずつ戻ってくるでしょう。
しかし有力な術者の多くは世を去り、私達の家系は以前の力を失いました。
もう、以前のような力を持つ事はない。でも、それで良いのです。」
「RさんとLさん。これ程に優れた術者を生み出したのは、この家系の血。
それは間違いのない事実ですし、この家系の誉れとなるでしょう。
話が長くなりましたが、私達の家系が辿ってきた道はご理解頂けたと思います。
こんな、お願いが出来る立場でないのは重々承知していますが、出来れば、
これからも時々は、この年寄りに御二人の御顔を見せては頂けないでしょうか?」
姫は立ち上がり、ふわりとテーブルを回り込んだ。
床に膝を付き、両手を老人の右手に添える。
「曾御祖父さま、今度は私とRさんの結婚記念に撮った写真を御目に掛けます。
その時は、お体に障らない範囲で、
母や父、御祖父様や御祖母様の事、お聞かせ下さいね。」
「はい。はい、喜んで...」
南中の太陽を避けて鳴き止んでいたセミが、
傾いた日差しの中、再び鳴き始めていた。
「それで、あなたはどう思ったの?何だか納得してないみたい。」
就寝前の一時、ソファで他愛もない話をする内に、何となくその話題になった。
Sさんは俺の左肩に頭を預けたまま、俺の左手に両手の指を絡めている。
『姫の母親は鬼子だと思われていたから、
すんなりと分家を離れて当主様にその身を託す事が出来た。』
あの時老人はそう言った。
しかし、本当に鬼子は存在するのか。あるいは存在していたのか。
『強すぎる業の影響で体の一部が異形に変化して生まれた赤子』だなんて、
とても信じられない。
「納得していないというか、体の一部が異形に変化した赤子というのがちょっと。
その、例えば鱗なら、遺伝子異常が原因の先天的な症状かも知れないですよね?」
「勿論そういう症状もあるけれど、論より証拠ね、ちょっと待ってて。」
Sさんは立ち上がって机に向かった。一番下の引き出しから何かを取り出す。
「はい、これよ。開けてみて。」
戻ってきたSさんが差し出したのは白木の小さな箱。一辺が5cmほどの立方体。
そっと蓋を取る。箱の底には濃紺の布、そしてその布の上に。これは。
鱗、だ。真っ白な鱗がざっと十数枚。大きさは俺の親指の爪くらい。
真珠のような白地。微かに、螺鈿のような虹色の光沢がある。
形は菱形に近い。中央の筋状に盛り上がっている部分は結構尖っている。
「あの、これ触っても?」 「もちろん、どうぞ。」
鱗を一枚摘んでみる。魚の鱗とは全く違う。何よりもその質感。
かなり厚みがあり、硬くて丈夫そう。
灯りにかざすと、光がボンヤリと透けて見える。
こんな鱗は見た事がない。
ヘビやワニの鱗なら、こんな風に一枚ずつ分離しないだろう。
勿論、皮膚の異常によって生じたものとは到底思えない。
これは、間違いなく鱗、だ。
「Sさん、もしかしてこれは。」
「ご名答、Lの母親の体から最後に剥がれた鱗。彼女から譲り受けたの。」
「最後に剥がれたって、それはどういう?」
「彼女から直接聞いた話。少し残念そうに話してくれたのを良く憶えてる。
初めて鱗が剥がれたのは、彼女が引き取られて2年後。4歳になった頃ね。
左太腿にあった鱗の一部が剥がれて、
剥がれた痕はすぐに周りの皮膚と変わらなくなった。」
先天的な遺伝子の異常によるものなら、
成長につれて症状が劇的に軽くなる筈はないだろう。
つまり、成長して体の抵抗力が強くなったから、
異形に変化していた部分が元に戻っていったのか。
それなら、本当に業の影響を受けて、体の一部が変化していた?
「その後も、彼女の成長につれて少しずつ鱗は剥がれていった。
太腿から背中、そして肩へと。彼女は鱗を嫌なものだと感じていなかったし、
むしろ綺麗な鱗が剥がれたのを残念がって、剥がれた鱗を大切に取ってあったの。
これはその一部。12歳の誕生日前には、一枚残らず鱗は剥がれた。
その時に起こった不思議な事も教えてくれたわ。」
「不思議な事って?」
「話を聞くより、実際に感じた方が納得出来るでしょ?」
Sさんは左手の甲に鱗を二列にして並べた。まるで奇抜なアクセサリーのようだ。
「じゃあ右手を此処に。目を閉じて、良いというまで開けちゃ駄目よ。」
「はい。」 Sさんの右手が俺の手首を取る。
やがて指先が硬いものに触れた。乾いた、さらさらした感触。
この感覚は以前何処かで...あれは、何処だったろう。
「眼を開けて、どうだった?」
「この鱗、前にも一度触った事があるような気がします。」
「最後の鱗が剥がれたのは彼女がお風呂に入っている時。
湯船の底から鱗を拾い集めていたら、彼女のすぐ前に龍が現れた。
白い、小さな龍。あなたも触ったことがある、あの龍。」
そうだ、あの時。
以前、Sさんの術で俺は小さな白い龍を見て、その鱗に触れた。
大きさはまるで違うが、この鱗はあの龍と関わりがあるのか。
「詳しく話してくれなかったけど、彼女はその龍と意志の疎通が出来たみたい。
彼女の鱗が全て剥がれて一年後、龍はある領域で眠りについた。
私はこの鱗を譲り受けたから、これを媒にして、
その領域と此処を一時的に繋ぐ事が出来る。でも、それだけ。
意志の疎通も出来ないし、龍を起こしてその力を借りる事もできない。」
「生まれながらにという事なら、式とは違いますよね。護り神、なんですか?」
「式とは違うわね。龍が護り神として彼女の体に入り込んでいた可能性は有る。
他にも色々な解釈が出来るけれど、正解は彼女とあの龍しか知らない。
一族の歴史の中で、こんな事例は他に1つも記録に残っていないから。」
「この鱗を、母親の形見として、Lさんに渡していないのは何故ですか?」
姫がこの鱗に関わる話を知っていたなら、既に俺には話してくれていただろう。
「迷ってるの。あの時私は、Lに渡す時まで預かるんだと思ったわ。
『いつかこれをLに渡して。』と言われると思ったのに、そうじゃなかった。
ただ『これをSにあげる。ずっと持ってて。』そう、言われただけ。
その意味を、ずっと考えてる。」
Sさんは悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「ね、あなたが答えを教えてくれない?」 「へ?どうして僕が。」
「赤の宝玉を身につけて」 「駄目です、絶対に。」 「ケチ。」
『邂逅(下)②』了
本日投稿予定は2回。一回目投稿、任務完了。