2104 玉の緒(下)①
2104 『玉の緒(下)①』
「皆の者、顔を上げなさい。」
病室に響く涼しい声。桃花の方様の声。
眼を開けると、ベッドの脇の椅子に当主様が座っていた。
その右斜め後方に立つ桃花の方様。
さらに後方、病室の壁際に直立不動で立つ2人の男性。
1人は知っている顔、遍さん。
もう1人は知らない顔だが、この2人が『上』の代表だろう。
ベッドのすぐ脇、姫は俺の背中を支えてくれている。
Sさんは、この階のロビーで翠と藍の相手をしている筈。
建前とはいえ、『上』の前で親子が揃えば要らぬ疑いを招きかねない。
ただ、ベッドの下に管さんがいるから、
Sさんはリアルタイムでこの部屋の様子を知る事が出来る。
「本日はわざわざ御出頂きありがとう御座います。
未だ医者の許可が出ないので、このような姿勢で失礼致します。」
傷の深さの割に内蔵の損傷は小さいらしいが、立ったままの姿勢は厳しい。
「問題ない。しかし、大変だったな、R。
もう少し回復してからとも思ったが、これも公務だ、許せ。」
もし俺の魂が穢れているなら、当然だろう。
そんなモノに、回復する余裕を与える事など有り得ない。
「もし私の魂が穢れているなら、全てを当主様にお任せ致します。」
「そうなって欲しくはないが。」
桃花の方様が跪き、細長い布の袋を当主様に手渡した。
桃花の方様の身長よりもはるかに長い、白い袋。当主様が袋の口を開く。
神器、『梓の弓』。姫から聞いていた通り、もの凄い存在感。
そしてもう一つの神器。
弓の半分程の長さの矢筒、その中に納められているのが『破魔の矢』。
矢筒の中から伝わってくる気配、これも尋常ではない。
当主様が立ち上がり、桃花の方様の肩を借りて弓の弦を張った。
続いて、桃花の方様が矢筒の中から取り出した矢を、当主様が受け取る。
左手で弓と矢を交差させるように持ち、右手を弦にかけた。
鏃は未だ鞘で覆われている。しかし必要があれば左手の一振りで。
「では、参る。」
ぴいいぃん。
不思議な音が病室の空気を震わせ、心の中に染み込んでくる。
神器の弓を半分程に引き絞り、弦を放す時に発する音。『寄絃』の儀式。
魂の穢れた者は、この音を聞いて意識を保てないと聞いた。
2度、そして3度。
弓と弦の発する音は、響きの調子を変えながら病室の空気を震わせた。
姫が息を潜めて俺を見ているのを感じる。大丈夫だ。何ともない、俺は。
「皆、見届けたな。Rの魂、穢れてはいない。
憑依されていた時間が短くて幸いだった。」
当主様が小さく息を吐く。
壁際の遍さんともう1人の男もホッとした表情を浮かべた。
続いて矢を桃花の方様に返し、弦を外して弓を白い袋に戻した。
しかし、未だ事情聴取は終わっていない。当主様はもう一度椅子に腰掛けた。
「さて、R。当主として、私は知らねばならない。あの晩何が起きたのか。
特に会話。お前と炎の会話、あの晩お前達が何を話したのか、を。」
「全てをお話ししたいのですが、記憶が途切れ途切れで、
ご期待に添えるかどうか。」
「それは承知の上。無理をすれば体にも障るだろう。桃花の方、後は頼む。」
「お任せ下さい。」
当主様の足元に控えていた桃花の方様が立ち上がり、ベッドに歩み寄った。
「R、右手をこちらへ。」
そっと右手を伸ばす。緊張で、どうしても手が震える。
桃花の方様は両手で俺の右手を包んだ。温かい。
「あの晩、お前が炎にかけた最初の言葉を、憶えていますか?」
「はい、『少し見損ないました』と。
その前の炎さんの術は、趣味が悪いというか、気に入らなかったので。」
桃花の方様が目を閉じた。ゆっくりと、深く息を吸う。
誰も喋らない。病室の中に満ちる静寂。
『完全に気配を消した筈だが、会話だけで術を見抜いたか。
Sに師事しているとはいえ、大したものだ。
それでこそ、お前を呼んだ甲斐がある。』
静寂を破ったのは、男の声。
間違いない。これは、炎さんの声だ。
桃花の方様の口から炎さんの声、あの晩の言葉がそのままに再生されている。
これは、術?確かSさんが同じような、そう、『声色』。
おそらくあれと良く似た系統の術。
『パーティーをしに来た訳ではありません。僕を呼んだ理由を教えて下さい。
それに、瑞紀さんは返してくれるんでしょうね?』
少し声の質が違うが、この話し方は俺だろう。
桃花の方様の術が、俺たちの会話をありのままになぞっていく。
『何故こんな事をしたんです。
まず人質を解放して、話はそれからでも良いじゃないですか。
そうすれば『上』だって、荒っぽい事はしないでしょうに。』
『これが『言霊』か。俺がどうしても会得できなかった術を大した修行もせずに。
本当に、いちいち気に障る。だが、それでなければお前を呼ぶ意味がない。
お前の言葉は確かに俺に届いている。俺の言葉は紫に届かなかったが。』
当主様は腕を組み、眼を閉じたまま身動き一つしない。
桃花の方様の術が再生する、俺達の会話。
部屋にいる全員が、息を詰めて耳を澄ませていた。勿論俺自身も。
『さっき、妹さんにあなたの言葉が届かなかったと、そう言いましたね。』
『ああ、俺が行った時、紫はもう俺の事も分からなくなっていた。
会うなり俺を本気で殺そうとしたよ。以前はあんなに慕ってくれていたのに。』
再生される会話を聞くうちに、記憶の断片が繋ぎ合わされていく。
この場で思い出した断片も加わって、あの晩の記憶が甦りつつある。
『だが、俺は憶えていない。
気が付いたら紫は床に倒レていて、既に死んでいた。
俺は、どうやって紫を殺したのか?
あんなに慕ってくレた妹を殺したのに、俺は、憶エていナイんだ。』
「妹さんの術で記憶が飛んだのではありませんか?
『不幸の輪廻』から流れ込む力で、妹さんの術が力を増していたとしたら。」
「もしそうなラ、死んでいタのは俺ノ方ダ。
そレに紫は、紫ハ業に呑マレてなド、イなカッタ。」
桃花の方様は一旦言葉を切って。大きく深呼吸をした。
『先程の失言を許して下さい。やはりあなたは偉大な術者。
そしておそらくは妹さんも。必ず、僕が皆に伝えます。
あなたと妹さんは業に呑まれたのではなかった。
それは、今あなたの中に潜んでいる『何か』に関わっていたのだと。』
『そしてもし、この怖ろしい災厄を祓うことが出来たなら、その功績と栄光は、
命を賭けて『何か』の存在を知らせた、あなた方2人の魂と共にある、と。」
「アりがトう。こレデ、アトハ、オマえシだイ。マカセ、た...』
そうだ、確かにこの言葉を聞いた事は憶えている。しかし、この後が全く。
『この短剣を持ったら、自分の腹を突く。』 姫が息を呑んだ。
これは...俺の。
そうか、思い出した。俺の術。
口に出してはいないが、心の中で必死に練った言葉。
あの術を、俺自身に掛けるために。
あの不吉な夢。乗っ取られた俺が、この剣を使って一族に害をなす。
それが、あの時点で考えられる最悪の事態。そして多分、相手の狙い。
その狙いを利用するしかない。そう思った。
短剣の存在感に隠れる程度の、単純な術。
術を掛けた事自体を忘れるのだから、意図を知られる心配もない。
細かな操作は難しいだろうが、チャンスは1度切り。
だから出来るだけ大きな的、腹。
相手が俺の中に入り込み、あの短剣を持てば、術が発動する。
自信は全くなかったが、運良く術は発動し、相手は短剣の力で焼き尽くされた。
本当に、信じ難い程の幸運。
桃花の方様の唇が小さく動いている。この後にもまだ言葉が?
『紫、見たか、やったぞ。これで...いや、Sは、上は何をしてる。
遅い、このままでは...』
桃花の方様が目を開けた。俺の手をベッドに戻し、労るようにさすった。
静かな病室の中に当主様の声が響く。
「R、誠にお前は言祝ぐ者。お前の言葉通り、炎も紫も偉大な術者。
紫は炎に、炎はRに■◆の存在を伝え、
そしてRは自らの体を代として■◆を誘い込み、神器の力で焼き滅ぼした。
3人の献身に対し、一族の祭主として心から礼を言う。
残念ながら炎と紫は犠牲となったが、一族を危うくする大難は祓われた。」
その重さを良く理解出来ないまま、俺は当主様の言葉を聞いていた。
「炎と紫を先達の偉大な術者の列に序し、
その魂を祀って功績を讃えよう。社へ戻る。」
当主様が立ち上がる。遍さんが慌てたように病室のドアを開けた。
「当然、特別な監視の件は撤回させる。
そして紫が受けた依頼が持ち込まれた経緯と、関与した者達の徹底的な調査。
恐らく、『不幸の輪廻』の活動が活発になっている事と関連が有る筈だ。
今後のために、全てを明らかにしておかねばならない。」
当主様はドアの前で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。悪戯っぽい笑顔。
「R、傷が癒えたらまた会おう。今度はゆっくり、話がしたい。」
言い終わると、当主様は踵を返してドアをくぐった。
軽やかに、足音が遠ざかっていく。
遍さんともう1人の男も、慌てて当主様の後を追った。
病室の中には俺と姫、そして桃花の方様。
昨夜、姫から聞いた段取りの通りだ。
「L、では、あれを。使わずに済んで、本当に良かった。」
姫は一礼して立ち上がり、壁の棚の中から白い布の包みを取りだした。
桃花の方様の前で跪き、白い包みを両手で捧げる。
「心安らかに、この日を迎える事が出来ました。心より感謝申し上げます。」
桃花の方様は頷いて包みを受け取り、そっと着物の袂に納めた。
包みの中身は黒檀の小箱。その小箱の中に純白の宝玉、号は『深雪』。
姫からはそう聞いたが、そんな風には見えないし、特別な気配も感じない。
包みの中、黒檀の小箱に厳重な封をしてあるのだろう。
『もしもの時のため』に、Sさんが当主様に直接お願いをして、
その宝玉を借り受けたと聞いた。
つまり、俺の魂が穢れていたら、宝玉を使うという事。
しかし、どんな風に使うのかは知らない。
『Rさんがそれを知る必要はありません』と姫は言った。
『もし、これを使う必要があるなら、
その時Rさんの意識が無いということですから。』と。
幸い、包みが解かれることはなく、黒檀の小箱を見る事はなかった。
魂の操作を伴う術は『禁呪』。
Sさんや姫の命を削る術は絶対に使って欲しくない。
そう思ったが、昨夜はどうしても適当な言葉が見つからなかった。
逆に、姫は俺の心を見通したように微笑んだ。
「翠ちゃんと藍ちゃんには『父親』が必要です。忘れないで下さいね。」
「L、Sとともに、Rの世話にはよくよく心を尽くしなさい。
Rの傷が癒え、体が本復するのには未だ時間がかかります。」
涼やかな、心地良い声で我に返った。
桃花の方様の声。姫は深く一礼し、病室のドアを開けた。
神器の弓と矢、そして白の宝玉を携えた桃花の方様が、ゆっくりとドアをくぐる。
「良かった、これで。」
ドアを閉じて振り返った姫の笑顔に、ようやく何時もの温もりが戻っていた。
一週間程で医者から自宅療養の許可が出て、俺と姫はお屋敷に戻った。
その晩、翠と藍を寝かしつけた後、俺達はリビングでお茶を飲んだ。
何時もと同じ、穏やかなお屋敷の夜。それがとても懐かしく、そして愛おしい。
違っているのは、俺の傷を心配してハイボールがお茶に変わった事。
そして此所には3人ではなく4人、あの少女も一緒にいる事。
「本当はお酒で乾杯したいけど、それはもう少しお預けね。」
「瑞紀ちゃんの卒業式まであと3週間。その夜は乾杯出来るかも知れませんよ。」
Sさんも姫も、すっかり落ち着きを取り戻していた。
もう、不意に涙を零したりはしない。確かに、とても大きな災難だった。
俺は深い傷を負い、Sさんと姫は酷く心を痛めた。
しかし、それを乗り越えつつある今、
3人の魂を結ぶ絆は以前にも増して強くなっている。
その絆を頼りに、きっと『日常』に戻る事が出来る。そう思った。
『玉の緒(下)①』了
本日投稿予定は1回、任務完了。