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『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第3章 2010
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2104 玉の緒(下)①

2104 『玉の緒(下)①』


「皆の者、顔を上げなさい。」

病室に響く涼しい声。桃花の方様の声。


眼を開けると、ベッドの脇の椅子に当主様が座っていた。

その右斜め後方に立つ桃花の方様。

さらに後方、病室の壁際に直立不動で立つ2人の男性。

1人は知っている顔、遍さん。

もう1人は知らない顔だが、この2人が『上』の代表だろう。


ベッドのすぐ脇、姫は俺の背中を支えてくれている。

Sさんは、この階のロビーで翠と藍の相手をしている筈。

建前とはいえ、『上』の前で親子が揃えば要らぬ疑いを招きかねない。

ただ、ベッドの下に管さんがいるから、

Sさんはリアルタイムでこの部屋の様子を知る事が出来る。


「本日はわざわざ御出頂きありがとう御座います。

未だ医者の許可が出ないので、このような姿勢で失礼致します。」

傷の深さの割に内蔵の損傷は小さいらしいが、立ったままの姿勢は厳しい。


「問題ない。しかし、大変だったな、R。

もう少し回復してからとも思ったが、これも公務だ、許せ。」

もし俺の魂が穢れているなら、当然だろう。

そんなモノに、回復する余裕を与える事など有り得ない。


「もし私の魂が穢れているなら、全てを当主様にお任せ致します。」

「そうなって欲しくはないが。」


桃花の方様が跪き、細長い布の袋を当主様に手渡した。

桃花の方様の身長よりもはるかに長い、白い袋。当主様が袋の口を開く。

神器、『梓の弓』。姫から聞いていた通り、もの凄い存在感。

そしてもう一つの神器。

弓の半分程の長さの矢筒、その中に納められているのが『破魔の矢』。

矢筒の中から伝わってくる気配、これも尋常ではない。


当主様が立ち上がり、桃花の方様の肩を借りて弓の弦を張った。

続いて、桃花の方様が矢筒の中から取り出した矢を、当主様が受け取る。

左手で弓と矢を交差させるように持ち、右手を弦にかけた。

鏃は未だ鞘で覆われている。しかし必要があれば左手の一振りで。


「では、参る。」


ぴいいぃん。

不思議な音が病室の空気を震わせ、心の中に染み込んでくる。

神器の弓を半分程に引き絞り、弦を放す時に発する音。『寄絃よつら』の儀式。

魂の穢れた者は、この音を聞いて意識を保てないと聞いた。


2度、そして3度。

弓と弦の発する音は、響きの調子を変えながら病室の空気を震わせた。


姫が息を潜めて俺を見ているのを感じる。大丈夫だ。何ともない、俺は。


「皆、見届けたな。Rの魂、穢れてはいない。

憑依されていた時間が短くて幸いだった。」

当主様が小さく息を吐く。

壁際の遍さんともう1人の男もホッとした表情を浮かべた。

続いて矢を桃花の方様に返し、弦を外して弓を白い袋に戻した。


しかし、未だ事情聴取は終わっていない。当主様はもう一度椅子に腰掛けた。


「さて、R。当主として、私は知らねばならない。あの晩何が起きたのか。

特に会話。お前と炎の会話、あの晩お前達が何を話したのか、を。」

「全てをお話ししたいのですが、記憶が途切れ途切れで、

ご期待に添えるかどうか。」


「それは承知の上。無理をすれば体にも障るだろう。桃花の方、後は頼む。」

「お任せ下さい。」

当主様の足元に控えていた桃花の方様が立ち上がり、ベッドに歩み寄った。


「R、右手をこちらへ。」

そっと右手を伸ばす。緊張で、どうしても手が震える。

桃花の方様は両手で俺の右手を包んだ。温かい。


「あの晩、お前が炎にかけた最初の言葉を、憶えていますか?」

「はい、『少し見損ないました』と。

その前の炎さんの術は、趣味が悪いというか、気に入らなかったので。」


桃花の方様が目を閉じた。ゆっくりと、深く息を吸う。

誰も喋らない。病室の中に満ちる静寂。


『完全に気配を消した筈だが、会話だけで術を見抜いたか。

Sに師事しているとはいえ、大したものだ。

それでこそ、お前を呼んだ甲斐がある。』


静寂を破ったのは、男の声。

間違いない。これは、炎さんの声だ。

桃花の方様の口から炎さんの声、あの晩の言葉がそのままに再生されている。

これは、術?確かSさんが同じような、そう、『声色』。

おそらくあれと良く似た系統の術。


『パーティーをしに来た訳ではありません。僕を呼んだ理由を教えて下さい。

それに、瑞紀さんは返してくれるんでしょうね?』


少し声の質が違うが、この話し方は俺だろう。

桃花の方様の術が、俺たちの会話をありのままになぞっていく。


『何故こんな事をしたんです。

まず人質を解放して、話はそれからでも良いじゃないですか。

そうすれば『上』だって、荒っぽい事はしないでしょうに。』


『これが『言霊』か。俺がどうしても会得できなかった術を大した修行もせずに。

本当に、いちいち気に障る。だが、それでなければお前を呼ぶ意味がない。

お前の言葉は確かに俺に届いている。俺の言葉は紫に届かなかったが。』


当主様は腕を組み、眼を閉じたまま身動き一つしない。

桃花の方様の術が再生する、俺達の会話。

部屋にいる全員が、息を詰めて耳を澄ませていた。勿論俺自身も。


『さっき、妹さんにあなたの言葉が届かなかったと、そう言いましたね。』

『ああ、俺が行った時、紫はもう俺の事も分からなくなっていた。

会うなり俺を本気で殺そうとしたよ。以前はあんなに慕ってくれていたのに。』


再生される会話を聞くうちに、記憶の断片が繋ぎ合わされていく。

この場で思い出した断片も加わって、あの晩の記憶が甦りつつある。


『だが、俺は憶えていない。

気が付いたら紫は床に倒レていて、既に死んでいた。

俺は、どうやって紫を殺したのか?

あんなに慕ってくレた妹を殺したのに、俺は、憶エていナイんだ。』


「妹さんの術で記憶が飛んだのではありませんか?

『不幸の輪廻』から流れ込む力で、妹さんの術が力を増していたとしたら。」

「もしそうなラ、死んでいタのは俺ノ方ダ。

そレに紫は、紫ハ業に呑マレてなド、イなカッタ。」


桃花の方様は一旦言葉を切って。大きく深呼吸をした。


『先程の失言を許して下さい。やはりあなたは偉大な術者。

そしておそらくは妹さんも。必ず、僕が皆に伝えます。

あなたと妹さんは業に呑まれたのではなかった。

それは、今あなたの中に潜んでいる『何か』に関わっていたのだと。』


『そしてもし、この怖ろしい災厄を祓うことが出来たなら、その功績と栄光は、

命を賭けて『何か』の存在を知らせた、あなた方2人の魂と共にある、と。」

「アりがトう。こレデ、アトハ、オマえシだイ。マカセ、た...』


そうだ、確かにこの言葉を聞いた事は憶えている。しかし、この後が全く。


『この短剣を持ったら、自分の腹を突く。』 姫が息を呑んだ。



これは...俺の。

そうか、思い出した。俺の術。

口に出してはいないが、心の中で必死に練った言葉。

あの術を、俺自身に掛けるために。


あの不吉な夢。乗っ取られた俺が、この剣を使って一族に害をなす。

それが、あの時点で考えられる最悪の事態。そして多分、相手の狙い。

その狙いを利用するしかない。そう思った。


短剣の存在感に隠れる程度の、単純な術。

術を掛けた事自体を忘れるのだから、意図を知られる心配もない。

細かな操作は難しいだろうが、チャンスは1度切り。

だから出来るだけ大きな的、腹。


相手が俺の中に入り込み、あの短剣を持てば、術が発動する。

自信は全くなかったが、運良く術は発動し、相手は短剣の力で焼き尽くされた。

本当に、信じ難い程の幸運。



桃花の方様の唇が小さく動いている。この後にもまだ言葉が?


『紫、見たか、やったぞ。これで...いや、Sは、上は何をしてる。

遅い、このままでは...』


桃花の方様が目を開けた。俺の手をベッドに戻し、労るようにさすった。

静かな病室の中に当主様の声が響く。


「R、誠にお前は言祝ぐ者。お前の言葉通り、炎も紫も偉大な術者。

紫は炎に、炎はRに■◆の存在を伝え、

そしてRは自らの体を代として■◆を誘い込み、神器の力で焼き滅ぼした。

3人の献身に対し、一族の祭主として心から礼を言う。

残念ながら炎と紫は犠牲となったが、一族を危うくする大難は祓われた。」


その重さを良く理解出来ないまま、俺は当主様の言葉を聞いていた。


「炎と紫を先達の偉大な術者の列に序し、

その魂を祀って功績を讃えよう。社へ戻る。」


当主様が立ち上がる。遍さんが慌てたように病室のドアを開けた。


「当然、特別な監視の件は撤回させる。

そして紫が受けた依頼が持ち込まれた経緯と、関与した者達の徹底的な調査。

恐らく、『不幸の輪廻』の活動が活発になっている事と関連が有る筈だ。

今後のために、全てを明らかにしておかねばならない。」


当主様はドアの前で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。悪戯っぽい笑顔。


「R、傷が癒えたらまた会おう。今度はゆっくり、話がしたい。」


言い終わると、当主様は踵を返してドアをくぐった。

軽やかに、足音が遠ざかっていく。

遍さんともう1人の男も、慌てて当主様の後を追った。


病室の中には俺と姫、そして桃花の方様。

昨夜、姫から聞いた段取りの通りだ。


「L、では、あれを。使わずに済んで、本当に良かった。」

姫は一礼して立ち上がり、壁の棚の中から白い布の包みを取りだした。

桃花の方様の前で跪き、白い包みを両手で捧げる。


「心安らかに、この日を迎える事が出来ました。心より感謝申し上げます。」


桃花の方様は頷いて包みを受け取り、そっと着物の袂に納めた。

包みの中身は黒檀の小箱。その小箱の中に純白の宝玉、号は『深雪みゆき』。

姫からはそう聞いたが、そんな風には見えないし、特別な気配も感じない。

包みの中、黒檀の小箱に厳重な封をしてあるのだろう。


『もしもの時のため』に、Sさんが当主様に直接お願いをして、

その宝玉を借り受けたと聞いた。

つまり、俺の魂が穢れていたら、宝玉を使うという事。

しかし、どんな風に使うのかは知らない。


『Rさんがそれを知る必要はありません』と姫は言った。

『もし、これを使う必要があるなら、

その時Rさんの意識が無いということですから。』と。


幸い、包みが解かれることはなく、黒檀の小箱を見る事はなかった。

魂の操作を伴う術は『禁呪』。

Sさんや姫の命を削る術は絶対に使って欲しくない。

そう思ったが、昨夜はどうしても適当な言葉が見つからなかった。

逆に、姫は俺の心を見通したように微笑んだ。

「翠ちゃんと藍ちゃんには『父親』が必要です。忘れないで下さいね。」



「L、Sとともに、Rの世話にはよくよく心を尽くしなさい。

Rの傷が癒え、体が本復するのには未だ時間がかかります。」


涼やかな、心地良い声で我に返った。

桃花の方様の声。姫は深く一礼し、病室のドアを開けた。

神器の弓と矢、そして白の宝玉を携えた桃花の方様が、ゆっくりとドアをくぐる。


「良かった、これで。」


ドアを閉じて振り返った姫の笑顔に、ようやく何時もの温もりが戻っていた。


一週間程で医者から自宅療養の許可が出て、俺と姫はお屋敷に戻った。

その晩、翠と藍を寝かしつけた後、俺達はリビングでお茶を飲んだ。

何時もと同じ、穏やかなお屋敷の夜。それがとても懐かしく、そして愛おしい。

違っているのは、俺の傷を心配してハイボールがお茶に変わった事。

そして此所には3人ではなく4人、あの少女も一緒にいる事。


「本当はお酒で乾杯したいけど、それはもう少しお預けね。」

「瑞紀ちゃんの卒業式まであと3週間。その夜は乾杯出来るかも知れませんよ。」


Sさんも姫も、すっかり落ち着きを取り戻していた。

もう、不意に涙を零したりはしない。確かに、とても大きな災難だった。

俺は深い傷を負い、Sさんと姫は酷く心を痛めた。


しかし、それを乗り越えつつある今、

3人の魂を結ぶ絆は以前にも増して強くなっている。

その絆を頼りに、きっと『日常』に戻る事が出来る。そう思った。


『玉の緒(下)①』了

本日投稿予定は1回、任務完了。

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