2103 玉の緒(中)②
2103 『玉の緒(中)②』
重い、音がした。我に返る。
男の体が、向かいのソファから床にずり落ちていた。
あれは...あれは業に呑まれた敗者。まだ、生きている?
息の根を、止めなければ。
ゆっくりと立ち上がる。全身の感覚が妙にボンヤリとして体がふらつく。
テーブルの上の短剣。そう、この短剣であの男を。
そうすれば、俺は一族でも有数の術者を倒した勝者。皆が俺を讃えるだろう。
それにこの短剣なら、あの女共を殺せる。S、そしてL。
ついでに子供も始末すれば良い。
これまで何度と無く、『不幸の輪廻』の邪魔をしてきた厄介者達。
そして、俺が望めば当主との面会も叶う。そうすればこの一族も...
そう、契約は成就する。その後は仲間達の、思わず笑みが浮かぶ。
右手で短剣を取る、早く、あの男を。
? 足が動かない。 左手がひとりでに動いて、短剣の刃を握った。
ゆらりと右手が離れて短剣を持ち変える。
さらに左手を添え、両手が短剣を逆手に握り締めた。
何故だ、何故俺の両手がひとりでに?
次の瞬間、両手は短剣を俺自身の腹に突き刺した。
激痛、足から力が抜け、床に膝を着く。凄まじい悲鳴。
薄れていく意識の中、男の、呟くような声を聞いた気がした。
夢を見ていた。 暗闇の中、俺の体はゆっくりと沈んでいく。
腹の真ん中辺りに鈍い痛みがある。いや、かなり強い痛みだ。 腹に、傷?
その時、微かに俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
女性の声。 ああ、俺は知っている。 これは、誰の声だったろう。
『いた。見つけたぞ。』 やはり、若い女性の声。
続いて背中に何か温かいものが触れ、俺の体は止まった。
『そうか、間に合ったか。』 こちらは男性。落ち着いた、渋い声。
『○瀬の主、祭主殿を見つけたぞ。
全く、■◆が絡んでいるのだから、さっさと助ければ良いものを。
お主が硬い事を言うから我らの月下氷人が死にかけた。
もし、手遅れになったらどうするつもりだったのだ?』
『人が、人同士が自分達の力で難局を乗り切ろうとしている時に、
安易に助ければ魂の堕落を招く。
我が祭主であれば尚更、この試練は大いなる成長の機会となる。』
『それにしても祭主殿は無茶をしたな。
神器の短剣で自らの腹を貫くなど、前代未聞。』
『神器を持ってはいても、祭主殿が■◆を滅ぼすには、あれしか策はない。
あの術を使わねば、その意図は■◆に読まれたろう。
そうでなくとも、家族への未練や痛みへの怖れで躊躇し、機を逸したかも知れぬ。
力と術への敬意が、無意識の内に正解を探り当てる。
あの港で私を助けた時もそうだった。』
ボンヤリとした頭で、俺は不思議な会話を聞いていた。
これは川の神様と、そして。
『お主、怪我をしたのか。その右手。
そうか、あ奴の顎門、2人の魂を救い出した時に。
しかしどうして2人の魂を? 妹の体は既に無く、兄の体も長くは保つまい。』
『気高く戦った魂。あ奴にだけは、絶対に渡したくなかった。
それに、どのみち『血』が必要なのだから、この傷、丁度良い。』
『急いだ方が良さそうだ。祭主殿の気配が弱くなっている。』
『うむ、では我が祭主を此処へ。』
数秒の後、俺の腹を温かいものが濡らした。
次第に腹の痛みが強くなる。思わず唸り声を。
痛みのあまり、目が覚めた。見慣れない天井、そして。
「おねえちゃん、おとうさんがめをあけたよ。」 駆け寄る気配。
「Rさん...」 俺の顔を覗き込む綺麗な顔、姫だ。
体を起こそうとした途端、腹の激痛。
「動かないで下さい。お腹の傷が酷いんです。でも、本当に、良かった。」
俺の肩をそっと押さえた姫の左手、指先が小さく震えていた。
翠の前だからだろう、懸命に感情を抑えているのが分かる。
「おとうさん、やっとめがさめたね。みんな、しんぱい、したんだから。」
「ありがとう。御免よ。」 やっとの思いで、声を絞り出した。
「Sさんは藍ちゃんとお屋敷にいます。夕方には来てくれますけど、
Rさんの意識が戻ったのは、すぐに知らせておきますね。」
「今日は、何曜日なんですか?」 「あれから3日目、水曜日です。」
記憶が混濁している。俺が範士の屋敷に行ったのは日曜日。
だとすれば、俺は丸々2日、意識が無かったのか。
それにしても、あの出来事。夢を見ていたような気もするが、
腹の傷とその痛みはそれが現実だと教えてくれる。
人質になった少女は無事だったのか。あの男、炎さんは...。
炎さんの中に潜んでいた『何か』は、一体どうなったんだろう。
炎さんが命を賭してその存在を俺に伝え、
それに対処する一縷の望みを俺の適性と短剣に託した、あのおぞましい存在。
意識がまだ朦朧としているのは、痛み止めの麻酔のせいだと姫は教えてくれた。
腹をほとんど貫通する程の深い傷で、俺の苦しみ方が酷かったらしい。
なら、この痛みはまだマシなのか。
そんな事を考えている内に、再び眠りに落ちた。
また、痛みで目が覚めた。もう窓の外は薄暗い、既に夕方。
姫が用意してくれた温かい飲み物を飲んでいると、
姫が立ち上がり、翠の手を取った。
「翠ちゃん、そろそろ時間だから一緒にお母さんと藍ちゃん迎えに行こうね。」 「うん。」
姫と翠が病室を出て行って10分程すると廊下から足音が聞こえ、
磨りガラスの向こうに人影が見えた。
控えめなノックの音。 間違いない、Sさん。
「どうぞ、起きてますから。」 ノブが回り、ゆっくりとドアが開く。
Sさんは無言で歩み寄り、ベッドの脇に膝をついた。
俺が差し出した右手を両手で握り、頬ずりをしながら、
声を殺してSさんは泣いた。
何と声を掛けて良いのか分からない。Sさんの嗚咽、俺も必死で涙を堪える。
Sさんが一人で病室に来たのは姫の配慮。
Sさんの泣き声が藍と翠を不安にさせないように。
どれ位そうしていただろうか。ようやくSさんは顔を上げた。
涙でぐしょぐしょの笑顔。
「泣いたりして御免なさい。
私、きっと、大丈夫だと思っていたのよ。なのに涙が、変なの。」
「心配掛けて済みません。言い訳したいんですが、
まだ頭がボンヤリしてて、どうにも。」
「言い訳なんかしなくて良い。あなたは精一杯頑張ったんだから。」
Sさんは俺の唇にキスをした。長く、熱いキス。
「顔が涙でぐしょぐしょ。御免ね。」
ハンカチで俺の顔をそっと拭い、そして自分の頬を拭う。
それから姫に電話をかけた。家族が全員揃う。何故かとても、懐かしい気分だ。
俺が薄いお粥のような夕食を食べ終えると、
Sさんは翠と藍を連れてお屋敷へ戻った。俺が入院した日から、
姫がずっと泊まり込みで付き添いをしてくれていたらしい。
「大学、休んだんですね。この時期に、大丈夫なんですか?」
「ほとんどの科目はテストが終わってるし、平気です。」
「済みません。もう少し元気になるまで、宜しくお願いします。」
「お願いされなくても、ずっと付き添います。
だって私、Rさんのお嫁さんですよ。」
姫の言葉に込められた深い想い、Sさんの涙に秘められた激しい感情。
そしてさっき、この手に抱いた翠と藍の温もり。
ボンヤリしていた意識も次第に澄み、
自分が死地をくぐり抜けた事を実感していた。
翌日、姫の介助で昼食を食べ終え、暫くするとノックの音がした。
姫が頷くのを確かめて返事をする。「どうぞ。」
ゆっくりと、病室のドアが開いた。
Sさんだ。翠の手を引いている。あれ、藍は?
そう言いかけた時、Sさんが押さえたドアをもう一人の女性がくぐった。
藍を抱いている。人質になったあの少女。
良かった、無事だったのか。本当に、良かった。
「また助けて頂いて、本当にありがとう御座いました。」
少女は深く頭を下げた。だが、この少女が礼を言う理由はない。
「いや、俺を呼び出すために人質にされたんだから、助けるのが当然だよ。」
「それを言ったら、瑞紀ちゃんをあの家に紹介した私にも責任が有る。
もう、その話は無し。それよりどう?瑞紀ちゃん、見違えたでしょ?」
「はい、服がすごく似合ってて。初めは誰だか分かりませんでした。」
服のせいか、あの日範士の屋敷で会った時より、少女はずっと綺麗に見えた。
「服を褒めるなんて、全く気が利かないわね。でも、確かによく似合ってる。
この服、私のお下がりよ。サイズ、ほとんどそのままでOKなの。」
「あの、お下がりって?」 そう言えば、何故少女は藍を?
「ふふ、あの晩から瑞紀ちゃんにはお屋敷に来てもらってるの。
Lが此処であなたの付き添いしてるから、
お屋敷の家事とか手伝って貰って大助かり。」
Sさんが努めて楽しそうに振る舞っているのが分かる。
それなら、炎さんは...
姫かSさんが話してくれるまで、その質問はしない。そう、決めた。
記憶が未だ曖昧な所も、今、無理をして思い出す必要はない。
とにかく俺は生きている。
今はもう暫く、この賑やかな病室の中で、暖かな幸せに包まれていたい。
少女が俺の横に寝かせてくれた藍の頭をそっと撫でた。
翌々日。
朝早くから、病院全体の空気がピリピリと緊張していた。
彼方此方から伝わってくる気配。
そのどれもが間違いなく、かなりの力を秘めている。
病院の出入り口などの要所に、式や術者が配置されているのだろう。
今日、当主様と桃花の方様がこの病院に、俺の病室に御出になるからだ。
『見舞い』と言えば聞こえは良いが、『上』のメンバーも一緒。
つまりこれは調査。
紫さんの件に続いて炎さんと俺。
あの禍々しい存在と接触して生き延びたのが俺一人だとすれば、
俺の状態を『上』が調査するのは当然だろう。
昨夜、姫は今日に備えて幾つか重要な事を教えてくれた。
「分かってると思いますけど、炎さんは助かりませんでした。」
「Sさんと他の術者たちが範士の屋敷に到着した時には、
全てが終わっていたそうです。瑞紀ちゃんや他の人達は全員無事だったけれど、
リビングの床には大怪我をして意識の無いRさん、それと炎さんの遺体。」
「そして、残っていた痕跡から、怖ろしい事が起きたと分かりました。」
姫は、Sさんから預かったという写真を俺に手渡した。
リビングの絨毯が黒く、大きく焦げている。ある動物を思わせるその形。
写真を見ているだけなのに、全身の毛が逆立つような寒気を感じた。
「これは、一体何ですか?何かが焼けて、絨毯が焦げた跡みたいですが。」
「Rさんの中に入り込んでいたモノが、お腹の傷から血と一緒に吹き出して、
あの短剣の力で焼き尽くされた跡。今の所、そう解釈されているようです。」
あの、途轍もなくおぞましいモノは、炎さんの中から俺の中に移り、
あの短剣の力で焼き尽くされた...そうだ、あの夢。
不思議な声は『神器の短剣で自らの腹を貫くなど、前代未聞。』と。
じゃあ、腹の傷は、俺自身が短剣で?
「ただ、それがあまりにも強力でおぞましい存在なので、
『上』は疑っています。既にRさんの魂が『それ』に穢されているとしたら、
後々災いの種になるから。それに。」
姫は一度言葉を切り、温かいお茶を一口飲んだ。
「炎さんが亡くなり、Rさんの記憶もかなり欠落していて、
あの晩何が起きたのか、詳しい事は分かりません。
実際、Rさんのお腹の傷も、未だ原因が特定出来ていないんです。」
「この傷は僕が自分で刺したものだと。
ええと、川の神様の夢を見て。その夢の中で、そういう風に。」
「炎さんの手に、血痕はなかったと聞きました。
Rさんの両手は血塗れだったそうですが、それは傷口を押さえたからでしょう。
そして、あの短剣は鞘に収まった状態でテーブルの上に置かれたまま、
鞘にも柄にも血痕はなかったと聞きました。」
俺じゃないのか?でも、あの短剣を俺以外の人間が持てば...訳が分からない。
「Rさんの状態、事の経緯を知るための調査ですね。
魂が穢れているかどうか、それを確実に判別出来るのは当主様と桃花の方様だけ。
ですから、調査に伴い、御二人がこの部屋へ御出になります。」
そうか、御二人がこの部屋へ御出になる理由。
おぞましいモノと接触した俺の魂が穢れているかどうかを判別するために。
ふと、あの怖ろしい夢の場面が目に浮かんだ。俺はあの短剣でSさんを。
そういえば、俺は炎さんを殺そうとしたんじゃなかったか。あの短剣で。
曖昧な記憶を辿る...駄目だ、どうしてもそこから先を辿れない。
まるで術で記憶が、もしかしたら。
「あちこち記憶が無いのは、僕の魂が穢れているからですか?」
「Rさんは大丈夫。私は信じています。それに、私とSさんがRさんを守ります。
どんな手段を使っても。そう、たとえ『上』に背く事になるとしても。」
つまり、俺の魂が穢れていたら『上』は...
『背く事になるとしても』
その言葉の重み、そして姫の胸中を思うと、それ以上の言葉は出なかった。
『玉の緒(中)②』了
本日投稿予定は1回、任務完了。