表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第3章 2010
79/279

2102 玉の緒(中)①

別系統の作品も含め、本日より感想を受付ける設定に変更いたしました。

引き続き、宜しくお付き合い頂ければ幸いです。

2102 『玉の緒(中)①』


範士の屋敷に着いたのは6時過ぎ。玄関の灯りが点いている。

門の前に立つと、ひとりでに門扉が開き、門をくぐると、閉じた。

間違いない、あの男の仕業。 玄関まで歩き、ドアの前に立つ。


深呼吸。

この屋敷に、入るべきだろうか。相手の意図が分からない。

あの男が業に呑まれている可能性もある、そんな状態で。

でも、あの男の口調には悪意を感じなかった。

Sさんと『上』に連絡するのは、この件の対策を取らせるためだろう。

連絡を受ければ、Sさんは間違いなく此処に来る。


そっと、上着に触れた。

布越しの硬い感触、あの短剣。お社に参内する時は常に帯剣している。

最悪の場合、Sさんたちが到着するまで時間を稼ぐ。

この短剣があれば、何とかなるかも知れない。


その時、玄関のドアが開いた。少女が立っている。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。どうぞ、中へ。」

所作は洗練され、服装や髪型も見違えるようだが、間違いない。

あの少女。今、抱き上げて、車に走れば。


いや、駄目だ。あの門扉、当然、結界が張られているだろう。

それに、少女以外にも屋敷の中には人がいる。その人達を見捨てるのか?

自問自答しながら、少女の後を追う。案内されたのは広いリビングルーム。

テーブルの上には料理の皿とワインの瓶、それに大きなワイングラスが2つ。

しかし肝腎の、あの男の姿がない。


「Rさん...来て、くれたんですね。」

少女が体の向きを変え、正面から俺の眼を見つめる。

「嬉しい。来てくれないんじゃないかと、私、心配で。怖かった。」


少女が歩み寄り、俺を抱きしめる。左肩に顔を埋めた。

肩から胸に感じる吐息の温かさとは逆に、俺の心は冷えていく。


「趣味の悪い術ですね。少し、見損ないました。」

ふっ、と、少女の体から力が抜けた。しっかり抱き止める。


何時の間にか、奥のソファにあの男が座っていた。

テーブルからワインの瓶を取る。

「完全に気配を消した筈だが、会話だけで術を見抜いたか。

Sに師事しているとはいえ、大したものだ。

それでこそ、お前を呼んだ甲斐がある。」


少女の体をソファに横たえ、脱いだ上着を着せ掛けた。

少女の隣りに座る。あの男の斜め向かいの席。


男は2つのグラスにワインを注ぎ、1つを俺の前に置いた。

「良く来てくれた。まずは一杯。別離の杯と洒落込もう。

実際に会ったのは初めて、だが。」


堪えきれないように、男は笑った。乾いた、小さな笑い声。


別離の、杯? 俺を殺すつもりなら、お社を出たときに...

その男は、一息でワインを飲み干した。


「さっき此処のセラーで見つけた、85年の☆フィット。かなり良いワインだ。

☆トゥールなら尚良かったが、まあ贅沢は言えん。それに、料理も準備した。

その子はなかなか料理が上手い。助かったよ。」


ワインの銘柄を言っているのか。一体何故そんな話題を。

それに『鍵』。一体何故、これ程厳重に心を封じる必要があるのか。


「パーティーをしに来た訳ではありません。僕を呼んだ理由を教えて下さい。

それに、当然、瑞紀さんは返してくれるんでしょうね?」

「その子も他の者たちも寝てるだけだ。

お前が来てくれたから用はない。後はお前と話をすれば済む。」


言い終わると、男は再びグラスにワインを注いだ。


緊張して喉がカラカラだ。俺も一口だけ、ワインを飲む。

当然、味などまるで分からない。深呼吸、腹に力を込めた。

何とか、少女だけでも無事に。


『何故こんな事をしたんです。

まず人質を解放して、話はそれからでも良いじゃないですか。

そうすれば『上』だって、荒っぽい事はしないでしょうに。』


男の左頬がピクリと動いた。微かな笑みが浮かぶ。


「これが『言霊』か。

俺がどうしても会得できなかった術を大した修行もせずに。

本当に、いちいち気に障る。だが、それでなければお前を呼ぶ意味がない。

お前の言葉は確かに俺に届いている。俺の言葉は紫に届かなかったが。」


違和感。

何故、今、妹の話を? そして、さっきはワインの銘柄と料理。

もしかしてこれは何か別の...慎重に言葉を選ぶ。


「『言の葉』の適性。それが、他の人でなく、僕を呼んだ理由ですか?」

「それもある。そしてもう1つ、その短剣。お前の適性と、その神器が必要だ。」

「あなたがその気になれば、僕はこの短剣に護ってもらうのが精一杯。

これを使って瑞紀さんを助け出す事など出来ませんよ。」


男はまた一口、ワインを飲んだ。穏やかな笑みを浮かべている。


「あたりまえだ。例え俺の意識がなくても、

お前はその短剣で俺に触れる事さえ、出来はしない。」


『俺の意識がなくても』...やはり何かある。恐らくこれは謎かけ。

しかしこの男は心に幾重にも鍵を掛けている。伝達の手段はただ会話のみ。

それが、それこそが、直接には口に出せない『何か』を、

俺の適性で感じ取れという、この男からのメッセージ。


「さっき、妹さんにあなたの言葉が届かなかったと、そう言いましたね?」

「ああ、俺が行った時、紫はもう俺の事も分からなくなっていた。

会うなり本気で俺を殺そうとしたよ。以前はあんなに慕ってくれていたのに。」


男の表情は変わらない。しかし、その言葉から、深い悲しみが伝わってくる。


「Sが俺との縁談を断ったのを知った時、紫は『自分を妻に』と言った。

計画のためでなく、俺を男として愛してくれていたと知って驚いたが、

やはり嬉しかった。」


現代の倫理や法律には反するが、

一族の中で、兄妹・姉弟の結婚、それ自体は禁忌ではない。

実際そういう組み合わせの夫婦を知っている。

しかし今、何故、俺にその話を?


「だが、俺は憶えていない。

気が付いたら紫は床に倒レていて、既に死んでいた。

俺は、どうやって紫を殺したのか?

あんなに慕ってくレた妹を殺したのに、俺は、憶エていナイんだ。」


時折、男の声の調子が外れる。

それはまるで、錆びたドアがきしむ音のように聞こえた。


錆びたドアの向こう。微かな、しかし途轍もなくおぞましい、気配。

それは、いつか呪物のトランプを手にした時の感覚に似ていた。

ドアの向こうで目覚めた『何か』。

それは、僅かに開いたドアの隙間から、俺の様子を探っている。


マズい。これは、俺の手に負える事態ではない。しかし、もう、止められない。


この男は、俺の適性に期待して『最初に』俺を呼んだ。

もし他の術者を、例えばSさんを先に呼んだら、

更に悪い事態になると分かっていたから。

だとすれば、この男が俺に伝えたい事、それは。


念の為にもう一言、あと1つヒントがあれば確信出来る。


「妹さんの術で記憶が飛んだのではありませんか?

『不幸の輪廻』から流れ込む力で妹さんの術が力を増していたとしたら。」

「もしそうなラ、死んでいタのは俺ノ方ダ。

そレに紫は、紫ハ業に呑マレてなド、イなカッタ。」


間違いない。この男が俺に伝えたい事、それを感知出来た。


「先程の失言を許して下さい。

やはりあなたは偉大な術者。そしておそらくは妹さんも。

必ず、皆に伝えます。あなたと妹さんは業に呑まれたのではなかった。

それは、今あなたの中に潜んでいる『何か』に関わっていたのだと。」


「そしてもし、この怖ろしい災厄を祓う事が出来たなら、その功績と栄光は、

命を賭けて『何か』の存在を知らせた、あなた方2人の魂と共にある、と。」


「アりがトう。こレデ、アトハ、オマえシだイ。マカセ、た...」


突然、リビングルームを冷気が満たした。

あっさりと心が挫けそうになる程の、圧倒的な気配。

笑い声や言葉こそ聞こえないが、『何か』は確かに俺と炎さんを嘲笑っていた。

『気付いたとしても、人間には為す術がない。せいぜい足掻け。』そんな風に。


『何か』は俺の反応を楽しむように、ゆっくりと、その姿を現そうとしている。

炎さんの体がぐったりと背もたれに沈み、のけぞった顔が天井を向いた。

体が大きく震え、口から赤黒い液体が溢れる。赤ワイン、そして血の臭い。

始まった。どうすれば良い?


炎さんの中に容易く入り込む程の力、俺の術など効く筈が無い。

Sさんや姫の術でさえも。でも今ならこの短剣で。


いや、『意識が無くても』と、炎さんは言った。あれは警告。

不用意に斬りかかれば『何か』は躊躇無く俺を殺す。そう、短剣の刃が届く前に。

時間を稼ごうにも、あの少女が狙われたら俺に為す術は無い。


考えろ。

今、姿を現そうとしている『何か』、その目的は?

この短剣? しかしこの短剣を俺以外が持てば...そうか。

あの夢は逆夢でなく、予知夢。俺がSさんに斬りつける場面が目に浮かぶ。

あの予知夢を成就させてはならない。絶対に、あんな場面を現実にはしない。


それなら、俺に出来る事、するべき事はただ1つ。

短剣をゆっくりと抜く。


『何か』の気配が大きく揺らぎ、リビングの中に冷たい風が吹いた。

そう何者も、この短剣を目の前にして平静ではいられない。

まして、俺の意図や術を感知するのは無理だろう。

昼間の空、太陽の光の下で、ちっぽけな星の光を見る事は出来ない。


抜き身の短剣をゆっくりとテーブルに置き、言葉を練る。

簡潔に、単純に。


炎さんの口から、白く濃い煙のようなものが立ち上った。

エクトプラズム...もう時間がない。

言葉に『力』を込め、血液に乗せて左手に送り込む。

目を閉じ、薬指で、しっかりと額に触れた。


『玉の緒(中)①』了

本日投稿予定は1回、任務完了。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ