2102 玉の緒(中)①
別系統の作品も含め、本日より感想を受付ける設定に変更いたしました。
引き続き、宜しくお付き合い頂ければ幸いです。
2102 『玉の緒(中)①』
範士の屋敷に着いたのは6時過ぎ。玄関の灯りが点いている。
門の前に立つと、ひとりでに門扉が開き、門をくぐると、閉じた。
間違いない、あの男の仕業。 玄関まで歩き、ドアの前に立つ。
深呼吸。
この屋敷に、入るべきだろうか。相手の意図が分からない。
あの男が業に呑まれている可能性もある、そんな状態で。
でも、あの男の口調には悪意を感じなかった。
Sさんと『上』に連絡するのは、この件の対策を取らせるためだろう。
連絡を受ければ、Sさんは間違いなく此処に来る。
そっと、上着に触れた。
布越しの硬い感触、あの短剣。お社に参内する時は常に帯剣している。
最悪の場合、Sさんたちが到着するまで時間を稼ぐ。
この短剣があれば、何とかなるかも知れない。
その時、玄関のドアが開いた。少女が立っている。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。どうぞ、中へ。」
所作は洗練され、服装や髪型も見違えるようだが、間違いない。
あの少女。今、抱き上げて、車に走れば。
いや、駄目だ。あの門扉、当然、結界が張られているだろう。
それに、少女以外にも屋敷の中には人がいる。その人達を見捨てるのか?
自問自答しながら、少女の後を追う。案内されたのは広いリビングルーム。
テーブルの上には料理の皿とワインの瓶、それに大きなワイングラスが2つ。
しかし肝腎の、あの男の姿がない。
「Rさん...来て、くれたんですね。」
少女が体の向きを変え、正面から俺の眼を見つめる。
「嬉しい。来てくれないんじゃないかと、私、心配で。怖かった。」
少女が歩み寄り、俺を抱きしめる。左肩に顔を埋めた。
肩から胸に感じる吐息の温かさとは逆に、俺の心は冷えていく。
「趣味の悪い術ですね。少し、見損ないました。」
ふっ、と、少女の体から力が抜けた。しっかり抱き止める。
何時の間にか、奥のソファにあの男が座っていた。
テーブルからワインの瓶を取る。
「完全に気配を消した筈だが、会話だけで術を見抜いたか。
Sに師事しているとはいえ、大したものだ。
それでこそ、お前を呼んだ甲斐がある。」
少女の体をソファに横たえ、脱いだ上着を着せ掛けた。
少女の隣りに座る。あの男の斜め向かいの席。
男は2つのグラスにワインを注ぎ、1つを俺の前に置いた。
「良く来てくれた。まずは一杯。別離の杯と洒落込もう。
実際に会ったのは初めて、だが。」
堪えきれないように、男は笑った。乾いた、小さな笑い声。
別離の、杯? 俺を殺すつもりなら、お社を出たときに...
その男は、一息でワインを飲み干した。
「さっき此処のセラーで見つけた、85年の☆フィット。かなり良いワインだ。
☆トゥールなら尚良かったが、まあ贅沢は言えん。それに、料理も準備した。
その子はなかなか料理が上手い。助かったよ。」
ワインの銘柄を言っているのか。一体何故そんな話題を。
それに『鍵』。一体何故、これ程厳重に心を封じる必要があるのか。
「パーティーをしに来た訳ではありません。僕を呼んだ理由を教えて下さい。
それに、当然、瑞紀さんは返してくれるんでしょうね?」
「その子も他の者たちも寝てるだけだ。
お前が来てくれたから用はない。後はお前と話をすれば済む。」
言い終わると、男は再びグラスにワインを注いだ。
緊張して喉がカラカラだ。俺も一口だけ、ワインを飲む。
当然、味などまるで分からない。深呼吸、腹に力を込めた。
何とか、少女だけでも無事に。
『何故こんな事をしたんです。
まず人質を解放して、話はそれからでも良いじゃないですか。
そうすれば『上』だって、荒っぽい事はしないでしょうに。』
男の左頬がピクリと動いた。微かな笑みが浮かぶ。
「これが『言霊』か。
俺がどうしても会得できなかった術を大した修行もせずに。
本当に、いちいち気に障る。だが、それでなければお前を呼ぶ意味がない。
お前の言葉は確かに俺に届いている。俺の言葉は紫に届かなかったが。」
違和感。
何故、今、妹の話を? そして、さっきはワインの銘柄と料理。
もしかしてこれは何か別の...慎重に言葉を選ぶ。
「『言の葉』の適性。それが、他の人でなく、僕を呼んだ理由ですか?」
「それもある。そしてもう1つ、その短剣。お前の適性と、その神器が必要だ。」
「あなたがその気になれば、僕はこの短剣に護ってもらうのが精一杯。
これを使って瑞紀さんを助け出す事など出来ませんよ。」
男はまた一口、ワインを飲んだ。穏やかな笑みを浮かべている。
「あたりまえだ。例え俺の意識がなくても、
お前はその短剣で俺に触れる事さえ、出来はしない。」
『俺の意識がなくても』...やはり何かある。恐らくこれは謎かけ。
しかしこの男は心に幾重にも鍵を掛けている。伝達の手段はただ会話のみ。
それが、それこそが、直接には口に出せない『何か』を、
俺の適性で感じ取れという、この男からのメッセージ。
「さっき、妹さんにあなたの言葉が届かなかったと、そう言いましたね?」
「ああ、俺が行った時、紫はもう俺の事も分からなくなっていた。
会うなり本気で俺を殺そうとしたよ。以前はあんなに慕ってくれていたのに。」
男の表情は変わらない。しかし、その言葉から、深い悲しみが伝わってくる。
「Sが俺との縁談を断ったのを知った時、紫は『自分を妻に』と言った。
計画のためでなく、俺を男として愛してくれていたと知って驚いたが、
やはり嬉しかった。」
現代の倫理や法律には反するが、
一族の中で、兄妹・姉弟の結婚、それ自体は禁忌ではない。
実際そういう組み合わせの夫婦を知っている。
しかし今、何故、俺にその話を?
「だが、俺は憶えていない。
気が付いたら紫は床に倒レていて、既に死んでいた。
俺は、どうやって紫を殺したのか?
あんなに慕ってくレた妹を殺したのに、俺は、憶エていナイんだ。」
時折、男の声の調子が外れる。
それはまるで、錆びたドアがきしむ音のように聞こえた。
錆びたドアの向こう。微かな、しかし途轍もなくおぞましい、気配。
それは、いつか呪物のトランプを手にした時の感覚に似ていた。
ドアの向こうで目覚めた『何か』。
それは、僅かに開いたドアの隙間から、俺の様子を探っている。
マズい。これは、俺の手に負える事態ではない。しかし、もう、止められない。
この男は、俺の適性に期待して『最初に』俺を呼んだ。
もし他の術者を、例えばSさんを先に呼んだら、
更に悪い事態になると分かっていたから。
だとすれば、この男が俺に伝えたい事、それは。
念の為にもう一言、あと1つヒントがあれば確信出来る。
「妹さんの術で記憶が飛んだのではありませんか?
『不幸の輪廻』から流れ込む力で妹さんの術が力を増していたとしたら。」
「もしそうなラ、死んでいタのは俺ノ方ダ。
そレに紫は、紫ハ業に呑マレてなド、イなカッタ。」
間違いない。この男が俺に伝えたい事、それを感知出来た。
「先程の失言を許して下さい。
やはりあなたは偉大な術者。そしておそらくは妹さんも。
必ず、皆に伝えます。あなたと妹さんは業に呑まれたのではなかった。
それは、今あなたの中に潜んでいる『何か』に関わっていたのだと。」
「そしてもし、この怖ろしい災厄を祓う事が出来たなら、その功績と栄光は、
命を賭けて『何か』の存在を知らせた、あなた方2人の魂と共にある、と。」
「アりがトう。こレデ、アトハ、オマえシだイ。マカセ、た...」
突然、リビングルームを冷気が満たした。
あっさりと心が挫けそうになる程の、圧倒的な気配。
笑い声や言葉こそ聞こえないが、『何か』は確かに俺と炎さんを嘲笑っていた。
『気付いたとしても、人間には為す術がない。せいぜい足掻け。』そんな風に。
『何か』は俺の反応を楽しむように、ゆっくりと、その姿を現そうとしている。
炎さんの体がぐったりと背もたれに沈み、のけぞった顔が天井を向いた。
体が大きく震え、口から赤黒い液体が溢れる。赤ワイン、そして血の臭い。
始まった。どうすれば良い?
炎さんの中に容易く入り込む程の力、俺の術など効く筈が無い。
Sさんや姫の術でさえも。でも今ならこの短剣で。
いや、『意識が無くても』と、炎さんは言った。あれは警告。
不用意に斬りかかれば『何か』は躊躇無く俺を殺す。そう、短剣の刃が届く前に。
時間を稼ごうにも、あの少女が狙われたら俺に為す術は無い。
考えろ。
今、姿を現そうとしている『何か』、その目的は?
この短剣? しかしこの短剣を俺以外が持てば...そうか。
あの夢は逆夢でなく、予知夢。俺がSさんに斬りつける場面が目に浮かぶ。
あの予知夢を成就させてはならない。絶対に、あんな場面を現実にはしない。
それなら、俺に出来る事、するべき事はただ1つ。
短剣をゆっくりと抜く。
『何か』の気配が大きく揺らぎ、リビングの中に冷たい風が吹いた。
そう何者も、この短剣を目の前にして平静ではいられない。
まして、俺の意図や術を感知するのは無理だろう。
昼間の空、太陽の光の下で、ちっぽけな星の光を見る事は出来ない。
抜き身の短剣をゆっくりとテーブルに置き、言葉を練る。
簡潔に、単純に。
炎さんの口から、白く濃い煙のようなものが立ち上った。
エクトプラズム...もう時間がない。
言葉に『力』を込め、血液に乗せて左手に送り込む。
目を閉じ、薬指で、しっかりと額に触れた。
『玉の緒(中)①』了
本日投稿予定は1回、任務完了。