表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第2章 2008~2009
72/279

1803 約束(下)

1803 『約束(下)』


港を出てアパートの駐車場へ。

何とかあの領域が消滅する前に脱出出来たようだ。

細心の注意を払って少女を俺の部屋に運ぶ。

数分後、少女は俺の部屋の布団で寝息を立てていた。


やはり少女の意識が戻らない。

鏃の破片を抜いたのがまずかったのか。しかし少女は。

その時、ケイタイが鳴った。


「何だか胸騒ぎがして電話したの。今、Lは翠とお風呂に入ってるから。

榊さんからの電話で、それらしい行方不明者の資料が見つかったって...

あなた、一体どうしたの? あの子に、何かあったのね?」


「誤解されることはないと思いますが、彼女は今、僕の部屋で寝てます。」


数秒間の沈黙。

さすがにSさんでも状況を掴めずにいるのだろう。

この急展開、無理もない。


「...寝てる、あなたの部屋で。一体どういう事?」

「あの子の頭に鏃の破片が食い込んでいました。

出血はその傷からで、傷の原因を思い出そうとするとひどく出血するから、

鏃を抜いて欲しいと言われました。それで短剣を。」


受話器の向こう、Sさんが息を呑む気配。

「本当に、あの短剣を、抜いたの?」

「はい。鏃に彼女が素手で触ると火傷するんです。

彼女の火傷がすぐに治るのは見ましたが、僕ではそんな風に治らないだろうし、

素手で抜けないならあの短剣を使うしか無いと、そう思って。」


「本当に、只事じゃなさそうね。鏃の破片を抜いた後、短剣は鞘に収まった?」

「はい。でも、あの子が意識を失ったままなので、急いで連れ出したんです。」

「連れ出した、って...何処から?釣りをする港からって事?」

「あ、それを最初に説明するべきでした。多分、あの幻の川での釣りと同じです。

彼女は特別な領域の中にいて、其処に踏み込んでいたのは僕の方でした。」


「あの子は幽霊じゃなく、神隠しにあった人間だったのね。

それなら榊さんが見つけた資料が行方不明者の...

R君、あの子、他に何か言ってなかった?

なぜ自分が此処にいるのか、なぜ頭に矢を受けたのか、そんなこと。

何でも良いから。」


「矢の事は分かりません。でも『何のために釣りをするのか』と聞いたら、

『待ってる』って言ってました。」

「何を待ってるのか聞いたら、出血が酷くなるのね?」 「そうです。」


「R君、落ち着いて良く聞いて。

あとで簡単な術も教えるからメモの用意もしてね。

彼女の傷口が完全に塞がったのを確認したらその術を使う。

それで彼女は多分目覚める。目覚めたらもう一度話を聞いて。

忘れていた記憶が戻ったかどうか。此処までは良い?」

「はい、メモの用意も出来ました。」


「うん、良い返事。答えがNoなら、そのまま寝かせて朝まで様子を見る。

答えがYesなら...」

「はい、答えがYesなら?」

「話の途中で何が起きても慌てる必要はない。絶対に悪い事は起きないから。

でも、只事じゃないと思ったら眼を伏せて、絶対に見ては駄目。絶対に。」


「見てはいけないって、一体何故ですか?」

「調べてみないとハッキリしないし、具体的に何が起こるかは言えないけど、

『人間が見てはいけないこと』が起こる可能性があるの。

だからお願い。私の言うとおりにして。ね、絶対に、見ては駄目よ。」


微かに、Sさんの声は震えていた。

でも、俺がSさんを信じるのに細かい説明など要らない。

あの子が只の人間ではない、それも俺自身が一番良く知っている。

『人間が見てはいけないこと』が起こるのなら、俺が感じた通りだという事。

「分かりました。只事でないと思ったら、絶対に見ません。約束します。」


受話器の向こうでSさんが小さく息を吐いた。


「じゃあ、術を教える。メモを取って。」

「はい、お願いします。」 説明を聞きながらメモを取った。

特別な代も、魔方陣も要らないシンプルな術、これなら俺にも使える。

「私もこの件を調べてみる。もうLと翠がお風呂から出るし、電話、切るわね。」

「はい、ありがとう御座いました。」


全速でシャワーを使い、カップラーメンをかき込む。

その一方で、少女の傷の様子を確かめる。かなり、忙しい。


少女の傷口は殆ど塞がって、出血も止まっていた。

しかし、あの時の、火傷に比べると治りが遅い。

傷口が完全に治ったのは、午後11時過ぎ。

傷のあった場所がやや赤みがかってはいるが、傷の痕跡は残っていない。

傷跡の髪の毛も綺麗に再生されていた。


これなら大丈夫。

傷の様子を確かめながら準備は済ませてある。大丈夫。今が、その時。


術を使って数分。少女は目を覚ました。

枕元に座る俺を暫く見詰めた後、ゆっくりと上体を起こす。

もちろん白い頬に血の跡はなく、唇の色にも生気が戻っている。


「お前のお陰で全部思い出した。礼を言う。」

微笑む少女に、俺は黙って頭を下げた。


「生まれた時から私は奇妙な質で、父母は相当に苦労したようだ。

小学校に入学しても友達一人作れない私を、父は時々釣りに連れて行ってくれた。

そしてあの日、私は、あの方に出逢ったのだ。」


少女が語る言葉は暖かく、しかし一抹の後悔を含んでいるように思えた。


「あの方と共に過ごす時間が愛しくて、父にせがんで度々釣りに出掛けた。

そして私が中学生になった年、私たちは約束をした。

16歳になったら、私はあの方の嫁になると。」


やはり、ただの神隠しでは無かった。

にわかには信じられないが、これは、現在進行形の異類婚説話。


「父は黙って許してくれた。母は少し泣いたが、やはり許してくれた。

『このまま人の世に住んでもお前は幸せにはなれないから』と。それなのに。」


少女は言葉を切って俯いた。

両手で握りしめた布団の端に、涙が染み込んでいく。


「差し支えなければ聞かせて下さい。一体何が有ったのか、を。」

少女は右手の中指で涙を拭ってから顔を上げた。


「あの方が私を迎えに来た時、言いつけを守らずに目を開けてしまった。

あの方の、本当の姿を見てはいけなかったのに。」

「もしも、それがあの鏃のせいだったなら、無理もないと思いますが。」

「どんな言い訳も意味が無い。私は言いつけを守れなかったのだから。

それから私にはあの港がただ1つの居場所になった。

重なり合う2つの世界の狭間、『何処でもない場所』が。」


「でも、私は今夜あなたを彼処から連れ出しました。これから、あなたは何を?」


少女は再び俯いた。小さな肩が震えている。

「詫びが、言いたい。 一言、あの方に。」


少女が呟いた途端、俺の部屋をその存在が満たした。

厳かな、何処か懐かしい気配。

正座をして頭を下げ、畳に手を着いた。硬く目を閉じる。

俺にも分かる。これは、決して『人が見ることを許されない』場面。


『詫びを言うべきなのは、私だ。お前の気持ちが嬉しくて、油断した。

だから、あの忌まわしい呪いの矢から、お前を、護れなかった。

しかし今日その傷が癒えたからには、お前の望みを叶えたい。

そのまま人の世に居たければ、一生の幸せを約束する。

父母始め、お前の縁の者に不自由はさせないし、もう、決して油断はしない。』


「人の世に、私の幸せは無い。何度も言った筈だ。」

『本当に、人の世に帰る気は無いのか?』

『無い。許されないならあの港に戻る。

許されるなら、約束通り、お前の嫁になる。』


少女の声の響きが変わっていた。

ただ一本の呪いの矢によって長く中断していた魂の変容。

それが俺の仮住まい、このアパートの一室で完成しようとしている。


『許すも何も、悪いのはあの矢。お前は何一つ悪くない。悪いとすれば、私だ。

私は、臆病だった。本当の姿を見られて、お前に嫌われるのが怖かった。

それで『目を閉じていてくれ』と。もしもその目を閉じていなかったなら、

お前があの矢を受けるなど、万に一つも有り得なかったのに。』


『矢を受けても、目を開けるべきではなかった。

だから、私が悪い。許してくれ。』

『私の本当の姿を見たのに、嫁に来てくれるのか?』

『何度も言わせるな。私は約束を守りたい。お前の下へ、行きたい。』


『R、大体の事情は分かったな?』

「はい。」 慌ててさらに頭を低くする。何故、俺の名を。


『此所で修行を始めて直ぐに、お前ならこの役目を任せられると思った。

そして、その働きは期待以上。ずっと、待っていた甲斐がある。』

そうか、今、俺の部屋を満たしている存在は俺が修行している神社の...


俺と同じ『言霊』の適性を持つ術者は久しくいなかったとSさんは言った。

なら、俺が今年此処に修行に来たのも、遠い『約束』の1つなんだろう。


「気付かぬ内に御役目を果たせていたなら、幸いです。」

『最後にもう1つ、お前に頼みたい役目がある。』

「私に出来る事でしたら、何なりと。」

『この娘を私の社まで連れて来てくれ。晴れて、嫁として迎えたい。』

「仰せの通りに。」

『頼む。』


その言葉を最後に、その存在は俺の部屋を去った。


『顔を上げてくれ。』 少女は俺の前に立っていた。

もう、パーカーとジーンズではない。

目が覚めるような純白の着物。儀式の時にSさんや姫が着る着物に似ている。


『悪いが、一刻も早くあの方の下へ行きたい。お社へ、連れて行ってくれ。』


少女の頬はほんのりと紅に染まっていた。

そして、あの鮮血と同じ色の紅をさした唇。本当に、何もかもが美しい。

嬉しそうに、穏やかに微笑む少女を見て、心からそう思った。


参道に続く階段の手前、狭い駐車場に車を停めた。

ゆっくりと助手席のドアを開けて、跪く。

今年、ある場所に桃花の方様をお送りした時、Sさんから習った作法。

今、俺に出来る最上の礼を尽くさねばならない。そう思った。


差し出された手を取って、車を降りる補助をする。


「ありがとう。」 鮮やかな笑顔。

少女が参道の方向に向かって歩き始めたのを確認して、振り向いた。


これは...

参道の入り口に篝火が焚かれ、参道の両側には五色の幟がたなびいている。


俺が毎朝通ってきた時の寂れた感じとは全く違う、厳かで華やかな雰囲気。

目が慣れてくると階段の上り口に白装束の人影が跪いているのが見えた。

上り口の両側に3人ずつ、計6人。巫女さんのようだ。巫女さんどころか、

普段の社務所には管理をしている年老いた男性が一人いるだけだというのに。


少し離れて、少女の後を歩く。俺の役目は未だ終わっていない。

階段の上り口の手前で、少女は立ち止まった。ゆっくりと振り返る。


『R。此処までで良い。色々と苦労をかけたな。』


少女の前でもう一度跪く。この任を解いて頂く時だ。

「いえ、私は何も。むしろ、このようなお役目を頂き、光栄でした。」

『一緒に釣りが出来て楽しかった。あのタチウオ、絶対に忘れない。

旅立つ前に良い思い出ができた。心から、感謝する。』

「はい...」


決して、自ら望んだ訳ではない。

なのに『神』に比肩する力を持って生まれ、

友だちの一人も作れぬまま、幼少期を過ごした。

そして、『あの御方』に出会い、人の世を去ると決めた。

わずか16才で、敬愛する父母と別れると。


俺も力を持って生まれ、それを危惧した母が力を封じてくれた。

そうでなければ、俺はもっと辛い経験をしていた。それは間違いない。

どれだけの思いに基づいて、少女は決断したのだろうか。

少女が辿ってきた険しい道程とその苦難を想うと、言葉が出ない。


無力だ。俺の力、そして『言霊』さえも。 ただ涙だけが溢れる。


頭を下げた俺の目の前で向きを変えた少女の足が、

不意にもう一度、向きを変えた。一体、何故?


『人間だった時の名を、憶えておいてくれないか。

縁有って、私が人の世に生まれた、その証に。』


「は...今何と?」 これは、一体?


少女の膝が曲がるのが見えた。

俺の耳にかかる温かな吐息、爽やかな芳香。


『 い ず み 』 『それは万物を育む、清らかな水の源。』


信じられぬ思いで、俺はその言葉を聞いていた。まさか、こんな事が。

「誓って、忘れません。」 やっとの思いで、言葉を絞り出す。

少女の足は向きを変えた。もう、立ち止まらない。

遙かな世界へ向かう、軽やかな足取り。



「何時までそうしてるの?」

聞き覚えのある声。振り向いた俺の直ぐ前にSさんが立っていた。


「Sさん、どうして?」

「どうしてって。あなたの電話で事情が分かったから、直ぐに飛んできたの。

必ずこうなると思ったから、先回りして神社の祭主と連絡を取った訳。

祭主は神隠しの件を憶えていたから話が早かったわ。

あ、駐車場の車、気付かなかった?まあ、あんな状況なら無理もないけど。」


「でも、彼女が別の選択をする可能性だって。」

Sさんは両手で俺の頬を挟んだ。温かい感触。

「私に2人も子供を産ませて、未だ女の気持ちが分からないの?

別の選択をするつもりなら、自分を『神隠し』にする必要なんか無いでしょ。

記憶もないのに、そして文字通り血を流しながら、一途に待ち続けた。

それは、こうなる事を彼女が心から望んでいたからだわ。」


「そして、あなたの適性なら成功すると信じたある御方が、

この御役目をあなたに任せた。

そうでなければ、これ程の御役目、とても人間が担えるものじゃない。

あなたには、いつも本当に驚かされる。

でも、とても誇らしい。御役目、御苦労様。」


事の重さに気が付いてから、

その重圧に負けまいと張り詰めていた気持ちの糸。

それが、Sさんの言葉をきいてプツリと切れた。


「Sさん。僕は。」 また、涙が溢れた。もう止められない。

跪いたままSさんの胸に顔を埋めて泣いた。

哀しいのではない、嬉しいのでもない。でも、涙が止まらなかった。


「全く、子供みたいね。誇りに思いこそすれ、泣く事じゃ、無い、でしょ。」

Sさんの涙声が、俺が経験した事の不思議さと、その重さを示している。

どれ位そうしていただろう。いつの間にか、辺りは明るくなっていた。


「もう、落ち着いたでしょ。さ、立って。それから、あの鏃を頂戴。」

「鏃?」 「そう、これは私の役目。ほら、上着の胸ポケットよ。」

言われるまま、上着の胸ポケットに触れた。

柔らかな感触、その中心の固い芯。


あの、鏃の破片を包んだタオルの包みだ。一体、何時の間に?

Sさんは俺のポケットから包みを取り、

無造作にそれを解いて、矢尻の破片を左掌に置いた。


「Sさん、それを素手で」

Sさんは右手の人差し指で俺の唇を押さえた。『黙って』の合図。


目を閉じて深く息を吸い、小声で何事か呟いた。

Sさんの集中力が高まっていく、チリチリという音が聞こえるようだ。

やがて、目を開けた。左掌の上、鏃の破片をボンヤリとした光が包んでいる。


これは。


次の瞬間、Sさんの左手が一本の矢を握っていた。

赤黒い鏃、真っ黒な軸と矢羽根。

「返れ・・・の矢は射手へ。」

Sさんが掌を開くと、呪われた矢は、まるで手品のように、消えた。


「はい、これでお終い。荷物まとめて、一緒に帰りましょ。」

「でも、修行が。まだ一週間以上残ってますよ。」

「これ程の御役目を果たしたのだから、既に祭主の印可は降りてる。

もう、修行は終了。それとも毎日毎日早朝から、

新婚さんのお社に、お邪魔するような真似をするつもり?」


いや、確かにそれはマズいだろうけれど、俺の借りたアパートは。

「え~っと、アパートの駐車場は一台だけしか。」

「ロー○スは、此処へ置いていくわ。」

成る程、そういう事か。一度2人で荷物をまとめて。


「後で取りに来るんですね?」

「いいえ。この社に納めるの。」 「へ? 車を?」

「そう、神様のお嫁さんを乗せてお送りしたのよ。

伝統的なデザインや材質とは違うけど、この車は立派な御神輿。

今後この車は社宝として祀られる。一般には公開されないけれど。」


「でも、Sさんはこのロー○ス、気に入ってたんじゃ?」

「あらゆる人外に、優れた術者が此処にいますと宣伝して歩くようなもの。

幾ら何でも目立ち過ぎる。今後、私達の仕事では使い物にならない。」


そうか、神社の駐車場、『本体』が近過ぎて今は見えないが、

おそらく光塵の数と明るさは。


「そう、それにね。」 Sさんは悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「この車、『上』が社宝として買い上げるから、私たちは損をしない。

それどころか同じ車何台か買ってお釣りが来るわ。

帰ったら直ぐに検討しなきゃね。」


『約束(下)』了

本日投稿予定は1回、任務完了。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ