1201 誓詞①
R04/6/29 追記
こちらにも「いいね」を頂きました。
随分前に投稿した作品ですが、評価を頂けると嬉しいです。
本当に、有り難う御座いました。
1201 『誓詞①』
「はい、最初からもう一度。
ちゃんと詠唱出来ないと私が困るのよ、ね。お願い、頑張って。」
『誓詞』の稽古を始めて約一週間。
通常の修行の前、30分程を稽古に充てていた。
詠唱の稽古は、文字を読むのではなくSさんからの口伝。
歌のような、詩吟のような、独特の声の調子と抑揚。
古い言葉なので、ほとんど意味が分からない。
大体、もとから歌は得意じゃない。
最初の内はかなり調子が外れていたと思う。Sさんが何度も吹き出す程だった。
「意味が分かれば、少しはましになるかも。文字も教えて下さい。」
「当主様は私たち一族の祭主。誓詞は当主様に奉る一種の祝詞なの。
心を込めて詠唱出来れば、あなたの心はちゃんと当主様に伝わる。
あなたの力を考えたら、むしろ意味が分からない方が良い結果が出ると思う。」
『言霊に期待する』という事か。
それなら、無心に詠唱出来るまで稽古するしかない。
さらに約一週間、誓詞の稽古を続け、何とか様になってきた、ある日。
姫を大学に送って戻ってくると、Sさんが玄関の前で俺を待っていた。
明るい笑顔。 きっと、何か良い知らせだ。
「さっき『上』から連絡が連絡が有ったわ。当主様にお目通り出来るって。
代理の方が対応して下さる事も多いのだけど、私たちは運が良い。」
...と、言う事は。
何としても、その日までに誓詞を仕上げなければならない。気合いが入る。
「それはいつ、ですか?」 「次の日曜日。」
今日は木曜、稽古の期間は残り3日。でも、やるしかない。
日曜日。Sさんと俺がお屋敷を出発したのは午後2時30分過ぎ。
当主様のお社とお住まいは県境に近い県道から、
脇の山道に入った先だと聞いていた。
指定された4時までには1時間半近くある。余裕を持って到着できる筈。
運転しながら、Sさんに教えられたお目通りの手順を頭の中で何度も確認する。
俺とSさんが待つ部屋の中に、
当主様と当主様の奥方である桃花の方様が御出になる。
Sさんと俺は起立し、最敬礼の姿勢で当主様が席にお着きになるのを待つ。
当主様が席にお着きになった所でSさんが俺を当主様に紹介し、俺は誓詞を奉る。
当主様から御裁許のお言葉を頂き、
お二方が御退出なされた後で、俺たちも退出。
「あの、当主様と桃花の方様で良いんですよね?御名前や号ではなく。」
「祭主である当主様は、いわば一族全員の親にあたる存在。
一族の、特定の家系や特定の個人と繋がりがあってはいけない。
建前としては、当主となった時点で元の名前や親子の絆は封印される。
だから当主様には御名前も号も無い。桃花の方様も同じ。」
「桃花の方様というのはお后様と同じような敬称と考えれば良いんですね?」
「桃花の方様のお社は当主様のお社の北東、鬼門にあたる方角に造営されるの。
つまり『妹の力』で鬼門を封じ、当主様をお護りするお方という意味。」
桃に魔除けの力があるという話は聞いたことがある。
確か『桃太郎』の桃もその系統の考え方から来ていたはずだし、
俺の実家の庭にも、鬼門にあたる方角には桃の木が植えてあった。
「あれが山道の入り口。そこから入って10分くらい。多分。」
山道を入ってすぐに門があり、俺は門扉を開いて車を進め、再び門扉を閉めた。
車を走らせると、そこが今までとは違う領域であると、俺にも分かった。
これが、『聖域』。
鬱蒼と茂った森の中。
ゆるやかに曲がりながら上っていく山道は、綺麗に舗装されている。
ただ一本の枯れ枝も、ただ一枚の枯れ葉も落ちてはいない。
途中で幾つかの分岐があるが、
Sさんに指示されるまでも無く、どちらが正しい道なのか分かる。
正しい道の先に、途轍もない『気配』がひっそりと蹲っているからだ。
それらは、当主様のお社とお住まいを護る式たちだろう。
おそらく、許可された者でなければこの道を最後まで辿ることは出来ない。
興味本位で入り込んだ者は道を逸れ、『聖域』を外れた森の深みに迷い込む。
悪意を持って入り込んだ者は、即、式たちに処理される。
道自体が、『聖域』に向かう人を選別する。そういう、道だ。
5分あまり車を走らせると、突き当たりは広場になっていた。
広場の奥の斜面に細い階段。
木々と空の感じで、山の頂に近い場所であると分かる。
「ここに車を停めて歩きましょ。」
車を出たSさんが不意に振り向いて、今辿ってきた山道の方向を見つめた。
遠い目。 鳥の声と風の音、さっきと変わった気配は感じられない。
「どうか、したんですか?」
「ううん、大した事じゃない。」 階段を上り始めた。
Sさんだって緊張しているのだろう。俺も階段に足をかけた。
これからが正念場。黙ったまま並んで階段を上る。階段の上には鳥居。
更にその先には、鬱蒼とした森の中を抜けていく石畳の長い参道。
Sさんが一礼して鳥居をくぐった。俺もSさんに倣って後を追う。
「見えた。」
参道の端は開けた平地になっていて、右側奥に大きな洋館がある。
洋館の左を抜ける細い道は階段に繋がっていて、
階段の上には立派なお社の屋根が見えた。
「あの洋館が当主様と桃花の方様のお住まい。お社はあの階段の上。
お目通りの場所は洋館の中。いよいよね。覚悟は良い?」
「はい。此処まで来て、もう後戻りは出来ません。」
「うん、良い返事。」 Sさんの後に付いて洋館の門をくぐる。
綺麗に手入れされた庭を抜けていく、小道。
小道を辿った先は大きな玄関。扉の脇に男性が立っている。
扉の前まで来ると、男性が一礼して扉を開いた。
Sさんが軽く会釈をして扉をくぐる。俺も後に続く。
玄関の中には少女が一人、俺達に頭を下げた。
「Sさま、Rさま、お待ちしておりました。どうぞ中へ、御案内致します。」
少女が顔を上げた。中学生か高校生くらい、どこかで見覚えのある、顔?
「ご苦労様。宜しくお願いしますね。」 Sさんの表情は柔らかい。
少女は会釈をして踵を返し、廊下を進む。俺達も後を追った。
軽い足音だけが響く。本当に、静かだ。
廊下の一方は一面ガラス張りの壁。ガラス越しに中庭の様子が見える。
やはり良く手入れされていて、木々の深い緑が美しい。
廊下の途中で階段を上り、上り切って右へ。少し細くなった廊下を進む。
3つ目の扉の前で少女が立ち止まった。一礼して扉を開く。
「当主様はもうすぐ御出になります。正面のソファでお待ち下さい。」
「ありがとう。」Sさんがドアをくぐり、俺も少女に一礼して部屋の中に入った。
思ったより小さな部屋。カーテンを背にした大きな机と椅子。
その正面にソファとテーブル。
俺達が入ってきたドアと反対側の壁にも、大きくて立派な扉。
Sさんがソファへ座る。 「あなたは其処へ。」
俺達はテーブルを挟んで座り、俺の右側の壁に大きな扉。
ノックの音がしてドアが開き、さっきの少女がお盆を持って入ってきた。
テーブルの上に背の高いグラスを2つ並べ、一礼して出て行く。
冷えて露の着いたグラス、透き透った氷と薄緑色の液体、緑茶だろうか。
「緊張して喉が渇いたでしょ?今の内に飲んでおいて。」
確かに、喉がカラカラだ。
誓詞の詠唱に支障がないよう、慎重に喉を湿らせる。
良い香りがするが、緊張していて味が良く分からない。
それからどのくらいの時間、1・2分、いや5分位か...
再びノックの音がした。ドアではない、壁の、大きな扉。
扉が開き、少女が扉を押さえたまま、扉の向こうに向かって最敬礼。
Sさんと俺も立ち上がり、大きな机に向かって最敬礼、そのままの姿勢を保つ。
何度も何度も、シミュレーションした手順の通り。
微かな足音と2つの気配が移動していく。
「2人とも、顔を上げなさい。」
女性の声。澄んだ、心地よい響き。俺たちは直立の姿勢で正面を見た。
座っている壮年の男性、俺たちから見て男性の右後方に立つ女性。
男性は、榊さんをさらにお人好しにしたような、悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
女性は、Sさんをもっと厳しくしたような、凛とした表情。とても綺麗な人。
これが当主様、そして桃花の方様。
確かに、伝わってくる気配で、どちらも凄い人だと分かる。
しかし、気圧されて声が出なくなる程怖い感じではない。
正直、ホッとした。
「S...随分と久し振りだ。突然の連絡で少々驚いたぞ。
前線から退いて子を成したと聞き、気に掛けていたが。幸せそうで、何よりだ。」
「はい、お陰様で良縁に恵まれ、
思いもかけず人並み以上の幸せを授かりました。」
? ちょっと待ってくれ。こんなやりとりがあるなんて聞いてない。
一体、誓詞のタイミングは?
思わずSさんを見る。Sさんは俺に微笑みかけ、
小さく頷いた後で当主様に向き直った。
「この度、我が夫Rのお目通りが叶いました事、光栄の至り。
つきましては、Rが誓詞を奉る事をお許し頂きますよう、お願い申し上げます。」
「宜しい。聞かせて貰おう。」
つまり、今が『その時』だ。もう、腹を括るしかない。
眼を閉じて深く息を吸う。一礼して、目を閉じた。
稽古してきた通り、一言一言、心を込めて誓詞を詠唱する。
詠唱が進むにつれて、雑念が消え、頭の中がクリアになっていく。
ふと、頭の中に、青い空を無数の白い鳥が飛ぶ情景が浮かんできた。
不思議な、感覚。
青い空と白い鳥を背景にして、Sさんとの出会い、姫との出会い、
そして翠が生まれた日の情景が次々と浮かんでくる。大切な人、俺の一番の宝物。
その宝物を守りたい、俺を一族の術者として認めて欲しい。
強い思いが、心の奥深くから湧き上がってくる。
そうか、誓詞とは、俺自身の想いと願いを当主様にお伝えする言葉なのだ。
詠唱を終えて一礼、目を開ける。
出来はどうか。俺の想いと願いは伝わっただろうか。
顔を上げると、桃花の方様が懐紙で目頭を押さえているのが見えた。
何故、と想った途端。張りのある声が、頭の中に直接響いた。
『これ程の『力』がこもった誓詞を聞いたのは初めてだ。
安心して、SとLを託すことが出来る。喜んで裁許しよう。』
当主様から感じる雰囲気が、一変していた。
その眼差しは一瞬で俺の全てを見通すような光に満ちている。
広大な海の、人間には決して手の届かない深淵を眼の前にしたような、
畏怖の念が湧き上がり、どうしようもなく体が震えた。
正直、怖いのに、眼を逸らすことが出来ない。
『R君。いや、裁許したのだから、Rと呼ばせて貰う。
R、良き資質を持つ青年が我が一族に加わった事を、心から嬉しく思う。
その資質を余す所無く開花させ、
近い将来、術者として働いてくれる事を期待する。』
Sさんと俺はもう一度深く頭を下げた。当主様が立ち上がる気配。
御退出なされた後で俺たちも退出、それで完了だ。
もう一度頭の中で手順を確認する。
「ところで、S。」 「はい。」
!? また、手順と違っている。慌てて当主様とSさんの様子を窺う。
当主様の声は、頭の中で無く、耳に聞こえる普通の声に戻っていた。
悪戯っぽい笑顔。
「成した子は、娘だと聞いた。私達に、会わせてはくれないのか?」
「夫を御裁許頂きました上、娘のお目通りも叶うなら、
これ以上の幸せは御座いません。」
「うん。出来るだけ早く、頼む。」
当主様は扉に向かって歩き出した。慌てて頭を下げる。
「S、きっとですよ。きっと、近い内に。」 「はい。必ず。」
桃花の方様とSさんの短い会話が聞こえた後、扉の閉まる音がした。
「首尾は上々、惚れ直しちゃった。」 「いや、でも聞いていた手順と。」
「何もかも手順通り。さ、すぐに退出するわよ。」
Sさんはドアを開けて廊下に出た。
急ぎ足で来た順路を逆に辿り、玄関に着く。先程の少女がドアを開けてくれた。
「ありがとう。」 Sさんがドアをくぐる。俺も一礼して後を追う。
「あの、聞きたい事が。」
「車に戻ってから答えてあげる。だから今は急いで、ね。」
庭を抜け、門を出て石畳の参道、2人並んで、黙ったまま急ぎ足で歩く。
Sさんはほとんど小走りに近い速さで俺の左側を進む。
一体何故、こんなに急いでいるのだろう?
もう御裁許は頂いたのだし、急ぐ理由など無い筈なのに。
ふと、蝉の声が聞こえたような気がした。 蝉?
?? まだ少し、蝉には早い季節。
急ぎ足で歩きながら、参道両側の森の様子を窺い、蝉のいそうな木を探す。
突然、Sさんの脚が止まった。 同時に囁くような声。
「『鍵』を。」
反射的に『鍵』をかけ、Sさんの視線を辿る。
...目の前に、男が立っていた。 一体、何処から?
真っ直ぐな参道は見通しが良く、死角になるような場所はない。
ついさっきまで、何処にも人影はなかった。
なのに今、俺たちから僅か2mほどの距離に、この男は立っている。
森の中から現れたとすれば、いや、下草や落ち葉を踏む音も聞こえなかった。
黒いスーツ、俺より背が高い。
微かな笑みを浮かべてSさんを見下ろしている。
一体これは人なのか。それとも...
「久し振りだな。S。」
「そうね。5年振り、かしら。」 Sさんの声は冷ややかだ。
「縁談を断り、前線から退いたと聞いて訝しんでいたが。」
男の眼が俺を捉えた。
『鍵』を掛けているのに、心の奥を見透かすような鋭い視線。
「成る程。原石を見つけた、という訳か。確かに、良い暇潰しになりそうだ。」
「類い希な原石には違いない。決して暇潰しではないけれど。」
数秒間の沈黙。辺りの空気が張り詰めて、肌がピリピリする。
「話したい事もあるが、今日は『公務』で時間が無い。
前線に戻ってきたのなら、急がずとも話す機会はあるだろう。」
「機会があったとしても、話したい事、私にはない。」
男の口元が緩む。
「相変わらずだな。安心した。」
ゆらり、と、男の体が流れるように動いて、Sさんの左側をすり抜ける。
Sさんは唇に右手の人差し指を当て、それから前方を指さした。
おそらく『黙って前へ』の合図。
Sさんがゆっくりと歩を進める。俺も歩調を合わせた。
俺たちと逆方向に歩く男との距離は遠ざかる、筈。
しかしどれだけ歩いても、濃密な気配が背後から離れない。
振り返って確かめたい気持ちを抑え、Sさんの歩調に合わせて歩き続けた。
『誓詞①』了
本日投稿予定は1回、任務完了。『誓詞』、投稿開始です。