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『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第2章 2008~2009
50/279

1104 卯の花腐し(下)

R4/06/20 追記

此方にも「いいね」を頂きました。

自分でも気に入ってる作品なので、とても嬉しいです。

本当に有り難う御座いました。

1104 『卯の花腐し(下)』


次の週の金曜日。

朝から久し振りの青空。窓から朝陽が差し込んでいる。


榊さんからの電話で、集合場所と時間を知らされたのは一昨日。

『容疑者宅最寄りの交番、6時30分集合。』


姫を大学に送って戻ってくると、Sさんは入れ違いに出掛けていった。

「下調べと準備があるの。昼ご飯までには戻るわ。」

「僕は一緒に行かなくて良いんですか?」

「適性を調べるには、予備知識は少ない方が好都合だから。翠を、お願い。」


帰ってきたSさんが少し疲れたような様子だったので心配したが、

昼食を食べて翠と昼寝をしたら、すっかり元気になっていた。


姫のお迎えからお屋敷に戻ったのは6時少し前。

Sさんは支度を調えて俺を待っていた。

俺も、姫を迎える前に出掛ける準備を済ませてある。

翠を姫に託して、すぐに車を出した。

待ち合わせの交番に着いたのが6時25分。

ドアの前で榊さんが待っていた。


「男が住んでるマンションは此処から歩いて3分くらい。

『シャトレ○崎』の205号室。車は此処に置いて、歩こう。」

「男は確かに、家にいるんですね?」

「6時前に帰ってきたのを部下が確認してる。

Sちゃんの指示通りに部下を配置したけど、本当に障りは無いのかい?」

「はい、特別な結界を張ってありますから、入る事は出来ても出られません。

本体も生霊も。だから大丈夫です。じゃ、行きましょう。」


マンションの管理人に話を通してあったのだろう。

榊さんがインターホンで二言三言話すと、オートロックのドアが開いた。

フロアの端の階段で2階へ上がる。階段を上って左、最初の部屋が205号室。

ドアから3m程の距離で、榊さんが胸ポケットから封筒を取り出した。

中身は多分、捜査令状。


「榊さん、護符は持ってますよね。」

「ああ、持ってるよ。部屋の中に入っちゃったら、

Sちゃんの護符だけが頼りだ。さて、いよいよだな。」

微かな金属音。 205号室のドアがひとりでに開いた。

中に人影は見えない。


「Sちゃん、あれは?」

「『入ってこい』という事ですね。私たちが来たのを、男は知ってます。

R君、あのドアをくぐったら、そこから先は完全に相手の領域。

何が見えても、何が起こっても不思議じゃない。

気をしっかり持って、良いわね。」

「了解です。」


ドアをくぐり、玄関で靴を脱いで中に入る。

ダイニングキッチン。その奥に灰色のドア、男はおそらくあの中だ。

と、突然玄関のドアが閉まり、ドアチェーンが掛かった。


「おっかねぇ。」 榊さんが呟いた。

その時、微かな耳鳴り。 くぐもったような雑音。いや、これは誰かの声だ。

キーンという耳鳴りに混じって聞こえる、途切れ途切れの呟くような声。


『・・・な○・ なぜ・・・だけ ・○み・・・』


「R君、どうしたの?」 「何か、小さな声が聞こえました。雑音みたいな。」


『どうした はいってこいよ かぎはかかってない』


嗄れた声が響く。ゆっくりとドアノブが回り、灰色のドアが開いた。

やはり、ドアの内側に人影はない。


「行きましょう。」

Sさんを遮って、榊さんが先にドアをくぐった。次にSさん、最後が俺。

部屋の中は薄暗く、パソコンのモニターを背にして、男が椅子に座っていた。

まるで居眠りをしているように俯いていて、顔は見えない。


『たてものに さいくをしたのはおまえたちだな けいさつ か』

声は男の頭上、天井近くから響いていた。

「そう、警察だ。令状もある。

女の子が殺された事件。被害者は3人、心当たりがあるよな?」


『それじゃあ かえすわけには いかない な』


部屋のドアが閉まる。 空気が変わった。

体感温度が一気に下がり、部屋の中に濃密な悪意が満ちていく。

Sさんの指示通り、『鍵』は掛けていない。

流れ込む悪意に意識が飲み込まれそうだ。

目眩がして、胃の中から苦いものが逆流してくる。


「しっかり、前を見て。」 耳許でSさんの声。

深く息を吸い、下腹に力を入れて真っ直ぐ前を見る。


男のすぐ前に、巨大なものが立っていた。

人に近い姿だが、『鬼』という他に表現しようのない異形。

頭は天井すれすれ、身長は2mを越えている。

裸身、肩まで伸びた蓬髪、黒く汚れた大きな顔。

血走った野球ボールほどの目玉が、俺たちを見つめていた。


そして...

榊さんの部下が錯乱したのも無理はない。


4本の長い腕が、3人の女の子をまとめて抱きかかえていた。

腕の間から女の子たちの腕や脚がはみ出して、力無く垂れ下がっている。

2人の顔は見えないが、1人の顔がこちらに向いていた。

苦痛に歪んだ顔。 見開かれた眼は白く、表情に変化は無い。


残り2本の腕が女の子たちの髪をすいたり頬を撫でたり、ゆっくりと動いている。

見上げるような巨体に6本の腕、まさに、『鬼』そのもの。

一体、これは現実か。 それともこの部屋を満たす悪意が見せている幻視か。

今、実際に俺たちは此処にいるのだから、

ドアが閉じたりチェーンが掛かったりしたのは現実だろう。

しかし、幾ら何でもこの異形の鬼...とても現実のものとは思えない。


「やっぱり、殺した女の子たちの魂を捕らえていたのね。

どうしても意識を辿れなかったけど、当然だわ。」


『このこたちは おれの ものだよ』


嗄れた声は以前より大きく、はっきりと聞こえた。


「違う。その女の子たちはお前のものじゃない。その子たちを離しなさい。」


『いや だ ことわる』


Sさんはポケットから小さな布袋を取り出した。

この鬼を人型に封じる事ができるのだろうか。それが出来れば男の本体も。

女の子の頬を撫でていた鬼の腕が一本、ゆらりと伸びて更に長く、太くなった。

座布団ほどもありそうな手が、壁際のゴルフバッグを鷲掴みにする。

ゴルフバッグは軽々と浮き上がり、俺の頭より高い位置で横になった。


ゴルフクラブがぶつかりあう、重い音。

マズい、もしこれが幻視ではないとしたら。

投げつけられても、叩きつけられても、絶対に無事では済まない。

Sさんをそっと抱き寄せる。どうにかして、庇う方法はないか。

何としても、この人だけは。


つっ!! 耳の奥が痛む。

また、耳鳴り。 雑音に混じる、途切れ途切れの、呟くような声。


『・・・な○み なぜおま・だけが な○み・・・』


この声。そうか、4人目の女の子はこの男の。思わず話しかけた。


「なあ、あんたに聞きたい事がある。

とても大切な質問なんだ。答えてくれないか?」


数秒の沈黙の後。ふっ、と鬼の腕が緩み、ゴルフバッグが床に降りてきた。

Sさんは驚いたような顔で俺を見つめている。


『なにを ききたい』

「あんたが大事に抱いている女の子たちの中に、あんたの娘もいるのかい?」

『なん だと』

「あんたが抱いている女の子たちの中に、

あんたの娘、『な○み』ちゃんもいるのかい?」


『な○み おれの むすめ...』


顔が見えている女の子。それは、おそらく先月の事件の被害者。


「その顔は知ってる。少なくともその子は『な○み』ちゃんじゃない。

残りの2人はどうだ?『な○み』ちゃんはいるかい?」


『な○み おれのむすめ いない もう いない』


「あんたと別れるだけでも『な○み』ちゃんは辛くて悲しかったろう。

それなのに、あんたの今の姿を見たら、

『な○み』ちゃんは余計に辛くて、悲しいんじゃないか?

大事な娘を亡くして、辛いのは分かる。凄く、良く分かるよ。

でも、だからってこんな事をするなんて。『な○み』ちゃんは。」


『...おお おれの な○み いない どこにも』

鬼は頭を抱えて床に膝をつき、床が揺れた。

体は一回り小さくなったように見える。

その両目から赤黒い液体が溢れ、首から胸へと伝った。血の、涙。


Sさんが白い布袋の中から人型を取り出して、右掌にそっと乗せた。

息を吹きかけると人型は鬼へ向かってひらひらと飛び、空中で燃え上がる。


...これは。


膝をついた鬼のすぐ前に、小さな女の子が立っていた。

鬼はぽかんと口を開けて目の前の女の子を見つめている。

腰まで伸びた長い髪。黄色のワンピース、白い靴。悲しそうな後ろ姿。


『お父さん、どうして? どうしてこんな酷い事するの?』


俺はSさんの口元を見た。一文字に結んだまま。

ということは、『声色』ではない。


『な○み それ は おとうさん が』

『お父さんが大好きだったのに。お父さんの馬鹿! 私は、ずっと...』


俯いた女の子の肩が、小さく震えている。 透明な雫が靴と床を濡らした。


『お願い。もうこんな事止めて。

その女の子たちを離して、ちゃんと謝って。でないと、私。』


女の子は耐えかねたように両手で顔を覆った。静かな部屋に響く、嗚咽。


どの位時間が経ったのか、鬼の腕がゆっくりと動き出した。

2本の腕で女の子の体をそっと床に横たえる。

1人、もう1人、そして最後の1人。

6本の手で、仰向けの女の子の髪と服を整え、開いていた眼を閉じていった。


『おまえが 死んだとき、お父さんは。なぜお前だけがと、そう思って。

お父さんは馬鹿だった。本当に、馬鹿だった。』


鬼の体は次第に小さく萎み、その姿も人に近づいていく。


『他の親子を妬んだ。妬んで、憎んで。あんな酷い事を。』

鬼の腕は2本になっている。その2本の腕も、力なく床についた。


『俺はこうして、な○みに会えたのに。

あの子たちは、あの子たちの家族は...』


床に突っ伏しているのは、もう鬼の姿をした異形ではない。

椅子に座って俯いている男と同じ服を着た、痩せた長髪の男。


Sさんが右手に3枚の人型を掲げ、何事か小声で呟いた。

横たわる女の子たちの顔から苦悶の表情が消え、その姿は見る間に薄れていく。

黄色いワンピースの女の子が振り向いた。涙に濡れた、大きな眼。

女の子はSさんに向かって頭を下げた。Sさんは目を閉じ、胸の前で印を結ぶ。


不意に、部屋の空気が軽くなった

この部屋を閉ざしていた力が緩み、

部屋に満ちていた悪意と憎しみが拡散していく。

黄色いワンピースの女の子と、床に突っ伏した男の姿も消えた。


「あなた達は警察だと、そう言ったな?」

椅子に座って俯いていた男が、顔を上げて俺たちを見ている。


「俺は、3人の女の子を殺した殺人犯だ。逮捕して、くれ。」

言い終わると、男の体は床に崩れ落ちた。

榊さんが男に駆け寄り、膝をついてその体を抱き起こす。


「おい、どうした。大丈夫か?」

「今は意識を失ってるだけです。でも、その男の体はもう...」

Sさんの、暗い表情。当然だ、幾ら何でも、こんな。


榊さんは、軽々と右肩に男の体を担いで立ち上がり、左手で電話をかけた。

「もしもし。おう、もうほとんど解決だ。容疑者は確保した。

意識がないからマンションの裏口に車を回してくれ。そこまで俺が運ぶ。」


歩きながら、榊さんが独り言のように呟いた。


「こいつ、軽いな。この男が娘を事故で亡くしたのは2年前。

子を失った親の気持ちは骨身に染みてたはずなのに、

何故あんな事を。全くやりきれん。」


Sさんが小さく溜息をついた。


「娘を亡くした事を受け入れられず、悲しむ事も出来なかったから。

泣いて、叫んで、ちゃんと悲しむべきだったのに。

それが出来ていたら、2人の間に『通い路』が開いた筈。」


「この男なら、通い路を通して娘の魂とその声を感知できたかも知れません。

でも、この男は悲しむ代わりに他人を妬み、そして憎んでしまったんです。

『自分たちはこんなに不幸なのに、何故他人は幸福なのか?』それで。」

「それで他人にも同じ不幸を、と?」 「そうです。」


榊さんの溜息は大きく、深かった。


「この世に鬼を生み出すのは、やっぱり人の心、なんだな。」

「人の心ではなく、人の心に宿る『業』ですね。」

裏口の外に背の高い男が数人、立っているのが見える。榊さんがドアを開けた。

「この男だ。頼む。」


「Sちゃん。ありがとう。」

榊さんは振り向いてSさんの手を握り、次に俺の手を握った。

「R君も、ありがとう。何かあったら、また宜しく頼むよ。」

榊さんは俺の背中をぽんと1つ叩いてドアをくぐり、

インターホンで少しだけ話してから、早足で車に向かった。


俺たちは正面入り口に戻り、マンションを出た。

交番の中の警官に会釈をして車に乗り込む。警官は少し驚いた顔をした。

俺たちと榊さんが此処を出てからまだ30分も経ってないのだから、

驚くのも無理はない。


「お巡りさん、こんなに早く捜索が終わるなんて思わなかったでしょうね。」


「もしあの男が罪を認めたら、なるべく早く調書を取った方が良いって、

榊さんに話してあったの。多分あの男の体はあまり長く保たないから。

本格的な家宅捜索は、きっと来週以降になると思う。」


写真に写った不吉な影、ドアや鍵の開閉、なによりあの鬼の出現。

一体どれほどのエネルギーを要しただろう。

生身の人間には、あまりに大きな負荷と消耗。

『修行を重ねた術者ですら、限度を超えて消耗すれば回復出来なくなる。』

つまり死ぬ事があると聞いていたのに。まして普通の人間では。


この事件の裁判は開かれない、何となくそんな気がした。


「それにしても早く済んだわね。まだ7時ちょっと過ぎ、あなたのお陰。」

「僕のって、どういう意味ですか?」

「文字通りよ。この件はあなたが解決したようなものだわ。

だから榊さんはあなたに『また宜しく』と言ったの。

少なくとも榊さんには、一人前の術者として認められたって事ね。」


「でも、僕はただ、話しかけただけで。」


「それがあなたの力。やっと分かった。

あなたの適性は『言の葉』、あなたは『言祝ぐ者』。

記録には残っているけれど、現在の術者に、この適性を備える者はいない。

あれ程強力な言霊、実際に見るのは初めてだったから本当に驚いた。」


言霊?

これまで色々な術を見せて貰ったけど、言霊を使う術なんて聞いた事もない。


「言霊が、僕の力と何か関係あるんですか?」

「あなたが無心に、そして心の底から発する言葉には言霊が宿る。

だからその言葉は相手の心に届いて、その奥底に染み込む。

普通、妬みや憎しみで凝り固まった人の心は、

幾重にも『鍵』をかけた状態になってしまうの。

だから他人の話なんて聞かないし、聞こうともしない。」


「だから、あの男に娘の心の声は届かなかったし、

自分のすぐ傍に居た娘の魂にさえ、気付く事が出来なかった。

でも、あなたの言葉はあの男の心に届いた、ただの一度で。

そして、その罪とその重さを悟らせた。私は解放された女の子たちの魂が、

不幸の輪廻に取り込まれないようにしただけ。」


「言霊の力って、Lさんの『あの声』と同じようなものですか?」


「どちらも術者の声を触媒に使う、それは同じだけど『系統』が違うの。

Lの術は、L自身の意志で相手の心や体を操作出来る。

だから幻覚を見せるのも簡単。

でも言霊は、あなたの意志で操作する事は出来ない。

言霊は言葉の真の意味を相手に届けるだけ、どう反応するかは相手次第。」


「僕の意志で操作出来ないなら、役には立たないような気もしますが。」


「何を罰当たりな事言ってるの。さっきだって、あなたの力がなかったら、

2人の魂は救えなかったかも知れないのよ。

事故で亡くなったあの子の魂は、父親への愛着からこの世界に留まっていた。

親子だから、きっと霊質も似ていたのね。

でも、妬みと憎しみに狂った父親の心に、あの子の声は届かない。」


「父親が次々に女の子を殺して、異形に変化していく様を、

あの子はただ見ているしかなかったのよ。

今朝私が此処に来た時、あの子はマンションの入り口に佇んでた。

魂が酷く傷ついて、いつ不幸の輪廻に取り込まれてもおかしくない状態。

愛する父親が女の子を殺す場面を3度も見たんだから、

当然と言えば当然だけど。」


「もしかして、あの写真はあの子の?」

「そう。あの子の力を借りて、その記憶を写真に焼き付けた。

一番新しい、鮮明な記憶を。」


他人の、しかも死んだ人の記憶を念写?

本当にそんな事が可能なのか。でも、実際に俺はこの眼でそれを。


「あの男は、キャンプ場の駐車場に女の子を連れて行って、

車の中で絞殺したの。それから何食わぬ顔で、

『それらしい女の子が一人で河遊びをしてたのを見た』と証言した。」


「女の子を探していた人達はその証言に惑わされて、河の事故だと思った。

だから、駐車場やそこに駐まってる車は盲点になったんですね?」


「そう。あの男が遺体を埋めたのは夕方7時頃。

地元警察からの通報を受けて、榊さんが現場に到着したのは8時過ぎ。

だから文字通り、『タッチの差』。

あの男の悪運が無ければ、とうにチーム榊はあの男を逮捕してた。

私たちが関わる必要も無かったんだけど、ね。」


暗い微笑。 それは自虐?それとも諦念?

でも1つだけ、ハッキリ分かった事がある。

術者の介在無くこの事件が解決する事を、Sさんは望んでいたのだ。


自らが術者で有る事を、Sさんがどれだけ誇りに思っているか。

どれだけその力を自負しているか。俺はそれを、痛切に知っている。

なのに何故、術者の存在意義を自ら否定するような...いや、違う。

この哀しい両面性こそが、Sさんが、そして姫が『本物』である証左。


集中しろ。この人の言葉の1つたりとも、聞き漏らさないように。


「あの子は父親が犯した罪の一部始終を見ていた。

だから父親がこれ以上罪を重ねるのを止めるために、私に力を貸してくれた。

それはあの子の、父親への愛着のあり方が変化したのを示す良い兆候。」


そうか。

だからSさんはあの子の魂を人型に封じて、あの部屋へ連れて来た。

異形に変化した父親に直接会わせて未練を断ち切り、

中有への道を開いてあげるために。


「出来れば手荒な事はせず、自ら納得して旅立ってもらう方が良い。

そして男にも、自分の罪を認めてから地獄へ...」

Sさんは言葉を切って、小さく息を吐いた。


「あなたの言葉が切っ掛けになって、男は微かな正気を取り戻した。

だからこそ娘の姿を見、その声を聞く事が出来たの。

結果的に男は自分の罪を認めたし、女の子も自分の気持ちに区切りをつけた。

私も男を説得しようと思ってたけど、あれ程上手くやれる自信は無かった。」


Sさんは右手を俺の左手に添えた。


「それからね。これでやっと分かった。

術を仕込まれていたせいで異性に全く反応しなかったLが、

あなたにだけ反応した理由。」


そうか、そういえば確かに...


姫との初対面の日。


俺は自転車を修理しながら、

何となく気まずい『間』を埋めようと、好き勝手に喋り続けた。

俺の自転車の事。とても気持ち良い、5月頃のサイクリングの事。

それから修理した自転車が、姫には乗りにくいのではないかという事も。


あの時、無心に喋り続けていた言葉に、言霊が宿っていたのだろうか。


「そして、あなたの『下心もあります』という言葉が、

少しも不愉快でなく、率直な愛情表現として、私の心に響いた理由も。

あなたの力はほとんど発現していなかったから感知できなかったけれど、

あの言葉にも、きっと微かな言霊が宿っていたんだわ。」


もしかしたら俺は言霊の力で2人を...

腹の底がヒヤリと冷たくなるのを感じた。


「そのせいでLさんも、Sさんも、僕の事を」

「違う。さっきも言ったでしょ。言霊は言葉の真の意味を相手に伝えるだけ。

どう反応するかは聞いた人が決めること。Lも、私も、自分で決めたのよ。」

「でも、もしこの力がなかったら、2人は僕の事を好きには、痛。」


思い切り左頬をつねられた。


「少し余計に時間は掛かったかも知れないけど、

それでも絶対好きになったわ。絶対にね。」

Sさんの、自信に満ちた言葉を聞くと暖かい気持ちになる。

これも、言霊だろうか。


「さて、あなたの適性も分かったし、

正式に『裁許』を受けなきゃね。早速、手配するわ。」

「あの、『裁許』って?」


「当主様か、代理の方にお目通りして、

正式に一族の術者として修行を続ける許可を頂くの。

明日からその時のための『誓詞』を練習してもらうわよ。」

Sさんの笑顔はとても満足そうだった。


『卯の花腐し(下)』了

本日投稿予定は1回、任務完了。『卯の花腐し』は明日で完結です。

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