1101 卯の花腐し(上)
R04/6/29 追記
こちらにも「いいね」を頂きました。
とても気に入っている作品なので、評価を頂けると嬉しいです。
本当に、有り難う御座いました。
1101 『卯の花腐し(上)』
今日も朝から雨。
梅雨の走りの雨がずっと降り続いている。季節柄、雨が多いのは仕方無い。
しかし、ここまで雨の日が続くと、さすがにテンションも下がり気味。
Sさんに頼まれた買い物を終え、お屋敷へ帰る途中。
もうすぐ市街地を抜けるが、土曜日とはいえ夕方、車の流れは渋い。
列を成すテールランプが明るさを増していた。
赤信号でロー○スを止めた車道と交差する横断歩道。
雨音に混じって、歩行者信号が青になった事を知らせる電子音。
その時、何か白いものがロー○スの助手席側を通った。
ああ、この子犬は以前も。
キョロキョロしながら、車道の端を危なげな足取りで進んで行く。
半年程前からこの交差点の近くでよく見かけるようになった。
首輪が付いているし、ころころ太って毛並みも良いから飼い犬だろうが、
あれじゃ何時事故に遭っても仕方がない。何故ちゃんと繋いでおかないのか。
その子犬を見かける度、俺は飼い主に対する軽い憤りを感じていた。
前方の信号が青になった。少しして車の列が流れ始める。
「あ!」
車道から横断歩道に入り込んだ子犬に向かって、RV車が左折していく。
巻き込まれる。あのタイミングでは到底助からない。
『轢かれた?...』 交差点を直進しながら横断歩道を確認した。
子犬の轢死体を見るのは胸が痛むが、確認せずにはいられない。
!? RV車の通り過ぎた横断歩道に子犬が立っていた。
すぐに俺の後ろの車が左折する。
しかしその後も、横断歩道に立つ子犬の姿がバックミラーに映っていた。
一体、何故?
そういえばあのRV車も、俺の後ろの車も、ほとんど減速しなかった。
まるで子犬など全く見えていないように。いや、それよりも。
あの子犬は、半年前から全く成長してない。
そして、この雨の中、その毛並みは全く水を含んでいなかった。
何故気が付かなかったんだろう?
『幽霊?子犬の...』
Sさんについて本格的な修行を始めてから、
以前は見えなかったものが少しずつ見えるようになっていた。
『本当に幽霊がいるならそこら中が幽霊だらけ』
そういう意見は昔からあるし、確かにもっともな意見だろう。
実際、普段の生活の中で幽霊を見かける事は殆どない。
まして犬の幽霊なんて、今まで一度も見た事が無かった。
あれは本当に犬の幽霊だったのか? 動物の幽霊なんて存在するのか?
動物の幽霊が存在するなら、それこそ、そこら中が幽霊だらけじゃないのか?
自分の眼で見たものが半ば信じられないまま、お屋敷に向かって車を走らせた。
「あの、話は変わるんですけど。」 「何?」
夕食後のリビング。Sさんと他愛ない話をしながらハイボールを飲んでいた。
姫は既に翠を抱いて自分の部屋に戻っている。2人とも、もう寝た頃だ。
Sさんは何か考える事があるのか、今夜は特に姫を追いかけたりはしなかった。
「動物の、例えば犬の幽霊って、いるんですか?」
「いることはいるわね。数はとても少ないけれど。」
Sさんはハイボールを一口飲んだ。
「動物は幽霊になりにくい、とか?」
「説明が難しいけど、幽霊になるのは、
『人間の心との関わり』があった動物だけみたいね。
そしてそれが『良い関わり』なのか『悪い関わり』なのかで、
幽霊の性質は全然違ったものになる。
良い関わりなら御利益をもたらし、悪い関わりなら祟りをなす。
ま、それも程度の問題だし、あくまで一般論だけど。」
「普通の、野生の動物は幽霊にはならないって事ですね。」
「そう。それにしたって、少な過ぎると思わない?」 Sさんの眼が輝いた。
「普段の生活では、動物の幽霊だけじゃなく、人の幽霊もほとんど見かけない。
何故そこら中が幽霊だらけじゃないのかしら?」
Sさんがこんな顔をするのは、俺に教えたい事が有る時だ。必死で考える。
「ええと、例えば相当な恨みをもって死んだ人じゃないと幽霊には。
でも、それだとやっぱり幽霊の数が。」
「そう、恨みを抱いて死んだ人が幽霊になるという訳じゃない。もしそうなら、
戦場の跡なんてそれこそ幽霊だらけでもおかしく無いのに、そんな事もない。
逆に、思い残す事など無い筈の人が幽霊になって現れた話も、普通にある。」
恨みでも、思いの強さでもないとしたら。
「幽霊になりやすい人と、なりにくい人がいるってのはどうでしょう?」
「素敵、今夜も冴えてるわね。ほとんど正解。」
Sさんは俺の頭を軽く撫でてから、ハイボールをまた一口飲んだ。
「もう数百年も前の先祖の時代から、私たちは魂の性質を『霊質』と呼んでる。
人によって体質が少しずつ違うように、人によって霊質も少しずつ違う。」
「そしてごく稀に、幽霊になりやすい霊質の人がいる。
そういう人の魂は肉体との結びつきが少し弱いの。
だから場合によっては肉体が生きている内から、
何かの切掛で、魂が肉体を離れて活動する事がある。いわゆる生霊ね。
おそらく『飛頭蛮』や『ろくろ首』も、生霊から派生したイメージだわ。」
「生きている人の霊質を見分ける事は出来るんですか?」
「霊質の違いは微弱な信号として肉体に現れる。それが『気紋』。」
『気紋』、聞いた事のある言葉だ。
胸の奥が痛む。あれは何時、何処で聞いたのだったか。
「高位の術者や生まれつきの資質を持っている人なら、
気紋を感知して識別できる。」
Sさんは俺の眼を見つめて微笑んだ。
「例えば、あなた。」
思い出した。
確かに『あの人』は、俺が『気紋』を識別できると、それを不思議だと言った。
「お母様が封じた感覚の代わりに、気紋を感知する感覚が鋭くなったのね。
視覚を失うと聴覚や触覚が鋭くなるように。
だからあなたは無意識に気紋を感知して識別してる。
私の、『百合の花に似た香り』みたいに。」
「百合の花って!それは。」
会話の途中でSさんが俺の心を読んで先回りするのには慣れっこだが、
これには心底驚いた。
その香りについて、今までただの一度も、話題にしたことはなかった。
それなのに。
「抱きしめてくれる時、あなたの心に真っ白な百合の花のイメージが浮かぶ。
その後で、ラベルに百合の花がデザインされた化粧品や香水のイメージ。
でも、私は普段化粧をしないし香水も使わない。」
「じゃあ、あの香りは?」
「感知した気紋を無意識に五感の嗅覚に置き換えて識別してるって事。
女性の気紋を花に例えて分類するのはとても古くからある手法だし、
真っ白な百合の花に例えられるのは、女として悪い気分じゃない。」
以前、俺は、姫のイメージが昼咲月見草に似てるとメールした事がある。
もしかしてあれも。
「それで、今夜、犬の幽霊の話を持ち出したんだから、
あなたにも見えるのね。○町南交差点辺りの、あの白い子犬。」
!! 心臓が止まるかと思った。
「驚きました、図星です。何故分かったんですか?」
心なしか、Sさんの表情が曇ったように見えた。
「あの子があの辺りに現れるようになったのは去年の9月頃。
今、私たちの行動範囲に現れる犬の幽霊はあの子だけだからすぐに分かった。」
それならSさんは、俺より3ヶ月程早く気付いていた訳だ。
「可哀相だから何とかしようと思ったけど、駄目だった。
あの子は一生懸命探してる。
自分を置いたまま帰ってこなかった小さな女の子を。
あの子は普通の人にはまず見えないし、
手荒な事をするのは余計可哀相だからそのままにしてるの。」
「『小さな女の子』って、あの子犬の飼い主、ですか?」
「それは分からない。あの子の記憶の断片に女の子の姿が見えただけ。
夕暮れ時、迷って不安だった自分を抱き上げてくれた事。
それがすごく嬉しかった事。
でも、女の子は男の人に手を引かれてどこかへ行ってしまった。」
「女の子のお父さんが迎えに来たんでしょうか?」
「それも分からない。ただ、あの子は一生懸命女の子を探して...」
Sさんは言葉を切って、小さく息を吐いた。
「あの交差点で事故に遭ったんですね。それで。」
「そう、だからいつも大体同じ時間、夕方に現れて繰り返してる。
女の子に出会った場所からあの交差点までを。
女の子にもう一度会いたい一心で。」
「何時か女の子に会えたらあの子犬も?」
「本当に、そうなれば一番良いんだけど。」
Sさんはハイボールの残りを飲み干して、小さく伸びをした。
「さて、眠くなってきたから私の話も聞いてね。」 「勿論です。」
「明日、依頼人に会いに行くんだけど、一緒に来て欲しいの。」
「新しい依頼があったんですね。僕で良いんですか?Lさんじゃなくて?」
「今、あなたの仕事はお社の管理だけ。
でも修行の進み具合によっては、別の仕事の依頼も来ると思う。」
「...僕への、術者としての仕事って事ですか?」
「そう。実を言うと、もう何十年も前から術者の数が足りなくて、
一族は慢性的な人手不足なの。だから『その時』のために、
あなたの適性を調べておきたい。そうしないと、私、心配で。」
Sさんは右手でそっと俺の左頬に触れた。
「適性に合わない仕事を受けるのは、特に初めの内は、本当に危険だから。」
もし仕事の依頼が来れば、名実ともに一族の一員と認められた事になる。
ならこれは俺にとって、チャンスと考えても良い筈だ。
勿論、不安もある。
でも、Sさんが適性を調べたいのは、俺に期待してくれているから。
ぴいん、と、気が引き締まるのを感じる。下腹に力を入れた。
「わかりました。一緒に連れて行って下さい。」
「うん、良い返事。じゃ、明日に備えてもう寝ましょ。」
『卯の花腐し(上)』了
『卯の花腐し』投稿開始。
本日投稿予定は1回、任務完了。




