1005 光と影(結)
R4/06/15 追記
こちらにも「いいね」を頂きました。随分前に投稿した作品ですが、
順番に、大切に、読んで下さっている方がおられるのかと嬉しくなります。
本当に有り難う御座いました。
1005 『光と影(結)』
「寝坊助さん、起きて下さい。」
誰かが俺の体に覆い被さっている。
体全体で感じる体温、右の瞼と頬にキスの感触。
眼を開けると、姫が俺の顔を覗き込んでいた。
湯上がりの湿った温もり、石けんの残り香。
姫の腰に右腕を廻し、体を入れ替える。
「こんな起こし方して...
その気になっちゃいましたから、もう逃げられませんよ?」
「夜明けまで、まだ時間があります。約束、守って下さいね。」
アラームが鳴った。 7時、か。
そうだ、天気が...朝食を食べて、10時頃までには出発の準備。
でも、今はまだ、姫を抱きしめたままでいたい、
このまま、初めて2人の体を重ねた余韻に浸っていたかった。
しかし、俺の思惑とは関係なく、姫は眼を開けた。
「シャワーを使ってきます。直ぐに、戻って来ますから。」
『大丈夫』と姫は言ったが、やはり痛みはあったようだし、出血もあった。
体を洗いたいのも無理は、あ...
自分の顔から音を立てて血の気が引くのが分かる。何て、事だ。
避妊を、していなかった。
忘れていた?そんなはずはない。俺はどうかしていたのか?
以前、Sさんに、あれ程強く注意されていたと言うのに。
俺の腕の中で、姫が小さく笑った。
「大丈夫ですよ。」 「え?」
「私、生理が始まってからずっと、毎日体温を計ってて。
それで、Sさんが旅行の間は避妊しなくても大丈夫って教えてくれたんです。」
思い出した。あの日、確かにSさんは言った。『旅行の時期は変えられない』と。
そして薬指を舐めて俺の額に...あの時、俺の意識を。
だから姫は、『約束して』、『この旅行の間に』と言ったのだ。
「相談、してたんですね?僕より先に。」
「知りません、私。」 姫は優しく微笑んだ。
ふわり、と、俺の腕をすり抜けて立ち上がる。
体の力が抜け、呆然と姫を見送る。
やがて笑いがこみ上げてきた。我慢できずに、声を上げて笑った。
見事に、完全に騙されていた。それが何故か、とても心地良い。
旅館を出て車を走らせてから1時間程が過ぎ、
県境に向かう山道に差し掛かっていた。
「質問があるんです。黛弓さんと亨君の事で。」
「私に答えられる事なら、何でも。」
「『両親と黛弓さん、どちらが正しいかを決めるのは自分の役目ではない』
昨夜、Lさんはそう言いましたよね?」
「はい。」 「でも、どちらかを正しいと信じて術を使った。」
「そう、ですね。」 「Lさんが信じたのは、どちらなのかと思って。」
「あのお米から読み取った黛弓さんの記憶の断片と、
両親の話には大きな食い違いがありました。所々正反対と言っても良い位に。
でも、より、信用できると思ったのは黛弓さんの方です。」
「何故ですか?」
「体を捨てると決めた時、彼女の気持ちには一瞬の迷いも、
一欠片の邪気もありませんでした。
だから彼女が亨君を思う気持ちは、純粋だったと思います。
代の光の色、見えましたか?」
「はい。淡い、金色の光でした。」
「あの代を使う時、母性は金色に、父性は銀色に見えます。
黛弓さんは母親として、亨君を愛していたんでしょう。
自分自身で産む事は出来なかったけれど、
彼女が体を捨ててくれたから、亨君の心はもう一度生まれる事が出来ました。
だからもう、黛弓さんは亨君のお母さん、亨君は黛弓さんの子供です。」
慌てて脇道の入り口に車を停めた。
不意に溢れてきた涙で、運転どころではない。
「それから、亨君がナイフを持った時、見えてしまったんです。
壊れかけた心の中に残っていたわずかな記憶。その中で言い争う両親の姿。
父親は『黛弓に嫉妬して俺を誘ったくせに』と、
そして母親は『最初から財産目当てで婿養子の座を狙ってたんでしょ』と。
亨君が黛弓さんを受け入れるために心の扉を壊したのは、
2人のその言葉を聞いたからだと思います。
自分は両親の愛の結晶ではない、望まれて産まれてきたのではない。
その事実は、亨君には辛過ぎたんです。
だから亨君には、もう、黛弓さんしかいなかった。」
「それなら、Lさんは2人の魂を理想的な形に結びつけたんですね。
あれ以上の結果は望みようがありません。あの術は完璧でした。」
「完璧では、ないです。心は元に戻りますが、亨君はこれからもずっと、
あの両親の元で暮らしていくんですから。
あの時に言った通り、亨君自身が『生きていく』と決めなければ、
亨君を助ける事はできません。誰にも。」
「『亨君は自分の中に黛弓さんがいるのがわかる』そうですよね?」
「はい。直接に意志の疎通は出来ませんが、確かに感じるはずです。」
「なら、やはりあの術は完璧です。」 「何故、ですか?」
「亨君が死を選べば、自分の中の、愛する人を殺す事になる。
男なら、絶対にそんな事は出来ません。小さくても、亨君は男です。」
「それなら本当に、良いんですけど。」
その時、姫の携帯が鳴った。姫が画面を見る。
「旅館からだから、多分Aさんですね。」
もしかして、姫の術で問題が起きたんだろうか?
「もしもし。はい、Lです。運転は大丈夫、はい。え?」
姫の顔色が変わった。黙ったまま、Aさんの話を聞いている。
「いいえ。こちらからは。はい、任せた方が良いと思います。
わざわざありがとうございました。いいえ、では、失礼します。」
「どうしたんですか?」
「旅館から少し離れた山の麓にキャンプ場が有って、
そこのコテージから、若い女性の遺体が見つかったそうです。
身元は不明。死因はおそらく凍死、と。」
凍死? 昨夜の気温でどうして? そこで、気が付いた。
「もしかして、黛弓さんの。」
「Aさんが、そうだと思うって言ってましたから、多分間違い有りません。
警察から問い合わせが有って、情報を提供した方が良いかどうか聞かれました。」
「提供しないで、警察に任せた方が良いって答えたんですね。」
「はい。Aさんの勘は確かだと思いますが、多分黛弓さんは...」
「出来れば自分の身元を知られたくない?」 「はい。」
車は快調に山道を縫っていく。
沈黙に耐えられなくなって、もう1つの質問を口にした。
「それから、もう1つ質問があるんです。
黛弓さんはLさんの事を心配してましたよね?
『こんな事したらあなたも無事では済まないんじゃないの?』って。あれは?」
「黛弓さんには力があるから、本能的に判ったんですね。きっと。」
「本当に、無事では済まないんですか!?」
「人の命や魂を操作する術は大抵『禁呪』です。外法すれすれの。
使えばそれなりのペナルティーが有るのは当然ですよ。」
「ペナルティー、って。一体何ですか?」
「ええと、例えば、寿命が少し。」
「寿命が、縮まったんですか!?」
「少しだけです。」
「お願いですから、そういう事は、事前に相談して下さい。」
「相談したら、止められます。」
「そりゃ止めますよ!当たり前じゃないですか。」
「でも、術を使う人はみんな同じ。『やらなきゃいけないこと』の為だから。
Sさんだって、同じですよ。」
「え?」 目の前が、真っ暗になったような気がした。
命や魂を操作する術が禁呪だとしたら、もしかしてそれは?
「そう、翠ちゃんの誕生に関わる術なんて、禁呪中の禁呪です。
ほとんど外法そのもの。」
頼むから、お願いですから、事前に相談して下さい。
「Sさんの寿命も、縮まったんですね?しかも結構大幅に?」
「私もSさんも、早死にを望んでいる訳じゃありません。」
「だけど、寿命が。寿命が縮まったら。」
「妊娠して、翠ちゃんを産んだから、禁呪を使って縮まった分より、
Sさんの寿命は延びたはずです。今回の私も同じですよ。」
「え?何が、同じなんですか?」
「Rさんが、約束を守ってくれたから、私の寿命も延びました。
だから、差し引きマイナスでもゼロでもなく、少しだけプラスです。」
「今夜も『したら』、Lさんの寿命は、もっと延びますか?」
「いいえ、効果は初めての時の1回きりなので、
次に延びるとしたら妊娠した時ですね。
だから、急がないで下さい。あの...まだ少し、怖いですし。」
そうか。そうだよね。 やっぱり怖いよね。反省。ちょっとだけ悲しいけど。
ようやくお屋敷に辿り着いたのは夕方。
翠を抱いたSさんが玄関先で迎えてくれた。
「おとうしゃん、かえってきたよ。よかったね~」
Sさんから、翠を抱き取る。
「おかえり。昼過ぎにAから電話があったわ。大変だったのね。」
突然、姫の頬を大粒の涙が伝った。
「Sさん、私...」
え? あの、姫?
姫はSさんに駆け寄り、Sさんの肩に顔を埋めて泣き出してしまった。
Sさんは優しく姫を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫よ。電話で聞いたLの対応は何も間違っていないから、ね。」
姫は何度も何度も頷いた。でもなかなか泣きやまない。
「...もしかして。」 Sさんが俺を見る。
射るような視線。体感温度が、多分10℃以上、一気に低下した。
「R君、あなた。Lは初めてなのに、いきなり色んな事。」
「違っ、違います!色々どころか、たった1回だけ。あ、痛たたたた」
涙目で振り返った姫に、左頬を思い切りつねられた。
そのまま、姫はお屋敷の中に駆け込み、Sさんと俺は取り残された。
「馬鹿ね。パニクって不用意に口滑らせるの、良い加減に止めなさいよ。」
「だってSさんがあんな事聞くから」 Sさんは俺の唇に人差し指を当てた。
「まあ、素敵なお嫁さんが2人もいて、普段散々良い思いしてるんだから、
たま~に、一寸くらい痛い思い、するのは、我慢して、貰わないと、ね。」
翠を抱く俺の左腕、包帯の上から、Sさんは俺の傷口をそっと押さえた。
「怪我、私、驚いて...Lも、可哀想に。」
そうか、姫は。姫とSさんの思いが胸に浸みる。
「大丈夫、腕の良い医者が綺麗に縫ってくれたし、大した傷じゃありません。
それより夕食の準備です。何か美味しいもの、頑張って作りますよ。」
小さく頷いて息を吐き、Sさんは涙を拭った。
『光と影(結)』了/『光と影』完
本日投稿予定は1回、任務完了。
明日からは次作『卯の花腐し』の投稿開始です。