1003 光と影(下)①
R04/6/29 追記
こちらにも「いいね」を頂きました。
随分前に投稿した作品ですが、評価を頂けると嬉しいです。
本当に、有り難う御座いました。
1003 『光と影(下)①』
昨日とは打って変わって魚の反応は上々。
曇っているが気温は昨日より高い、水温も上がっているのだろう。
一時間程で8尾を釣り上げ、2人分のキープ制限10尾も間近。
姫はとても楽しそうにルアーを投げている。
しかし今、釣りなんかしていて本当に良いのだろうか?
三泊四日の旅行、この旅館に宿泊するのは今夜が最後。
あの男の子を助けるとしたら...。
まあ、SさんとAさんに相談すれば、旅行の日程を延ばす事も可能だろうけど。
その時、首筋に冷たい風を感じた。
振り向くと、あの男の子が立っている。その後ろに男の子の両親。
姫が釣りを中断して男の子と視線を合わせた。
「亨君も釣りにきたの?今日は良く釣れてるよ。」
「息子が釣りに行きたいと言い出しまして。その、お二人と一緒に、と。」
小さく頭を下げた後、父親が申し訳なさそうに言った。
「構いませんよ。僕らはルアーなので餌釣りとは競合しませんし。」
男の子の父親は俺の左隣にレンタルの折りたたみ椅子を3つ並べた。
姫は俺の右隣で釣りを再開。正直、男の子を姫に近づけたくない。
俺のすぐ左隣が母親、その隣が男の子、そして俺から一番離れて父親。
俺が『競合しない』と言ったものの、釣りをしているのは父親だけだから、
一応俺たちに気を遣っているのだろう。
だとすると父親の精神的な活動レベルはそれ程低くはない。
問題は男の子と、そして母親。
父親が魚を釣り上げてもほとんど反応はなく、ボンヤリと水面を眺めている。
男の子は仕方ないとしても、母親の精神的な活動レベルがかなり低い。
男の子の件での心労は大変なものだろうが、それにしても。
これではまるで、母親も憑依されているかのようだ。
「あ、これ、大物かも?」
突然、姫が大きな声を上げた。そんなに竿は曲がっていないのに?
?? 俺から離れていく ??? 玉網を持って後を追う。
「な~んだ。あんまり大きくなかったね~。でも掬って、念のため。」
念のためも何も、玉網全然要りませんよね?このチビヤマメなら。
俺が膝をついて小さなヤマメを掬うと、姫が小声で囁いた。
「さっき、気配を感じました。男の子の動きに、注意して下さい。」
「了解です。」 そういう事か。見事な演技。
「全然小さかったです、恥ずかし~。」
姫って...演技派なんですね、Sさんも真っ青の。
元の場所に戻って釣りを再開。その直後、父親の竿が大きく曲がった。
「お、これは。」 2~3分かけて、40cm近いニジマスを釣り上げた。
母親は相変わらずボンヤリと水面を見ているが、
男の子は父親の傍にしゃがんで魚を見ていた。でも、やはり『空っぽ』。
仕掛けを飲み込まれていたのか、父親が折りたたみナイフで先糸を切る。
ナイフを地面に置いて、ニジマスをバケツの中へ。
突然、辺りの空気が変わった。耳がキーンとして、周りの音が、消える。
男の子が立ち上がって振り向いた。その右手にナイフ。
父親は呆然としたまま、男の子を見詰めている。
その映像が、まるで白黒のスローモーションのように見えた。
男の子が逆手で持ったナイフを母親の首筋に振り下ろそうとするのと、
俺が左手を振り上げるのがほぼ同時。男の子の手首を下から掴んだ。
しかし、じりじりと押し込まれる。凄い力、信じられない。
痛。 ナイフの先端が裏小手に食い込んでいる。
「亨、止めなさい!」
ようやく父親が叫んだ。母親がゆっくりと振り返る。
「亨、あなた、何故?」 あまりの光景に眼を見張り、我に返ったようだ。
姫が俺の左側にふわりと回り込む。ゆっくりと、風が吹くように。
小声で何事か呟きながら、右手の人差し指と中指で男の子の首筋に触れた。
途端に男の子の手から力が抜け、ナイフが地面に落ちた。
ガックリと膝をついた男の子の体を姫が支える。男の子は意識を失っていた。
「亨、亨!」 母親が姫の腕から男の子を抱き起こした。
「今は眠っているだけです。怪我はありません。」
そう言って母親の背中に軽く触れた後、
姫は俺の左腕にタオルを巻き、軽く縛った。タオルがゆっくりと血に染まる。
「ごめんなさい。ナイフなんて...私の、せいです。」
姫が俯いて、地面にポタポタと涙が落ちる。思わず姫の肩を抱いた。
「大丈夫、大した怪我じゃありません。大丈夫ですから。」
母親が初めて俺を見た。
「あなた、お怪我を。申し訳、ありません。」
「ご心配なく、これは僕の不注意です。
でも、亨君がこんな風になったのは初めてじゃないですよね?」
両親は顔を見合わせて暫く黙ったが、やがて、口を開いたのは父親。
「はい。去年から、時々。」
「旅館の若女将は僕たちの知人です。彼女の立ち会いの下で、
亨君について話を聞かせて下さい。良いですね?」
両親は黙って頷いた。
「いや~、アナタ随分無茶しましたね~。
ナイフの刃が尺骨に食い込んで、止まった場所が良かった。
少しずれてたら神経とか動脈とか、かなり危なかったと思いますよ。」
旅館の医務室で傷口を縫いながら、歳の割には軽薄そうな医者が言う。
それを聞いて、姫の眼からまたポロポロと涙が溢れた。
俯いて俺の上着の裾を掴む。
全く、姫の前で要らん事を。大体な、縫うなら麻酔しろって。痛いだろ。
「そう思ったから裏小手で止めたんです。一応、拳法やってたんで。」
「ほ~、空手とか?もしかして黒帯ですか?」
だ・か・ら、無駄口叩かずにさっさと済ませろ。
いつまで痩せ我慢すれば良いんだよ。
やっと傷の処置が終わり、姫と一緒に旅館の研修室に向かった。
そこでAさんと男の子の両親が待っている。
男の子は医務室に寝かせたままだ。
研修室のドアをノックする。Aさんが直ぐにドアを開けてくれた。
「どうぞ、こちらへ。」 Aさんに促されて両親の向かいに腰掛ける。
型どおりの自己紹介の後、両親が立ち上がり、頭を下げた。
「誠に申し訳ありませんでした。」
「先程も言いましたが、これは僕の『不注意』です。
でも今後のために、亨君のために、僕たちの質問に答えて下さい。」
この件は穏便に済ませると安心させ、引き換えに情報を得る。
姑息なやり方だが、手段を選んでいる余裕はない。
「分かりました。何でも聞いて下さい。」
姫の表情を伺う。小さく頷いた。 よし、これで良い。
「まず、最初にお聞きします。」 姫の透き通った声が部屋の中に響く。
「『山○黛弓』という名前の女性に心当たりがありますね?」
「何故それを!」 母親が立ち上がって姫を見詰めた。
姫は静かに母親の眼を見詰め返した。
「『山○』はあなた方と同じ名字。彼女はあなたの、妹です。」
ぺた、と母親は力なく椅子に腰掛けた。
「信じるかどうかはあなた方にお任せしますが、
度重なる彼女の憑依の影響で、亨君の心は壊れかけています。
心が完全に壊れてしまえば体も長くは保ちません。かなり、深刻な状況です。」
母親が息を呑み、父親は天井を見つめて呟いた。「そんな...」
「そんな状態なのに、亨君は私の名前を聞いてくれました。
亨君と私には、おそらく何かの縁があるんでしょう。
だから私は亨君を助けたいんです。
もちろんあなた方が私の言う事を信じて任せてくれるなら、の話ですが。」
「幾つかの病院で何度も診察を受けましたが、
亨があんな風になった原因は分からず、状態は悪くなるばかり。
今日の事からしても、このままの状態が続けば近い内に大変な事が起こる。
それは私にも理解できます。あなたの言う事は信じ難いですが、
あなたの言う通りでなければ説明できない事を
これまで何度も見てきました。だから信じて、お任せします。
亨を助けてやって下さい。君も、それで良いね。」
父親の言葉に、母親が頷いた。
「昼間、彼女が憑依したままの状態で亨君は眠っています。
だから今、彼女にも意識がありません。
体はおそらく安全な場所にあると思いますが、
不慮の事故もあり得るので、あまり時間の余裕が無いんです。」
姫は座り直して母親の顔を正面から見詰めた。
「亨君を助けるために、私が知りたい事は2つあります。
1つ、何故彼女があれ程あなたを憎んでいるのか。
そしてもう1つ、何故彼女があれ程深く亨君に憑依できるのか。
答えて頂けますか?」
母親の顔は蒼白になり、唇が小さく震えている。
「Lさん、あなた、本当に亨を救ってくれますか?」
「もし、質問に答えて頂けるなら、全力を尽くします。」
「質問には、私が妻に代わって答えましょう。」
父親は1つ深呼吸をしたあと、ゆっくりと話し始めた。
「大学生の時、私は黛弓さんの家庭教師をしていました。
妻とはその時に知り合ったんです。
彼女の私への想いには気付いていましたが、
当然、受け入れる事は出来ませんでした。
私たちが結婚した後も彼女の私への執着は強くなるばかりで、
私が彼女を拒絶するほど、彼女が妻を憎む気持ちは強くなりました。
妻が亨を妊娠した時は、妻を友人の所に暫く匿ってもらっていた位です。」
「それが、1つ目の質問の答えですね。2つ目は如何ですか?」
「亨が生まれた後、彼女は突然行方不明になりました。
全くの音信不通で、親族との相談では失踪宣告の話まで出ていました。
亨が幼稚園に入る前に、仕事の都合でかなり遠くに引っ越しをしましたから、
彼女との関係もそのまま切れるだろうと楽観していたんです。
でも、亨が小学校に入学して...」
父親が俯き、言葉が途切れた。
「あなた方の前に、彼女が再び現れた。そうですね?」
姫の口調はあくまで穏やかだ。しかし話が進むにつれ、寒気が酷くなり
手が震えるのを止められない。左腕の痛みなど、とうに感じなくなっている。
「はい、2年生の夏休み前、亨の三者面談で私たちが小学校に出掛けた時、
彼女が校門で私たちを待っていました。そして妻に言ったんです。
『亨君はもう私のもの。
姉さんが私の大切な人を奪ったから、今度は私の番。』だと。
彼女は偽名を使って小学校の非常勤講師になっていました。
そして、私たちの知らないうちに亨を、亨を...」
もう止めてくれ、無理だ。これ以上は。
「解りました。そこまでで結構です。」 姫が静かに告げた。
「それで、今後の対応ですが。」 「はい。」
「憑依の段階があまりに深過ぎるので、単純に憑依を解いて、
今後の憑依を防ぐだけでは、亨君の心が壊れるのを止められません。」
「そんな、さっき貴方は。」 母親の顔が絶望に歪んだ。
「さっき言った通り、私は全力を尽くします。
私が言いたいのは『二人とも助けることはできない』と言う事です。
あれ程深く憑依してしまったら、黛弓さん自身も亨君と共倒れになります。
だから亨君を助けるためには、彼女をあきらめてもらうしかありません。」
「Lちゃん、幾ら何でも、そんな惨い事を。」 Aさんが涙を拭った。
「惨い、そうですね。それは承知しています。
でも、これほど深刻な事例で気休めは言えません。」
「Lさん、亨は私の息子で、黛弓は妹。
どちらか1人を捨ててどちらか1人を選ぶなんて、
それは私たちには、人間には出来ない選択です。」
「お父さんも同じ答えで宜しいですか?」 「はい。」
「分かりました。それではまず、彼女に答えを出してもらいましょう。
そして最終的な答えは、もちろん亨君が出す事になります。」
「黛弓と、亨が、答えを...」
両親が顔を見合わせるのに構わず、姫は続けた。
「Aさん。」 「はい。」
「6時から支度をします。それまでに亨君をご両親のお部屋へ運んで下さい。」
「分かりました。」
「それでは6時、お部屋に伺います。Rさん、部屋に戻りましょう。」
研修室を出た姫の顔に、微笑が浮かんでいるように見えた。
遅い昼食を終え、姫は濡れ縁に座って遠くの山々を眺めている。
一時間ほど経った時、姫が部屋の中に戻ってサッシと障子を閉めた。
「どうするか、決まったんですか?」
「はい、でも足りないものがあって。初めて使う術だから、少し不安です。」
「それはどうすれば手に入るんですか?
僕に出来る事なら何でも言って下さい。」
「Sさんに、電話してみます。」
Sさんに電話? あ。
「そう言えば、預かったものがあります。『困った時に使って』と。」
俺はクローゼットの中のスポーツバッグから、小さな白い袋を取り出した。
姫が袋の封を解き、中身を取り出した。
「これです。」 太陽のような、花のような形の紙片が一枚。
姫はそれを大切そうに両掌で包み、胸に押し当てた。
「私が考えていた術に、必要なものです。これがあれば、大丈夫。」
『光と影(下)①』了
本日投稿予定は1回、任務完了。