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『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第2章 2008~2009
42/279

1001 光と影(上)

R04/6/29 追記

こちらにも「いいね」を頂きました。

随分前に投稿した作品ですが、評価を頂けると嬉しいです。

本当に、有り難う御座いました。

1001 『光と影(上)』


枕元で目覚まし時計が鳴っている。 まだ、眠い。

昨夜、図書室で資料を調べていたら夢中になり、気が付いたら既に明け方。

Sさんや翠を起こしてしまうと心苦しいので、自分の部屋で仮眠を取っていた。

でも、もう姫を高校へ送る時間。起きなければ...


「起きて下さい。もう、時間ですよ。」


しまった、二度寝したか?

誰かが俺の体に覆い被さっている。

毛布越しに感じる体温、右の瞼と頬にキスの感触。

眼を開けると、姫が俺の顔を覗き込んでいた。

「今朝は寝坊助さんですね。」 白く細い指が俺の髪を撫でる。

自分の心臓の音が耳の中に大きく響く。

姫にも、この音は聞こえているんじゃないのか?


姫の腰に右腕を廻し、体を入れ替える。 「あっ。」

制服姿の姫が、俺の腕の中にいた。

「こんな起こし方して。僕が『その気』になっちゃったらどうするんです?」

照れ隠しの、冗談のつもり。でも姫は、真っ直ぐに俺の目を見詰めた。


「私は...私はそれでも良いです。」

「え?」 心臓が、止まるかと思った。

「でも、今は駄目。これから、学校ですから。」

ふわり、と、姫は俺の腕をすり抜けた。ベッドの端に座り、髪と制服を整える。

「Rさん、とても眠そうだし、今日はSさんに送ってもらいますね。」


呆気にとられる俺を残したまま、姫はドアを閉めて出て行ってしまった。

暫く動悸が収まるのを待って部屋を出ると、もう、お屋敷の中に誰もいない。

仕方が無いので1人で朝食を食べ、コーヒーを淹れる。

一時間ほどすると、Sさんが翠を抱いて戻ってきた。


「な~んだ。元気そうじゃない。

Lが『体調悪そう』って言うから心配してたのに。」

「ただの寝不足ですよ。それより...」

いや、あれ、何て説明すれば良いんだ?

「それより、何よ?途中で止めたら気になるでしょ。」

しまった。つい、口を滑らせたか。でもSさんが相手では、もう。


今朝の経緯を話し終わると、Sさんは右手を額に当てて俯いた。


「R君。」 「はい。」

「Lがそこまで思い切ったのに、どうして学校に行かせちゃったの?」

「どうしてって言われても。Lさんは『これから学校ですから』って。」

Sさんは大きく溜め息をついた。


「馬鹿ね。Lが『じゃあ、今、その気になって下さい。』

なんて言える訳ないじゃないの。

そのまま最後までしちゃえば良かったのよ。L、可哀想に。

もうすぐ就職休みなんだから、1日くらい学校休んでも問題ないでしょ。」

「そんな、だって、Lさんが僕を起こしに行って帰ってこなかったら。」

「ホントに馬鹿ね。私、それ位の気は回るわよ?

こんな時、男の方が主導権を取らなかったら話が進まないんだから。」


「いや、でも。」 「もう、何?」

「僕が、初めての時は、その...Sさんが。」

Sさんの頬が見る見る真っ赤に染まる。

「馬鹿!」 「痛たたたた。」 思い切り左頬をつねられた。

「私は年上だし。あの時は、Lの事もあって。」 「でも。Sさんは」

「もうその話はお終い!今はLの話だから、良い?」 「はい。」


「就職休みに2人で旅行、良い考えでしょ。前に行った温泉なんてどう?

風情があるし、慣れてる場所ならLもあんまり緊張しない筈。

予約は私がしておくから。」

「2人で旅行って、2人きりで、ですか?」

「あ・た・り・ま・え・です。

みんなで出掛けたらLが気兼ねするに決まってるじゃない。

ちゃんと自分でLを誘いなさいよ。私に言われたってのは絶対NG。」


その日の午後、俺はいつものように姫を迎えに出た。

終業のチャイムが鳴り、暫くして裏門から姫が出て来た。

車に向かって歩いてくる。

車を降り、姫から鞄を受け取って助手席のドアを開けた。

軽く会釈をして、姫が助手席に乗り込む。

ドアを閉めて運転席に戻り、鞄を後部座席、ベビーシートの脇に置く。

車を出した。姫は窓の外を見て黙っている。途轍もなく、気まずい時間。


「高校、もうすぐ就職休みですよね。」

「はい。」 姫はまだ窓の外を見ている。

「何日から休みですか?」

「講座があるので、本当のお休みは16日からです。2月16日。」

やはり窓の外を見たまま、姫は小さな声で答えた。

「休みに入ったら旅行に行きましょう。2人きりで。」

「え、旅行に?」 姫は驚いた顔で振り向いた。


「やっと、こっちを向いてくれましたね。ホッとしました。」

「だって、私、今朝あんな事。恥ずかしくて。」

「恥ずかしくなんかありません。嬉しくて、ドキドキしました。」

「そう、ですか?」

「でも旅行に行くまでは禁止ですよ?あんなの、心臓が持ちませんから。」

「はい。」


姫は一言『嬉しい』と呟いた後、

俺の左肩に頭を預けて、ずっと眼を閉じていた。


就職休みに入って4日目、旅行の前日。

姫は昼過ぎから夕方まで、嬉しそうに荷物をまとめたり服を選んだりしていた。

今夜は俺が夕食当番。料理が出来たところに姫がやって来たので配膳を任せ、

屋根裏の『観測室』にSさんを呼びに行った。


ドアをノックする。 「どうぞ。」

Sさんは天窓から上体を乗り出して夜空を観測していた。

「夕食の準備が出来ました。」 「了解。」

天窓を閉め、Sさんが階段を降りてくる。少し表情が暗い。

「何か悪い兆しでも?」

「う~ん、悪い兆しという程でもないけど。流星が少し、ね。

でも、旅行の時期は変えられないし。」

Sさんは首を振って、ふっ、と息を吐いた。


「Lはもう一人前だから過保護は良くない。大丈夫。」

左手の薬指を舐め、何か小声で呟きながらその指で俺の額に触れた。

あ、確かこれ、前にも...


「R君、夕食なんでしょ?先に降りるわよ。」


え?今、俺は何をしてた?観測室のドアをくぐるSさんの後ろ姿。

「待って下さい。僕も一緒に降ります。」


2月20日、旅行当日は晴天になった。暖かくて、格好の旅行日和。

荷物を持って玄関を出ようとすると、姫が振り向いた。

「私、先に車に行って待ってます。Rさんは後から来て下さい。」

Sさんと翠に挨拶してから、という事か。胸の奥が、じぃん、と熱くなる。

背後から肩を叩かれた。翠を抱いたSさんが微笑んでいる。


「こんな気遣いが出来るなんて。やっぱり、L、大人になったわね。

R君もLを見習って、間違っても毎晩電話なんてしちゃダメよ。

旅行が終わるまでの4日間、Lの事だけを考えてあげて。」

「でも」Sさんは俺の唇に人差し指を当てた。

「私は大丈夫。4日間も翠を独り占め。悪い話じゃないでしょ?」

指示通り、黙って翠の頬とSさんの唇にキスをした。


「それとね、これ預かって。」

Sさんは白い布で出来た小さな袋を俺の掌に載せた。

綺麗な刺繍、袋の口を縛る赤い糸。これは、前に何度か見た事がある。


「何か困った事があったら、これをLに渡して。使わずに済むなら良いけど、

やっぱり心配だから。使わなかったら後で返してね。」

Sさんは軽く俺の背中を押した。

「はい、いってらっしゃい。あんまり待たせちゃ駄目。」


「お待たせしました。出発しましょう。」 「はい。」

姫の、輝くような笑顔。

半日かけて車を走らせ、予約の時間より少し早く旅館に到着した。

荷物を持ってフロントへ向かう。自動ドアを抜けて、旅館のロビーに入った。

その瞬間、奇妙な違和感。 前回来た時とは全然違う。何だ、これは?

素早く『鍵』をかけ、それとなく辺りの様子を窺う。


...あれ、か。

ロビーの端、中庭に面した大きなガラス窓の側。

小さな男の子が1人、ぽつんと立っていた。おそらく小学校低学年。

しかし、中庭を向いて立っている後ろ姿は、とても人間とは思えない。

まるで『空っぽ』。 子供服売り場の、良く出来たマネキンが立っているようだ。

すぐ傍のソファに両親らしき男女が座っているが、こちらもどこか影が薄い。


「そのまま、フロントへ。」 姫が俺の上着の裾をそっと引っ張った。

「何故、生身の人間があんな風に?」 歩きながら小声で尋ねる。

「恐らく、何かに何度も深く憑依されて、心が壊れかけているんです。

でも、あれほど酷い状態は初めて見ました。あんな小さい子なのに。」

姫は廊下に視線を落とし、小さく溜め息をついた。


フロントで俺たちに対応してくれたのは若女将のAさん。

Sさんの親友で大学の同期生。

大学卒業後、直ぐにこの旅館に嫁いで若女将になったと聞いていた。

Sさんが『鋭い』というほど勘が良くて、客に対する心遣いがとても細かい。


俺がこの旅館に来るのは3回目だが、Sさんと姫は以前からの常連。

Aさんは姫を『Lちゃん』と呼んで可愛がっていたし、姫もAさんに懐いていた。

勿論Sさんと姫の力の事を知っているし、2人と俺の事情も承知している。

それでも極々普通に接してくれるので、とても居心地が良い。


俺が宿帳に記入している間に、姫がAさんに小声で話しかけた。

「あの、今ロビーにいる小さな男の子なんですけど。」

「やっぱり、何か変、よね。」 Aさんも声を潜めている。 

「はい、かなり深刻です。助けてあげられれば良いんですが。」

姫の表情は暗かった。 そう、姫の気持ちは良く解る。


以前、自殺した女子高生の一件に関わった時。

女子高生の父親は、姫の言う事を最初は全く信用しなかった。

この件でも、いきなり両親に、

『何度も憑依されたせいで息子さんの心は』なんて言おうものなら、

こっちが警戒されるだけだし、下手すると名誉毀損で警察沙汰。

何かとっかかりが無ければ、こちらから関わるのは難しい。


宿帳の記入を終え、部屋の鍵を受け取った時、首筋に冷たい風を感じた。

振り向くと、あの男の子が立っていて、俺たちを見詰めている。

距離は約3m、一体、何時の間に?

『鍵』を掛けていたとは言え、気配が動いたのを全く感じなかった

真っ直ぐ俺たちを見詰めたまま、近付いて来る。


「お姉ちゃん、名前、なんていうの?」 乾いた、冷たい声。

すっ、と、姫がかがんで男の子と視線を合わせた。

「私の名前はL、このお兄ちゃんはRさん。君の名前は?」

「僕の名前は...」 言い淀み、眼がふらふらと泳ぐ。

「うん、君の名前は?」 姫が微笑み、重ねて聞く。

「...とおる。そう、亨。僕の名前。」


「亨、何してるの。知らない人にいきなり話しかけちゃ失礼でしょ。」

母親らしき女性が背後から男の子の手を取って抱き寄せた。

「済みません。この子、少し。」 「いいえ、構いませんよ。」

姫は女性に向かって微笑み、男の子ともう一度、視線を合わせた。

「私たち、今日から此処に泊まるの。また、会うかもね。」

姫が立ち上がって振り向き、俺の腕に手を絡ませる。


「お待たせしました。」 「はい。」


姫の仕草にドキドキしながら、部屋の鍵を開けた。

「どうぞ。」 「失礼します。」 玄関で靴を脱ぎ、部屋の中へ入る。

「素敵なお部屋。」 2人部屋だからいつもより小さな部屋。

それでも全然安っぽい感じはしない。 とても上品で落ち着いた雰囲気。

どうやらSさんは、かなり良い部屋を手配してくれたようだ。

姫が奥の間の障子を開けた。


「綺麗...」


アルミサッシの向こうは、良く手入れされた小さな庭。

庭を囲む生け垣の向こうに、白い雪を頂く高い山々が見える。

あの山の方角からして、このサッシは東向き。朝陽がさぞかし綺麗だろう。

姫が振り向いた。


「Rさん、私、釣りがしたいです。ルアーで。」 眼がキラキラと輝いている。

「良いですよ。でも夕方は気温が低くて魚の活性も低いと思います。

明日のお昼、天気が良ければ挑戦してみましょう。」

「はい。」 その時、ノックの音がした。


俺がドアを開けると、Aさんが丸い漆塗りのお盆を持って立っていた。

お盆の上には急須と茶菓子、そして湯呑みが3口。

「R君、Lちゃんと水入らずの所申し訳ないんだけど。少しだけ、良い?」

「勿論です。どうぞ、中へ。」 「ホントに御免ね。」

Aさんは部屋に備え付けのポットから急須にお湯を注いだ。

炬燵の上に手際よく3口の湯呑みを並べる。白い湯気、お茶の香り。


3人で炬燵を囲む。お茶を一口飲んだ後、姫が尋ねた。

「さっきの、男の子の件ですね?」

「そう。ホントはこんな事話しちゃいけないんだけど、

あの御家族の予約を受けた時からすごく悪い予感がしてたの。

ほら、うちの旅館はいつもなら常連さんばかりでしょ?

でも、ある常連さんから『是非に』という紹介が有って、

それで新規だったけどあの御家族の予約を受けた。」


湯呑みをもつAさんの手は微かに震えている。


「でも、あの男の子の様子はどう見ても普通じゃないし、

気になって仕方が無かった。

そしたら、今朝『昨夜変な人影を見た』って苦情が2件あったの。

うちの旅館、今までそんな話は全然無かったのに。」


「それがあの男の子と関係していると?」 できるだけ穏やかに尋ねた。

「わからない。でも、あの御家族のチェックインが昨日だったから、

もしかしたらと思って。それにさっきLちゃんが...」

Aさんは湯呑みのお茶を一気に飲み干して、姫を見詰めた。


「Lちゃん、あなたさっき『深刻』って言ったでしょ?ホントの所、どう?」

「あの男の子の心は、もうかなりの部分が壊れてしまっています。

心が完全に壊れて死んでしまったら、体も長くは保ちません。」

「最悪の事態も考えて、心の準備をしなきゃいけないって事ね?」

「そうです。」 「分かった。ありがとう。」


Aさんの手の震えは止まっていた。強い人だ。


Sさんと姫に同行して、この旅館に初めて来たのは一昨年の5月。

既にその時から女将の具合が悪く、Aさんがこの旅館を切り盛りしていた。

女将の具合は余程悪いのだろう。俺は未だ、女将に会った事はない。

そんな状態で旅館で何か事件でも起こったら...すごい重圧だろうに。


姫が右手をAさんの左手にそっと重ねた。

「これもきっと何かの縁ですから、私たち、出来るだけの事をします。」

「縁?あなたたちと、あのご家族に?」

「はい、さっき男の子が私に名前を聞きましたよね。

あんな状態で、縁のない他人に興味を持つ筈はありません。

だから、未だ望みはあると思います。きっと。」


「ありがとう。でも、絶対に無理しちゃ駄目よ。

あなたたちに何かあったら、私、Sに申し訳が立たない。

それから、必要な物があったら何でも言ってね。必ず用意するから。」

「了解です。」

姫と俺がピッと小さく敬礼すると、Aさんはようやく微笑んだ。


『光と影(上)』了

本日投稿予定は1回、任務完了。

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