0703 忘却の彼方(下)
R4/06/20 追記
此方にも「いいね」を頂きました。
自分でも気に入ってる作品なので、とても嬉しいです。
本当に有り難う御座いました。
0703 『忘却の彼方(下)』
電話を切って戻ってきたSさんは、ソファに深く体を沈めた。
「やっぱり、気が進まないな。」 溜息をついて、呟く。
「お社の祭礼が終わったばかりなのに、面倒な仕事ですか?」
「面倒っていうか、あんまりやりたくない種類の仕事。」
「今回は断った方が良いのでは?」
「我が儘言って『前線』から外してもらってる身だし、
別件で術者が出払ってる...断る訳にはいかない。
だからこそ、余計に気が進まないんだけど。」
「もし僕に出来る事があれば手伝わせて下さい。」
基本的な修行はずっと続けていたし、
簡単な仕事ならSさんの手伝いも出来るようになっていた。
「そう言ってくれると嬉しいわ。ありがと。
詳しい事は、また明日電話が来てから。
今夜は遅いし、もう寝ましょ。じゃ、Lを部屋まで、お願いね。」
Sさんは優しく笑って俺の頭を撫でた。
翌日、朝食を食べ終わったところで電話が鳴った。
Sさんの表情は更に暗くなり、朝食後のお茶の時間も雰囲気が硬い。
「○◇会絡みの仕事、それだけでも気が重いのに。全く何でこんな...」
○◇会。この地方に住んでいれば誰でも知っている、怖い人達の団体。
Sさん達の一族は、○◇会の偉い人にかなりの貸しがある、そう聞いていた。
「こちらが○◇会の偉い人を助けたのが切っ掛け、
そのあと『対策班』の一員として○◇会の手を借りた事もある。
情報源でもあるし、大口の顧客でもある。一種の必要悪ね。
Lの件で私も利用させてもらったから、文句は言いにくいんだけど。
アイツ等は大嫌い、できれば関わり合いになりたくない。」
「仕事の内容はもっと気が重いんですね?」 Sさんは小さく頷いた。
「そう、いわゆる御祓いの依頼なんだけど、内容が酷いの。
アイツ等が風俗で働かせてた女の子が、先週、男と逃げた。
勿論すぐに捕まって、男の方は半殺しで公園に放置、今も意識不明。
女の子は見せしめに文字通り嬲り殺し。」
「遺体は酷い有り様だったらしいわ。で、女の子の死体は山に埋められた。
その後、その女の子を管理してた幹部の娘がおかしくなったんだって。
部屋の中で暴れる、火をつける。水も食事も取らずに、昨日で二日目。」
「その女の子の祟りだろうから御祓いをして欲しいって事ですね?」
「そう。どう考えても自業自得なんだから全然気が乗らない。
むしろ殺された女の子の方に同情するわ。」
「でも、幹部の娘さんも可哀相ですよね。父親のせいで巻き添えになって。」
翠を抱いた姫も浮かない顔だ。
「...其処なのよね。無下に断れないのは。
まあ、今回も『上』が相当な料金を受け取ったみたいだし。
やるしかない、やっぱり。」 Sさんは、また小さく溜息をついた。
それからSさんは短い電話をかけた。おそらく件の幹部が相手。
電話の後、Sさんは姫と俺をリビングに招集した。緊張した、表情。
「電話越しでも怒りの念が伝わってくるの。結構深刻な状況ね。
水さえ飲んでない状態で放置すれば、今日明日にも娘さんの命に関わる。
だから今日の午後一番で出掛けるわ。
ただ、憑依の状況によっては後方支援が必要になる。L、一緒に来てくれる?」
「はい、分かりました。」 姫の表情が引き締まる。
「あの、僕は?」
「R君が一緒に来てくれたら心強いけど、今回は翠をお願い。
長い時間だと、式だけじゃ心許ないし。」
「了解です。」 そっと、Lさんの腕から翠を抱き取った。
Sさんと姫は早目の昼食を済ませ、ロー○スに乗って出発した。
翠と二人きりのお屋敷は少し寂しく、そしてやたらに広い。
時間通り、翠にミルクを飲ませる。ゲップをさせる。寝かせる。
ただ、Sさんと姫がいないのを察しているのか、翠は何かの拍子にぐずりかける。
すると、その度に爽やかな風が吹き、翠は安らかな顔で寝入ってしまう。
何の問題も無く時間は過ぎて、俺も昼食を食べ終えた。
食器を洗い、片づける。
ふと振り向くと、翠が眼を覚ましていた。
空中に浮かぶ何かを捕まえようとするように、
ベビーベッドの中で手を伸ばしている。
やがて、顔をくしゃくしゃにして笑い声を上げた。
まるで姫に遊んでもらっている時のようだ。
...これ、もしかして式?
式が助けてくれているからなのか、初めての留守番は順調そのもの。
翠はベビーベッドの中ですやすやと寝ている。
俺はその傍に椅子を置き、文庫本を読んでいた。
一冊目、二冊目。そして三冊目。
...何かおかしい。嫌な予感、時計は既に3時を過ぎている。
その時、廊下を玄関に向かって走る小さな白い影が見え、車の音が聞こえた。
? あれはロー○スのエンジン音じゃない。俺も玄関へ走った。
庭先にタクシーが停まっている。とてつもなく嫌な予感。急いで駆け寄る。
タクシーを降りたのはSさん。でも、姫が降りてこない?
よろめくSさんを抱き止めた。
「どうしたんです?」
「R君。」 Sさんの目から大粒の涙が溢れた。
「ごめんなさい。Lが、Lが代に...私、Lを守れなかった。」
そう言うと、Sさんは俺の腕の中で気を失った。
20分ほどすると、Sさんはリビングのソファで眼を覚ました。
「L!」慌てて体を起こそうとする。俺はSさんをしっかり抱きしめた。
「大丈夫。落ち着いて下さい。話はそれからです。」
暫くして、泣き止んだSさんが話し始めた。
「...憑依していたのは、殺された女の子じゃなかった。」
「何が、憑依していたんですか?」
「祟り神。とてつもなく強力な。」 「祟り神って、それは?」
「名前の通り、人に祟りを与えるために存在している神。
アイツ等が女の子の死体を埋めて聖域を穢したから、その封印が薄れた。
そして殺された女の子の怒りと憎悪の念に共振して、
聖域に封印されていた祟り神が覚醒したんだと、思う。」
「どうしてそれが『祟り神』だと?」
また、Sさんの眼に涙が溢れて言葉が途切れる。
「話せるようになってからで大丈夫。落ち着いて下さい。」
Sさんの肩を抱き、そっと背中をさする。
「部屋の中に入ったら、屍臭がしたの。
幹部の娘はもう死んでて、『動く死体』になってた。」
俺はSさんの涙と鼻水をタオルでそっと拭った。
「よほど強力な存在でなければ死体は動かせない。
『神』か高位の『精霊』、それか『祟り神』。 でも、あれは『祟り神』。
Lが『燃え尽きよ』って言ったら、
私の目の前で幹部の体が火を吹いて燃え尽きた。あっという間に。」
「『祟り神』がLさんを依り代にしたんですね?
そしてLさんの力、『あの声』を使った。」
Sさんがビクッと震えて、何度も頷いた。
「そう、私は妊娠経験者だから、Lが...私、何も出来なかった。」
「Sさんが何も出来ないって、幾ら何でも。」
「『祟り神』は女性、『陰神』なの。
神格を持ってて、性別が同じだから、何をしても力が届かない。
術が全部無効にされて、私も焼かれるところだった。
でも、僅かに残ってたLの意識がためらったから、何とか逃げられた。」
「あ、私、電話しないと。」
Sさんの眼がふらふらと泳ぐ。
「何処に電話するんですか?」
「『上』よ。急いで男性の術者を派遣して貰うように。」
俺は両掌でSさんの顔をはさみ、その眼をまっすぐ見詰めた。
「Sさん、電話は車の中でかけて下さい。」
「車の中で?」 「はい。」
「今から2つ、質問をします。正直に、答えて下さいね。」 Sさんが頷く。
「幹部の娘さんは『力』を持ってなかった。
だから依り代になっても大した事は出来なかったのに、
3日目には『動く死体』になってます。
今日屍臭がしたのなら、昨夜、既に死んでいたかも知れない。
だとすると、『祟り神』がLさんの力を好き放題に使ったら、
Lさんは2日も保たない。違いますか?」
「あなたの、言う通り、だわ。今夜一杯、保つかどうか。」
「殺された女の子の憎悪と共振したのなら、祟りの対象は○◇会と構成員。
幹部の娘さんは力を持っていなかったから、
『祟り神』は娘さんの部屋から出られなかった。
でも、新しい代の体と力を使い、部屋から出て祟りを始めるなら、
その目的地は○◇会の本部事務所、ですよね?」
Sさんは頷いて、また涙を浮かべた。
「僕が行きます。Sさんも一緒に来て下さい。」 Sさんが息を呑んだ。
「危険過ぎる。もし、あなたまで。」
「僕がしているような修行が役に立つなんて思っていません。
でも、僕は『男』です。陰神さまにお願いするなら『男』の方が有利でしょ?」
「そんな。」Sさんはすがるような目で俺を見た。
「私、私が代になれば、Lは助かったのに...」
そっと、Sさんの唇を人差し指で抑えた。Sさんが良く使う「黙って」の合図。
「Sさんが代になってたら、『祟り神』はSさんの力が使えたんですよ?
それこそ悪夢です。Lさんは逃げられなかったはずだし、
絶対もっと酷い事態になってます。」 「でも。」
「Sさんも、Lさんも、そして翠も、僕は誰1人失いたくありません。
だから『祟り神』にお願いします。『Lさんを返して下さい』って。
Sさんも僕の為にお願いしてくれましたよね。」
○◇会の本部事務所に向かう途中、Sさんは『上』に電話をかけた。
今回の件は『祟り神』に関わる非常事態である事。
これから○◇会の本部事務所に向かうから、支援を寄越して欲しい事。
そして、警察への根回しとマスコミ封じが必要な事。
翠を抱いて電話するSさんは、ほとんど、いつものSさんに戻っていた。
○◇会の本部事務所の駐車場に車を停めた。
「くれぐれも、気を付けて。」
「此処で待ってて下さい。もし助けられたら、Lさんの手当てをお願いします。」
Sさんの唇にそっとキスをして、車のドアを閉めた。
裏口のドアには鍵が掛かっていなかった。
ドアを開けて中に入る。途端に肉の焦げる臭いが鼻をつき、吐き気がこみ上げた。
ざっと見ただけでも、数体の焼死体がある。まだ燻っているものもある。
どれも、燃えているのは死体だけ。椅子も、絨毯も、ほとんど燃えてはいない。
エレベーターホールでボタンを押す。普通、一番偉い人の部屋は最上階だろう。
正直、全ての階の様子を見て回る勇気が、俺には無かった。
5階でエレベーターを降りる。正面に、趣味の悪い、金縁の表札が掛かった部屋。
やはり鍵は掛かっていない。そっとドアを開ける。
ドアの隙間から、熱気が溢れてきた。
まるで部屋の中が燃えているかのような、凄まじい熱気。
1人の男が、部屋の中央に立っていた。うなだれて手足はだらりと力が無く、
まるで首根っこを捕まれてぶら下げられているように見えた。
恐らく、既に死んでいる。
ソファに座った姫が、突き刺すような眼差しでそれを見詰めていた。
『卑しき者、燃え尽きよ。』
空気がビリビリと震えて視界が歪む。 『あの声』。
突然男の体が燃え上がり、そして、燃え尽きた。あっという間に。
燃え滓が床に落ちる軽い音。 ゆっくりと振り向いて、姫が俺を見る。
『この者どもとは違う。だが、人は皆、卑しい。』
それは姫の形をした『憤怒』そのものだった。
怒り以外、何の感情も、人格の欠片すらも感じられない。
物質化した『憤怒』。
違う、全く違う。頼むも何も、願いを伝える方法が無い。
内心あてにしていた姫の意識も、全く感じられない。
次に『憤怒』が口を開いたら、俺は燃え尽きるだろう。あの燃え滓のように
姫の形をした『憤怒』が、深く、ゆっくりと息を吸った。
来る。『あの声』が。
その時、俺の体が勝手に動いた。止められない。
床に膝をつき、手をつき、体を伸ばして、そのままべったりと腹這いになる。
これは、『五体投地』? 何故? 『何か』が俺の体を勝手に動かしている。
また『何か』が俺の体を動かした。俺の体は腹這いから正座の姿勢になり、
深く頭を下げたまま、ゆっくりと眼を閉じた。
『高天原の憶え目出度き、いと尊く、見目麗しき御陰神。
◎○▲○□姫之尊の御前に、臣、怖れ謹みて申し上げ奉る。』
俺の口から淀みなく言葉が流れ出る。その声に合わせて空気が震えた。
『何か』が俺の体を使い、『あの声』で言葉を紡いでいる。
『この国、開闢の昔より、彼の美しき山々を守りし御陰神。
その御威光によりて、河清らかに森深く、生き物ども皆健やかにてありけり。』
力の籠もった声が朗々と響く。厳かに、空気が震えている。
部屋ごと焼き尽くすかのようなとてつもない熱気が、いつの間にか鎮まっていた。
代わりに、しんと冷えた空気が部屋に満ちている。静かだ。
『その尊き御心は人どもの村々にも及び、その恵み、村々を大いに栄えせしむ。
秋来ますれば田は常に黄金の海となり、人ども大いに御陰神を畏れ敬いたり。』
上体を伏せ、閉じているはずの俺の目の前に、美しい村の景色。
整然と並ぶ棚田、風に揺れる稲穂の海。歌いながら稲を苅る、楽しげな人々。
『田植えする早乙女どもの愛しき事、
御陰神に供え奉られたる御神酒の芳醇たる事。
餓える者の唯一人として無く、人ども大いに増え、やがて彼の地に満つ。
これ全て、全て大いなる御陰神の思し召し也。有り難き哉、尊き御心哉。』
ああ、そうか。俺の体を使っているのは、『○瀬△□◎主之尊』。
あの、川の神。
『やがて時移り、人ども思い上がりて御陰神の大恩を忘る。
その行い、目に余ること多く、人どもの心、次第に荒れ果てつ。
されど慈しみ深き御陰神、なお人どもを愛で、許し、
御自らを陰に封じて眠りけり。』
美しい村の景色は消え、薄暗い森の中の、大きな石が見えた。
数人の男が深い穴を掘っている。その傍らに、血塗れの女の死体。
『怖れ多くも御陰神の御寝所を汚したる卑しき者ども。
目覚めし御陰神の怒り天雷の如く、卑しき者どもを焼き尽くし灰燼と化す。
その祟り、げに相応しき報いなる哉。
されど、臣、御陰神の御前にこの身を投げ伏し、
敢えて、怖れ謹みて申し上げ奉る。』
『祟り神、これ御陰神の真の御姿にあらず。
憤怒、これ御陰神の真の御心にあらず。
報い了りし今こそ、元の慈しみ深き御陰神に戻られん事を。
臣、自らの血をもって人どもの罪を贖い、御陰神の怒りを鎮めんと欲す。』
『...血は、要らぬ。面を上げよ。』 『は。』
また、ひとりでに俺の上体が起き、眼が開いた。姫が立ち上がっている。
『もう良い。そなたが吾を助くは二度目。礼を言う。』
『畏れ多く、勿体なきお言葉。』
『吾は、眠る。穢れ無き、新しき寝所にて。』
『我が新しき社に近く、相応しき場所有り。どうか、どうか其処に。
渡御頂けますれば、臣、身命を擲って御寝所をお護り』
『それでよい。たの、む。』
ゆっくりと姫の体が傾き、床に頽れた。
立ち上がって駆け寄り、姫の体を支える。俺の体が、今は自由に動く。
震える手で姫を抱き、心臓の音を確かめた。大丈夫、生きている。
『早く、此所を出なさい。』
頭の中に声が響く。 あの川で会った男性の声。
忘れられた川の神様の、声。
『この穢れた場所は、卑しき者たちと共に焼き尽くされる。
さあ、急ぎなさい。早く、外へ。』
姫の軽い体を抱いて部屋を出た。早く、此処から出なければ。
目眩が酷くて足下がふらつく。吐き気をこらえて廊下を抜けた。
エレベーターで一階に降り、裏口へ。ドアの向こうにSさんの姿が見える。
「R君!良かった、本当に良く無事で...」
「Lさんは生きてます。間に合いました。手当を、手当をお願いします。」
車の助手席に姫の体を横たえた後、目の前が真っ暗になった。
『忘却の彼方(下)』了
本日投稿予定は1回、任務完了。
明日で『忘却の彼方』は完結です。