0502 新しい命②
R04/6/03
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0502 『新しい命②』
草原の中の小さな公園。
Sさんと二人、並んでベンチに腰掛けている。
雲ひとつ無い青空、太陽が眩しい。Sさんは白い日傘をさしていた。
「名前を考えたんです。子供の名前を。」
「どんな名前?」 Sさんは優しい笑顔で俺を見つめた。
「『みどり』ってどうですか?翡翠の『翠』って漢字を考えてるんですが。」
「みどり、素敵ね。良い名前。漢字は少し難しいかもしれないけれど。
緑の草原のみどり、『あの人』があなたと出会った、この美しい草原のみどり。」
Sさんの声の調子は、まるで短歌や俳句を詠唱しているようだ
「この場所に因んだ名前だとして、何か障りはありますか?」
「それは大丈夫、障りがあるのは名前の読みや漢字が同じ時だけ。」
ああ、これは。
数日前、寝室のソファでSさんと話した記憶が変形して夢に出てきている。
自分が夢を見ている事を自覚しながら、Sさんとの会話を楽しんでいた。
「R君。あなた、起きて頂戴。お腹が、少し変なの。」
Sさんの声!? 飛び起きた。
「どうしたんです。」 「お腹、いつもと違う。いよいよかも。」
「あの、痛み。痛みはありますか?」
「痛いっていうより、張りがかなり強い感じ。まだ余裕はあると思うけど。」
時計を見る、6時12分。出掛ける支度に30分、病院まで車で40分。
診療開始は9時だが、それより早くても対応してくれるだろう。
「Lさんの学校はどうします?」
「Lに判断させて。学校に行くならLを送ってからでも多分大丈夫。」
「分かりました。」 急いで姫の部屋へ。ドアをノックする。
「Lさん、起きて下さい。Sさんのお産が。」 数秒後、ドアが開いた。
「直ぐに着替えて行きます。」 「今日、学校はどうしますか?」
「お休みします。7時半になったら学校に電話して下さい。」 「了解です。」
姫と二人、かねてからの打ち合わせ通り、出発の準備にかかった。
姫はSさんと相談しながら当座の荷物を手際よくまとめていく。
俺はマセ▲ティの助手席をぎりぎりまで後ろに寄せ、
背もたれを倒してタオルケットを敷いた。
ヘッドレストに小さなクッションをタオルで縛り付けて、簡易ベッド完成。
姫には運転席側から後部座席に乗ってもらえば良い。
荷物を車に載せ、出発の準備が出来たのは6時40分。
家の中に戻るとSさんはダイニングの椅子に座り、姫が朝食の支度をしていた。
「あの、直ぐに病院に行かなくて良いんですか?」
「急がせて御免なさい。Lが学校を休んでくれるなら朝食の後で大丈夫。」
Sさんが涼しい顔をしているので俺も安心した。
途端にお腹が鳴って空腹を自覚する。
「そういえばいつもの朝ご飯の時間ですね。」 姫が料理の皿を並べていく。
3人でお喋りしながら朝食を食べ、朝食の後のコーヒーまでしっかり飲み、
出発したのは7時50分だった。その頃には陣痛が始まったらしく
Sさんは『少し痛くなってきたかも』と言っていたが、
まだまだ表情には余裕があった。
病院に着いたのは8時40分過ぎ。
診療開始時間前だが、当直の看護師さんが入院の手続きをしてくれた。
姫と二人、Sさんを待合室に残して部屋に荷物を運ぶ。
Sさんが希望通していた個室だ。家族も一緒に宿泊できる設備もある。
待合室に戻ると、既にSさんの姿は無かった。
診察室の中で診察を受けているのだろう。
10分程すると、Sさんと担当医の○川先生が出てきた。
Sさんは心なしかげんなりした表情に見える。
「陣痛は始まってますが、もう少し待った方が良いと思います。
お部屋で待ってもらって、陣痛が強くなったら看護師に連絡して下さい。」
「今もこんなに痛いのに、もっと痛くなるんですって。
そしたら私、絶対歩けない。」
声に力が無い。こんなSさんは初めて見た。
「Sさんらしくないですよ。車椅子をお貸ししまょうか?」心配そうな○川先生。
「お願いします。」 Sさんは車椅子にぐったりと座り、俺の手を握った。
姫が車椅子を押し、俺はSさんを励ましながら部屋へ戻った。
Sさんは部屋のベッドに横になったが、周期的な陣痛は耐え難いらしい。
「痛い。本当に、もっと痛くなってきた。」 眼を赤くして涙ぐんでいる。
陣痛が強くなる度、俺と姫が交代でSさんの手を握っていたが、
見ている方も辛い位だ。 駄目元で、聞いてみた。
「術で痛みを消すとか、出来ないんですか?」
「...出来るけど、痛みを消したらタイミングが分からない、きっと。」
確かに、それはそうだ。だからといって俺にはどうすることも出来ない。
ただSさんの手を握り、背中や腰をさすってあげるしかなかった。
ちっとも進まない時計の針にじりじりしながら、3時間程が経った。
陣痛の間隔は短くなり、痛みはさらに強くなっているようだ。
「もうお昼ご飯の時間ですね。私、ちょっと行って買ってきます。
Sさん、何か食べたいものはないですか?」 姫が心配そうに尋ねた。
「いらない、何も食べたくない。」 Sさんは消え入りそうな声。
「こんな時だからこそ食べておかないと、最後はきっと体力勝負ですよ。」
俺はSさんの眼を見つめながら精一杯励ました。
「...じゃあ、何か甘いもの、ケーキとか。」 「分かりました。」
姫が部屋を出て暫くすると、Sさんの唸り声が聞こえなくなった。
陣痛が弱まり、疲れて寝てしまったらしい。
俺も朝から気を張っていて疲れていたのだろう。
両手でSさんの左手を握ったまま、居眠りをしてしまった。
どのくらい寝ていたのか、部屋に満ちる濃密な気配を感じて、眼が覚めた。
Sさんはベッドで上体を起こし、緊張した表情で前を見ている。
そろそろとSさんの視線を辿り、俺は凍り付いた。
Sさんの顔から50cmくらい離れた、俺の真正面。
『手』が浮いている。 白く細い指、おそらく女性の右手。
Sさんも右手を伸ばして、そっとその手を取った。
すると次第に腕が、そして肩が、胴体と頭が、はっきりと見えてきた。
一糸まとわぬ裸体の若い女性が、ベッドの上、Sさんの膝の辺りに立っている。
眩しいほどに白い肌、形の良い乳房、そして端正な横顔。
俺はその女性を知っていた。
そう、K、『あの人』が穏やかな表情でSさんを見下ろしている。
その右手はSさんの右手をしっかりと握っていた。
思わず声を掛けようとした時、Sさんの左手が俺の手を強く握った。
すんでの所で声を飲み込む。多分、『このままで』という合図。
『あの人』はしばらくSさんを見下ろしていたが、やがて静かに眼を閉じた。
!? ゆっくりと、その体が小さくなっていく。
高校生から中学生、そして小学生と成長の過程を逆に辿るように。
もう身長は1mもない、眼を閉じたままの幼児の姿。
赤子の大きさに近づくにつれ、その姿はボンヤリと薄れていく。
やがてその姿は微かな光に包まれ、完全に、消えた。
Sさんはゆっくりと右手を開き、俺に声を掛けた。優しい笑顔。
「破水したみたい。看護師さんに電話して頂戴。」 声に力が戻っていた。
「あの、痛みは、痛みは無いんですか?」
ベッドの脇の電話、受話器を取りながら聞いた。
「さっきより、もっと、ずっと痛いわ。
でも、もう大丈夫。心配しないで。
私、母親になるんだから、しっかりしないと。
早く、少しでも早く、この子に会いたい。」
看護師さんがストレッチャーにSさんを乗せ、
部屋から出ていった直後に姫が帰ってきた。
看護師さんを追い、俺と姫も一階の分娩室に向かう。
分娩室のドアの前で○川先生が待っていてくれた。
「出産に家族の付き添いを希望しますか?」 「いいえ、1人で大丈夫です。」
「Rさんについていてもらった方が良くありませんか?」 姫は心配そうだ。
「僕でも、Lさんでも、2人一緒でも、付き添い出来ますよ。」
Sさんは俺の手を握って優しく笑った。
「そんなに沢山、部屋が満員になっちゃうわ。大丈夫、Lと一緒に待ってて。」
「じゃ、2人で待ってます。頑張って下さい。」 俺はSさんの額にキスをした。
Sさんは小さく手を振って分娩室に入っていった。
微かに産声が聞こえたのは、Sさんが分娩室に入ってから40分程経ってから。
それから暫くして俺と姫は看護師さんに呼ばれ、分娩室の中に入った。
Sさんは小さな小さな赤子を胸に抱いて微笑んでいる。 部屋を満たす血の匂い。
21世紀の現代でも、出産は昔と同じく本当に命がけ。
今更にそれを思い知らされる。
「おめでとうございます。元気な女の子、母子共に健康です。
朝の様子を見て、正直どうなることかと心配していました。
でも、初産にしては思いの外に安産でしたね。」 ○川先生は満面の笑み。
その時、Sさんが澄んだ声で歌い始めた。
短い歌。古い言葉だったが、
無事に産まれてきた子に感謝し、これから大切に育てる事を誓う歌詞。
Sさんはその歌を3度繰り返して歌い、3度目は姫も声を合わせた。
厳かな、でも優しくて何故か懐かしい調べ。
その歌を聴いているうちに涙が溢れてきて止まらなくなった。
○川先生も、看護師さん達も涙を拭っている。
「ねえ、とても可愛い子よ。あなたに良く似てる。抱いてあげて。」
姫に背中を押され、俺は涙を拭いてSさんから赤子を受け取った。
これがSさんと俺の子、俺たちの娘なのか。可愛いかどうかなんて分からない。
俺の腕の中で安らかな寝息を立てる赤子は、思っていたよりずっと、軽かった。
「あの、私にも、抱かせて下さい。」 姫がおずおずと言った。
タオルでくるまれた赤子を姫にそっと渡す。
赤子を胸に抱いて、その髪を撫でた姫の両眼から、大粒の涙が溢れた。
「赤ちゃんて、新しい命って、こんなに、こんなに可愛いんですね。私が...」
「そう。Lが生まれた時も、Lのお母さんはそうやってLを抱いて、
さっきの歌を歌ったの。私たちは皆、あなたを祝福したわ。」
「...お母、さん...」
Sさんの回復は順調。
予定通り出産から5日後に退院して、お屋敷に戻ってきた。
「ねえ、L。そろそろミルクの時間なんだけど。」
「あ、ごめんなさい。翠ちゃん、ミルクだって。また後でね~。」
『子供を可愛いと思えるかどうか自信が無い』という言葉とは正反対に、
姫は翠を文字通り溺愛していた。
高校へ行く前、高校から帰った後、時間さえあればずっと翠を抱いている。
休日ともなれば一日中翠の傍を離れず、
翠を抱いている時間は俺やSさんより長かった。
「平日の昼間はあなた、平日の朝夕、休日は一日中L。
2人がずっと翠を抱いていてくれるから、私、子育て疲れとは縁が無さそう。
でも、これじゃ翠が私の事を母親だと思ってくれないような気がして心配だわ。」
「大丈夫ですよ。Sさんは毎晩翠ちゃんと一緒にいられるんですから。
できれば私も毎晩翠ちゃんと一緒に寝たいのに。
あ、だから旅行とかどんどん行って下さいね。翠ちゃんは私に任せて。」
「そんな事したら、私、本当に忘れられちゃうじゃないの。」
「そ・こ・で、私、良い考えがあるんです。」 「何?」
「出来るだけ早く、もう1人赤ちゃんを産んで下さい。
そしたらSさんと私で1人ずつ赤ちゃんを抱いて寝られますよ、ね。」
「L、あなた、そんな簡単に...でも、確かに良い考えね。男の子も欲しいし。」
「あのう、済みません。僕の立場は?」
暫く顔を見合わせた後、2人の口から出たのは同じ言葉だった。
「それじゃ、3人目も。」
『新しい命②』了/『新しい命』完
本日投稿予定は1回、任務完了。今回で『新しい命』は完結。
次作の検討・準備のため、明日はお休みを頂きます。
【追伸】
明日は別系統の作品を投稿します。宜しければ、そちらをお楽しみ下さい。