0306 旅路(下)②
0306 『旅路(下)②』
姫と俺が釣った魚を見て、Sさんは目を丸くした。
「ホントにこれ全部、2人で釣ったの?」
「はい。それに一番大きいのはLさんが釣ったんですよ。」
「魚が大き過ぎて糸が切れて、それでRさんが飛び込んだんです。」
「飛び込んだ?海に?」
「はい、ギャラリーは大歓声でした。」 「ギャラリー?」
「Rさんは綺麗なお姉さんに迫られて嬉しそうでしたよ。ね。」
「ふ~ん、早速そんな事を。Lが一緒なのに、油断も隙も無いわね。」
「ちょっと待って下さい、僕はタオルを...」
ビキニの胸元、目の前の、白い肌と赤い唇。
いや、正直、あの状況にドキドキしたのは否定出来ない。
「でも、ちゃんと『お断り』したから、お咎め無しですね。」
とりあえず姫のおかげでセーフ。ちょっと姫のマッチポンプっぽいけど。
他愛も無い話をしながら俺が魚を捌き、Sさんと姫が料理を作る。
ハマフエフキの刺身、ムニエル。カマスのグリル焼き。良い香りが漂う。
その間に、俺はホテルの売店でパンと白ワインを買って来た。
ここまでくると、ちょっとしたパーティーだな。
姫が料理と食器をテーブルに並べている。
俺は調理器具を洗い、残った魚の身を小分けにして冷蔵庫に入れた。
突然、耳元で叫ぶような、若い女性の声。
「危ない!!」
え? 何、今の。
直後、得体の知れない気配が津波のように流れ込み、部屋中を満たした。
振り返ると、姫が緊張した顔で天井を見つめている。
恐る恐る、姫の視線を辿った。
!?...天井からたくさんの腕が生えている。
10本以上、いや20本近くはあるだろう。姫に駆け寄りながら叫んだ。
「Sさん、早く!」
Sさんはシャワールーム、海水に濡れた俺の服を水洗いして...
姫の肩を抱き寄せた所でSさんが駆け寄って来た。息を呑む気配。
俺たちが見ている前で天井から男の上半身が生えてくる。
後ろ姿。頭、肩、背中。そして気が付いた。
『それ』は次第に向きを変え、こちらを向こうとしている。
「L!」 Sさんが俺の両耳を押さえ、姫が男の上半身に歩み寄った。
姫の声が微かに聞こえる。『あの声』だ、遠い古から伝わる術。
『現世の者は現世に、異界の者は異界に。』
部屋の空気がビリビリ震え、ぐんにゃりと視界が歪む。
思わず眼を閉じる。酷い吐き気を何とか飲み込んで眼を開けた時には、
たくさんの腕も、男の上半身も、部屋を満たしていた気配も、
既に跡形もなく消えていた。
「あれは?」 「まさかよりにもよって、この部屋になんて、ね。」
Sさんは微笑んだ。
思わぬハプニングだったが、その後も淡々と準備は進み、パーティー開催。
「自分で釣ったお魚って、すごく美味しいです。旅行、楽しいですね。」
「ホントに美味しい。L、ありがとう。R君もお疲れさま。」
「あ、いや、僕は別に。きっとLさんに釣りの才能が有るんですよ。」
正直な所、俺は呆れていた。
あんなモノを見た直後。この人たちは何故、こんなに平然としてるんだ?
俺と姫がパーティーの後片付けをしている間に、Sさんは買い物に出かけた。
戻ってくると、手にはデザートのクッキーとフィッシングガイドの小冊子。
コーヒーを飲みながら、Sさんは言った。
「じゃ、私の仮説を聞いて貰えるかな?」
「是非、聞きたいです。」俺が言うと、姫が右手を挙げた。
「『異界のモノは満ち潮に乗って』ですか?」
「ご名答。良く出来ました。」
「あの、何の事だか全然わからないんですが。」
Sさんは微笑んだ。
「そうね。順序よく説明するわ。まずは、これ。」
細く白い指が、フィッシングガイドのページを丁寧にめくる。
「『それ』が現れるのは決まって大潮の満潮に近い時間帯なの。」
そうか。そういえば俺も、それで今日釣りに行こうと思ったのだ。
「半月ほど間隔が空くのもそうだし、ほら。」
小冊子の潮見表とメモを並べた。
「Nさんが『それ』を見たのも、この前の大潮の期間。
他の証言もほぼ一致してる。細かい記憶違いは誰にでもあるから、
完全に一致してると考えて間違い無いと思う。」
「何故、大潮の満潮と『それ』が関係するんですか?」
「全ての生命の起源は太古の海、それは知ってるでしょ?
現世への執着が強くて、中有、死者の魂が一時的に留まる場所ね。
そこへ行けない死者の魂は現世を彼方此方さまよって、やがて海にたどり着く。
そして海面をいつまでも漂う。
漂ううちに、いわゆる『悪霊』に変化するモノもいる。
だから海面には、そういうモノたちが吹き溜まる場所が出来やすい。
『それら』はやがて、満ち潮に乗って海岸に寄って来る。
そして潮位が大きく上昇する大潮の時、
海岸線を越えて陸地側に侵入する事があるの。」
「でも、何で今『それ』がこの場所に?以前はそんな事無かったのに。」
「主に風や海流の向きの関係だと思うけど、
海岸の決まった場所にだけ砂が流れついて砂浜が出来るでしょ?」
「はい。」 確かに、その通りだ。
「そんな風に、『それら』が流れつく海岸は、大体の場所が決まってる。
そういう海岸では、古代からこういう怪異が起こりやすいから、
何かしら対策がされてるのが普通なの。でも、対策されて長い時間が経つと、
後世の人が知らずに対策を壊してしまう事がある。」
「じゃ、この件で『それら』が現れたのは、誰かがその対策を壊したから?」
「まず間違いないと思う、堤防と同じ。
いったん何処かが壊れると、そこから海水が入り込む。
そして、その海水が海に戻る時、堤防を内側から更に大きく壊す。
堤防は内側からの力に弱いから。」
「だから、『それ』はだんだん増えていったんですね。」
「そう。それでさっきは、ついに上半身が現れて、こっちを向こうとした。」
「あれ、気持ち悪かったですよね。私、もう少しで顔を見ちゃう所でした。」
姫が呟く。かなり眠そうだ。
「こっちを向くって事は『それ』が私達を、
つまり現世の人間を認識したって事だから、ギリギリ間に合ったって所ね。
思い切って旅行を決めて良かったわ。
それで、この件が手遅れにならずに済んだんだから。」
「あの、もし手遅れになってたとしたら?」
「ん、対応が少し面倒になったかな。それと『被害者』がかなり出たと思う。」
「『被害者』って、今まで『それら』を見た人たちと何か違うんですか?」
「ただでさえ現世への執着が強すぎるモノたちでしょ。
『それら』の顔を見たら、普通の人はまず正気ではいられないと思う。」
ぞくり、と背筋が寒くなった。
「それなら一刻も早く堤防を直さなければならないって事ですよね。
直すにはどうすれば良いんですか?」
多少オカルトに馴染んだとは言え、『それら』の顔を見るのは御免だ。
「明日、海岸の辺りを探索しなきゃ。L、もう寝るわよ。」
翌日。朝食の後で、SさんはNさんに短い電話をかけた。
「大体見当が付いたわ。みんなで散歩しましょう。」
ビーチの西側にあるテニスコートの脇を抜け、カート用の細い舗装路を歩く。
しばらく歩いて、何かの造成工事が中断されたような、開けた場所に出た。
その先は海。海岸は小さな崖になっている。
「パークゴルフ場を作るつもりだったけど、
今回の騒ぎで責任者が退職したから、工事が中断してるんだって。
工事が始まったのが二ヶ月半前。問題の場所は間違いなく、この辺りね。」
Sさんは崖に向かって歩を進める。
俺と姫もSさんの後を追った。 崖の下の岩場に砕ける白波、潮の香り。
「L、判る?」 「はい、多分。」
姫は暫く辺りを歩き回って、やがて地面を指さした。
「ありました。これですね。」
一抱えほどもある平たい石が真っ二つに割れていた。
故意かどうかは分からないが、
造成工事の際に重機が割ったのだろう。大きな傷が残っている。
Sさんは石を撫でるようにして、何かを探した。
「R君、これ、ひっくり返せるかな?」 「やってみます。」
大汗をかいてその石の一つをひっくり返すと、Sさんは満足そうに微笑んだ。
「やっぱりあった。ここ見て。」
その石の表面に、何かの模様のような痕跡が残っている。
「多分先住民、アボリジニのシャーマンが結界を張った時に置いた守石ね。
その結界が、長い間この海岸を越えて『それ』が侵入してくるのを防いできた。
そう、何百年か、もしかしたら千年以上も前から。結界を維持するために、
土着の神から借りた力をこの石に封じた痕跡が、まだしっかり残ってる。
「これを壊したから『それ』の侵入を防ぐ結界が破れたんですね。」
「そう、当然の結果。それじゃ、古代のシャーマンに敬意を表して、と。」
Sさんは辺りを見回して掌ほどの小さな石を拾い上げた。
「これ、これが良い。新しい結界も彼らの流儀で。」
その石を、崖のすぐ近くの岩の上に置くと、Sさんは優しく微笑んだ。
「最後もLに任せようと思ってるんだけど、大丈夫かな?」
「やってみます。」 姫は凛とした声で答えた。
元旦の朝に見た、あのきりりとした表情。
「じゃ、R君は少し離れてて。そうね、テニスコートの辺りまで。」
「分かりました。」
俺が十分に離れたのを確認して、Sさんと姫は地面に膝をついた。
微かに、ほんの微かに姫の声が聞こえる。言葉は聞き取れない。
歌うような響きだけが届く。空気が静かに、厳かに震えている。
直後、Sさんと姫の頭上に浮かぶ、大きな蛇の姿を見た。
翼を持つ蛇が突然現れたのだ。その蛇の全身は虹色に輝いていた。
『虹の蛇』
子供の頃、そんな伝承を何かの本で読んだ記憶が蘇る。
そして虹色の蛇は、Sさんが岩の上に置いた石に吸い込まれるように、消えた。
直ぐにSさんが立ち上がって手を振り、俺を差し招く。急いで走り寄った。
「R君、もう少し難儀してくれる?ここに出来るだけ深い穴を掘って欲しいの。」
「了解です。」 俺は近くに落ちていた金属片を拾って一心に穴を掘った。
「それくらいで良いと思う。ありがと。」
直径20cm、深さ40cm程の穴の底に、姫はその石を置いた。
朝陽の方向を確認しながら、石の方向を微妙に調整しているようだ。
「これで良し、埋めて下さい。」 「了解です。」
掘り返した時の土を戻し、表面を入念に押し固める。
「はい、お終い。これにて一件落着。戻りましょ。」
Sさんは膝の土埃を払った。
「日本に戻るんですか?」
「え~、もう少し此所に居たいです。もっとお魚釣りたいし。」
Sさんは微笑んだ。まさに破顔一笑、綺麗な横顔は本当に絵になる。
「追加の宿泊費を負担すれば、完成確認って事で次の大潮まで滞在しても、
罰は当たらないでしょうね。特に急ぎの用事も無いし。」
「やった~。」 朝陽に負けないほど、姫の笑顔が眩しい。
俺たちは、それから更に2週間余り、ホテルに滞在した。
泳いだり、釣りをしたり、皆で楽しく過ごす日々。
それはまるで、季節はずれ(?)の夏休み。
Nさんに招待された船釣りで俺が釣り上げた約40kgのロウニンアジ。
3人で出かけたトローリングツアーで、
交代しながら釣り上げた約130kgのクロカワカジキ。
どちらも良い思い出になるだろう。
そして何より、Sさんと姫の水着姿が素晴らしく美しかった。
生涯最上・最高の記憶。俺の宝物、一生の思い出。
次の大潮になっても異変が起きないのを確認して、俺たちは帰国した。
Nさんは相変わらず、丁寧に見送ってくれた。
「Sさま、Rさま、Lさま。また何時でもいらして下さいませ。
心からお待ちしております。」
羽田空港に着陸後、機内の表示に合わせて腕時計の時間を戻しながら、
日本は未だ真冬なんだと思うと、少し鬱な気分になった。
季節外れの夏休みはとても楽しかったが、その付けが回ったんだろう。
帰国後は、姫の転校の手続き等で忙しい日々が待っていた。
姫が在学していた(?)高校が発行した指導要録の写しや転校照会の文書等。
改めてSさんの一族の力を思い知らされた気がして、笑ってしまう。
そんなある日。勉強の時間が終わっても姫の姿が見えなかった。
昼食はSさんと2人で食べたが、1人欠けるだけで食卓はとても寂しい。
「L、朝から何だか体調が悪いみたいなの。風邪かしらね。」
Sさんは心配そうだった。
「旅行の疲れとか、気温の急変とか、影響が有ったんでしょうか?」
「そうかもね。私、Lと一緒にいてやりたいから、
代わりに転校の書類を届けてくれる?それと、買い物もお願いしたいの。」
「もちろんです。」
転入予定の高校に書類を届け、買い物を終えて戻っても姫の姿は見えない。
Sさんは夕食の準備中だった。
「あの、Lさんは?」 「うん、もう大丈夫。」
少し不安だが、Sさんがそう言うなら大丈夫なんだろう。
大丈夫、だよね?
夕食の時間。ダイニングに移動すると、
姫は先に来ていて、Sさんが食器を並べていた。
『あの、体調は?』そう言いかけて気付いた。
この香り、テーブルの上のお椀にお赤飯。
昔ながらの、小豆を使って炊いた茶色っぽいお赤飯だ。何て香ばしい。
「これ、もしかして。」
「はい。」姫が少し恥ずかしそうに俯いた。
「ご名答、Lの初潮のお祝いよ。
これからはもっともっと、Lを大事にしてあげてね。」
「はい、もちろんです。」
悲しくもないのに溢れる涙と、
後から後から湧き上がる様々な感情を持て余していて、
そのあと食べたお赤飯の味も、良く分からなかった。
その晩、ベッドの中でSさんは言った。
「お陰様でLも一人前の女性に近付いた訳だけど、
改めてあなたにお願いがあるの。」
「何でしょう?僕に出来る事なら何でも。」
「生理が始まって暫くの間は体調が安定しないし、
Lはあの状態だったから、体全体が一様に成熟してるかどうか心配なの。」
「はい。きっとこれからも色々デリケートな問題が有るでしょうね。」
「そう、それでね。君がLと、その、そういう事になったとしても。」
「そういう事にって、つまり。」
「そう、婚約者なんだからきっと何時かはそうなるし、
それが駄目だって言うんじゃない。
ただ、もしそういう事になったら、避妊だけはきちんとしてあげて。
体調が不安定、成熟しきっていない体で妊娠したら、負担が大き過ぎる。」
俺はSさんを強く抱きしめてから聞いてみた。
「もしかして。」 「え、何?」 思わず笑みが浮かぶ。
「こうして毎晩Sさんと過ごすようにすれば、
僕がLさんにはプラトニックでいられると思って、
それで、Sさんは僕の子供を産む話を?」
「違う、それは違うわ。お願い、信じて。」
珍しくSさんが慌てていた。
「結果的にそうなったら良いとは思うけど、
それが目的じゃない。子供が欲しいと思ったのは。」
Sさんは言い淀み、横を向いて少し黙った。
いつもと同じ、でも時々、この人の傍に居る事が怖くなる程に、綺麗な横顔。
Sさんをぎゅっと抱きしめてから、重ねて聞いた。
「子供が欲しいと思ったのは?」
「あなた、分かってて。意地悪ね。」
「たまにはちゃんと聞きたい時もあります。」
「...あなたが大好きだから、あなたの子供が欲しいの。これで良い?」
「はい。有り難うございます。」
照れた笑顔はとても可愛くて、普段のSさんからは全く想像できない。
それは、Sさんが俺の腕の中にいる時にだけ見せてくれる、素敵な笑顔。
でも俺はこの時、Sさんの本当の優しさを知らずにいたのだった。
『旅路(下)②』了
本日投稿予定は1回、任務完了。
『旅路』は明日で完結予定、頑張ります。