4503 あの霧を抜けて(下)
4503 『あの霧を抜けて(下)』
どこまでも穏やかで、優しい空気。それを貫く、Sさんの声。
一切の甘えを許さない、厳しさを感じる。少し、怖い。
「あの時、『対症療法』と言ったのは、
こうなる原因がナオちゃん自身の心に有るからよ。
普通、人の心は、生まれつきあちら側の窓が閉じていて、鍵も掛かってる。
ただ、極希にいるの。鍵が掛かってない人や、鍵自体がない人。
そういう人の心は、あちら側の存在と繋がり易い。妖や精霊、時には悪霊とも。」
確かに、あの時Rさんは言った。
『妖や精霊と親和性の高い魂』と。
そして『ナオちゃんは海に愛されている』と。
「ナオちゃんの心、あちら側の窓に鍵がない。
釣りの名人だって事からすると、それが生まれつきかも知れない。
ただ、辛い境遇に耐えかねて、自分で鍵を壊した可能性も有る。
何時でもあちら側に逃げて、心を守るための退路として。あ、ありがと。」
RさんがSさんのカップに紅茶を注いだ。
紅茶を一口飲んで、Sさんはオレの眼を真っ直ぐに見詰めた。
...大きい。Sさんの瞳が、とても大きく見える。
Sさんの瞳の他は、白く霞んで何も見えない。
「妖との繋がりを切るために、あちら側の窓を閉じた。
それからナオちゃんに呼びかけて、その心をこちら側に向ける。
その術が、あの島で言う『魂呼』。
だからナオちゃんの心に呼びかけるのは絶対にユウ君の役目だった。」
突然、白い靄が晴れて、視界が元に戻った。
「今回もあの時と同じ。君が『手』を離さずにいたからこそ、
ナオちゃんはこちら側の窓に鍵をかけなかったんだから。」
手を、離さずに?...
!! そう言えば、不思議な霧の中でナオはオレの手を。
「このお屋敷に通じる道に入った時、車が突然濃い霧に包まれて。
その間、ナオはオレの手をずっと握っていたんです。あれが?」
Rさんがニッコリ笑って頷いた。
「そう、今も2人の『手』は離れていない。
だから未だ、こちら側の窓が少しだけ開いてる。
それに、あの時に比べれば、今の状況はそんなに深刻じゃない。
Sさんならもう一度、あちら側の窓を閉じることが出来る。その後で君が。」
「気に、入らない。」
Sさんの声、Rさんの表情が曇った。
「それじゃまた『対症療法』よね。それが分かってて
繰り返し同じ術を使うのは不調法だし、正直気が進まない。
だからって、両方の窓を自在に開閉できる天性を封じるのは論外だわ。
そんな適性を持った人間はとても、とても貴重だから。」
Sさんの視線がオレから離れた。今、その視線の先には...
背筋が冷えて、鳥肌が立つ。
「ねぇ、そろそろ根本的な策を講じるべきだと思わない?」
「Sさん、ユウ君はただ。それに、この状況でスカウトなんて、幾ら何でも」
SさんはRさんの唇に人差し指を当てて悪戯っぽく笑った。
「あなたには聞いてない。もちろんユウ君も答える立場にない。」
Sさんは少し椅子の位置をずらして座り直した。
やっぱり、ナオの、真正面。
「ナオちゃん、聞こえてるんでしょ?喋れるなら、
あの時よりずっと軽症。さ、私の質問に答えて。
【あなたはユウ君が好き?】。」
胸の奥。深く深く、抉られた気がした。
それは、オレが聞かなければならなかった、問い。
いや、その問いの前に、オレが自分の気持ちを伝えるべきだったのに。
微かに、ナオの唇が動いた。
「聞こえない。もっと大きな声で...
【あなたは、ユウ君を愛してる?】。」
「は、い。」 微かに、でも確かに聞こえた。
「それなら何故、あちら側の窓を開いたの?」
「...怖かった、から。」
怖いって、一体何が?
ナオにとって、あちら側の窓の外に見えるモノより怖いもの。
それが『今』でも、こちら側にあるのか...オレ達と暮らしていても?
「ユウ君、考えた事はない?『失う位なら手に入らない方が良い』って。」
!! 何故、それを?
耳の中で響く心臓の音。少し息が、苦しい。
「あります。ていうか、いつもそう思ってました。あの島でナオに会うまでは。」
「嘘は駄目。今はもっと強く、そう考えてる。」
「嘘じゃ、ありません。」
やっぱり息が苦しくて、口の中が乾く。
「それなら何故、自分の想いを言葉で伝えなかったの?」
「それは、それは...」
「分からないなら、教えてあげる。伝えて、拒まれるのが怖かった。
『恋人ではなく、妹でいたい。』という答を、何よりも君は怖れた。」
いくら陰陽師でも、こんな。 一体この人は。
「責めてる訳じゃない。あなたもナオちゃんも、以前は辛い境遇にあった。
ただ『絶対に手に入らない』と諦めている人に『失う恐怖』は無い。
辛い境遇から抜け出した人ほど、手に入れた幸せを失うのを怖れるものだわ。
でも、あなたの怖れが、臆病が、この娘をこんな風にしてしまった。」
「ちがい ます。私。」
「いいえ、何も違わない。」
Sさんはナオからオレに視線を戻した。
「ユウ君は男の子で、あなたより年上。
何より自分の言葉に責任を持つべきだから。」
そう、オレは男で、ナオより年上。でもオレの言葉の責任って。
「もう一度言うけど、君を責めてる訳じゃ無い。
自分からは指一本触れず、この娘を大切にしてきた不器用さは、むしろ好ましい。
実際、最初の内は問題なかった。でも、この娘が成長すれば問題が起こるわ。
当然よね。大人になれば誰でも、『自分は何故此処にいるのか』と考える。
辛い境遇から助けてくれた人、とても大切に育ててくれる人。
『妹』でも『娘』でもない人間が、何時までも此処にいて良いのかって。
この娘の立場からしたら、自分の望みを口にするなんて、出来る筈がない。」
突然、ナオの頬を涙が伝った。
何でオレは、考えてあげられなかったんだろう。それを、何で。
ナオが大好きで、ナオの事を一番に考えているつもりだったのに。
「あの日『一生この娘を守る』そう、言ったわね。今も答えは同じ?」
「はい。」
「なら伝えるべきよ。どんな立場で守るのか。
何故傍にいてほしいのか。それを、自分の言葉で。」
Sさんは立ち上がり、ふわりとテーブルを回り込んでナオの背後に。
かがみ込み、耳許に何か囁くと、ナオはゆっくり立ち上がった。
これは、Sさんの術? オレは何を。
『君の望みを言葉にすれば良い。それだけ。』
空気が大きく揺れて、眼が眩む。
振り向くと、Rさんの笑顔が目の前にあった。
右肩に添えられた手が、じんわりと熱い。
「失うのが怖いのは、その望みが本当に大切な証。怖れが深い程に、ね。
でも君達は、魂の絆を失う事をこそ、真に怖れるべだ。さあ。」
のろのろと、オレの身体が動いた。数歩、ナオの顔が、身体が目の前にある。
そっと、抱きしめた。柔らかくて、でも氷のように、冷たい身体。
オレの想い、そしてオレの望み。それは。
「ナオが好きだ。ずっと一緒にいたい。恋人になりたいけど、なれなくても良い。
ナオが一緒に暮らしてくれるだけで、オレも父さんも母さんも幸せだから。」
腕の中で、ナオの身体が弾けた気がした。
我に返る、腕の中の温もり。その身体はもう、冷たくない。
オレ達は山道の路肩に停めた車の中にいた。
「夢?」 「夢じゃ、ないです。」
そうか、車は脇道の入り口を向いて止まっている。
あの霧に包まれた時とは逆。それなら多分、夢じゃ無い。
ふと、背後に感じる気配。そっとバックミラーを見た。
車の後方、十数m。濃い、白い霧が蟠っている。
「ナオちゃん、あれ、見える?」
「はい。色々なものがボンヤリと。」 「怖くないの?」
「悪いものじゃないって。それに、ユウさんが、ずっと守ってくれるから。」
「そうだよ。ずっと、ね。」 「はい。」
『あの霧を抜けて(下)』了
本日、投稿予定は2回。1回目、任務完了。




