0305 旅路(下)①
0305 『旅路(下)①』
成田空港から夜9時過ぎ出発の便、所要時間は約8時間。
夜間のフライトなので、さっさと寝てしまう客が多い。
姫もCAさんにタオルケットを借り、早々に寝てしまった。
俺はワインを飲みながらSさんと小声で話したりしていたが、
いつの間にか寝てしまい、目が覚めたのは、ケアンズ国際空港到着後だった。
到着は現地時間の6時過ぎ。日本との時差が約一時間ある。
腕時計を空港ロビー内のデジタル表示に合わせた。
最近良く見かける電波時計ならこんな手間は無いのだろうか。
初めての海外旅行、変な事が気になる。
窓の外は薄暗く、大雨が降っていた。この時期ケアンズは雨季だという。
高温多湿の気候らしいが、到着ロビーは空調が効いていて涼しい。
既に機内で上着を脱いでいたので少し寒く感じる位だ。
預けていた荷物を受け取って到着ロビーを出ると、
Sさんの親戚で、今回の件の依頼主であるNさんが迎えに来てくれていた。
ホテルのリムジンではやたらデカくて、乗り心地も快適。
Nさんは50才位で物腰の柔らかい紳士。
俺たちを『Sさま』、『Lさま』、『Rさま』と呼ぶ。
何だか照れくさかったが、
Sさんが特に反応しなかったので俺も気にしないことにした。
空港から40分程走ってホテルに到着。
車の中で今回の件について話が聞けるかと思っていたが、
Nさんは車を運転、運転席と客席は仕切られていて直接話す事は出来ない。
そんな状態で話すような内容ではないからだろう、
Sさんも依頼についての話は出さなかった。
ホテルに着いた時には既に雨は上がっていたが、むっとする湿気が凄い。
「すぐに朝食をお持ちいたします。」
Nさんに見送られ、ホテルスタッフの案内で部屋に向かった。
案内されたのはベッドルームが3つもある大きな部屋。
あらかじめスイッチを入れてあったのだろう。空調が効いていて快適。
それにとにかく広くて綺麗、姫はあちこち覗いて回っている。キッチンもある。
食材を買ってくれば料理が出来る訳だ。長く滞在するなら便利かも。
そうこうしているうちにルームサービスで朝食が運ばれてきた。
朝食にしては分量があり、Sさんの言ったとおり、とても美味しい。
朝食を食べ終え、食後のコーヒーを飲みながらSさんが言った。
「L、このホテル、何か感じた?」 「いいえ、特に何も。」
「そうよね。もし『出る』なら、それらしい気配を感じても良い筈なのに。」
「もちろん人の集まる場所だからいろいろな気配は残ってるけど、
『出る』といわれる程濃い気配はどこにも感じない。拍子抜けする位。
本当に『出る』場所なら、現場を見るだけで大体の状況が判るんだけど。」
俺は零感だけど、陰陽師の2人が気配を感じられないということは。
「じゃ、その噂はガセで、例えば何かの『嫌がらせ』とか?」
「その可能性もあるけど、もし『嫌がらせ』なら、
Nさんがその原因を把握できる筈だし、
そういう問題の対処は、ホテル側の『専門家』で充分。
かといって根も葉もない噂なら、私にその対応を依頼してくるとも思えない。
どちらにしろ10時にはNさんと会う約束になってるから、
直接聞けば何か手がかりが掴めるはず。」
10時にスタッフが迎えに来て、Sさんと俺はNさんの部屋に案内された。
(姫は熟睡していたので無理には起こさなかった。)
どうやらNさんは結構偉い人らしい。
応接用の大きくて豪華なソファに腰掛けて俺たちを待っていた。
Nさんが立ち上がって俺たちに一礼、
俺とSさんも一礼してNさんの向かいに並んで座る。
「こんな所で申し訳ありません。
ラウンジやバーでお話しすべきかもしれませんが、
その、他人の目がありますもので。」
握りしめたハンカチで額の汗を拭った。
「このような話なら当然の事です、どうかお気になさらず。
それよりもご依頼の件を詳しくお聞きしたいのですが。
妙なものを見た人が何人かいるという話でしたね。」
「はい、最初に『それ』を見たのはお客様でした。今から二ヶ月程前です。
『部屋の壁から女性の手が生えているのを見た』と、
フロントに苦情がありました。」
「『それ』は一瞬見えたのでしょうか?それともある程度長い時間?」
「一瞬、ということはないと思います。
苦情に対応したフロントのスタッフによると、お客様は
『写真を撮ろうとしたが携帯電話のカメラには写らなかった』
とお話されていたそうですので。
その時はすぐに部屋を移って頂き、それ以上の異変は起こりませんでした。」
「その次に『それ』を見たという人は?」
「同じ頃、やはりお客様の中に天井から生える足を
見たという方がおられたようですが、
これは私供に直接クレームが来た訳ではありませんので詳細は判りかねます。」
「それから半月程して、私供の従業員が『それ』を見ました。
客室の掃除を担当していた者です。
床から生える沢山の、5本か6本の手を見たと申しまして、
取り乱したまま帰宅して二度と出勤せず、そのまま退職いたしました。
その後も同じように退職する者が出ておりまして、
ホテルの運営にも支障が出て参りました。」
「何者かが妨害工作をしているという可能性はありませんか?」
「それはありません。」 「何故そのように?」
Nさんはもう一度ハンカチで汗を拭った。空調は十分効いているのに。
「私も、私も先日『それ』を見たからです。」
Sさんの集中力が一気に高まるのがわかった。
「あなた自身が『それ』を?」
「はい、夜勤に備えて早めの夕食をとり、この部屋に戻る途中でした。
妙な気配を感じて振り返ったら、廊下の壁から、
その...女性の下半身が生えておりました。」
「何故それが女性だと?」
「黒のスカートでしたので。あ、黒いハイヒールも。」
「それでこれは只事ではないとお考えになって、
私達に依頼をされたということですね。」
「その通りでございます。
兎に角、このような事例はSさまでなければと思いましたから。」
「念の為にお聞きしますが、
この異変に関係がありそうな事柄に心当たりはありませんか?
宿泊客に関わるトラブルや、それに類するもので。
どんな些細な事でも良いのですが。」
「有り体に申し上げます。
ここ数年、当ホテルでお客様がお亡くなりになるような事例は
ありませんでしたし、周辺で死人が出るような事件も起きておりません。
この辺りはオーストラリアでも比較的治安の良い土地です。
ですから、あのような怪異の原因には皆目見当がつきません。」
その後Sさんはメモを取りながら、
目撃証言の日付や時間帯などについて幾つか質問をした後に言った。
「大体の事情は分かりました。早速今日から調査を始めます。
もし進展があれば直ぐにお知らせします。」
「宜しくお願い致します。」 Nさんは、また、額の汗を拭った。
部屋に戻る途中、Sさんは売店で新聞を買った。
部屋に戻ってから、かなり長い間、黙って新聞を読んでいる。ん?
Sさんは英語が読めるって事だよな...凄ぇ。
暫くすると姫が起きてきたので、昼食を食べに三人でレストランへ。
部屋に戻ってから午後のコーヒーを飲んだ。
コーヒーとケーキはルームサービス。
「L、まだ変わった気配は感じない?」
「はい。特に濃い気配は感じません。」
「やっぱり単純に何かが『出る』って話じゃ無いみたいね。
R君、あなたはどう思う?」
「見当もつきません。でも、似たような話を教科書で読んだ事があります。
柱に小さな手が生えてどうこうとか、そんな感じの。」
「今昔物語ね。『夜毎柱の穴から稚児の手が現れ手招きをする』って。」
「そう、それです。ずっと引っかかってて、何かすっきりしました。
あの話では、柱の穴を矢尻でふさいだら怪異が止んだんですよね。」
姫は目を閉じてうつらうつらしている。
変な気配を感じないからリラックスしているようだ。
「そう。でも、今回の件では壁や天井に穴が開いていた訳じゃない。
私だけじゃなくLも感じていないとすると、
やはり最近大きな事件や事故が有ったとも思えない。
まあ壁から体の一部、特に手や腕が生えるって話は、今昔物語だけじゃなく、
現代の都市伝説みたいな怪談でもたまに見られるモチーフ。
それほど珍しい現象では無いんだけれど。」
俺はついでにもう一つ、気になっていた事を口にした。
「それと、何て言ったら良いのか、
増えてますよね。見えるものが。数や、部分が。」
Sさんが微笑んだ。
「良い所に気が付いたわね。この件で珍しいのは其処。
数や部分が、目撃される度に増えてる。何故かしら。
でも、今の所は情報不足。調べてみないと結論は出そうにないわね。」
俺たちは観光がてら情報収集に力を注いだが、
特に目立った成果は無く、新たな目撃情報も無いまま膠着状態が続いた。
変化が生じたのはそれから一週間程過ぎた日。
午後遅く、姫と二人ホテルのプライベートビーチに近い小さな桟橋に出かけた。
海岸沿いの通りで釣具屋を見つけ、ルアー用の釣りセットを買ったからだ。
いくらレストランの料理が美味しくても、一週間もすれば飽きてくる。
何か魚が釣れたら自分達で料理してみようと思っていた。
満潮に向かって潮が動いていたし、天気などの条件も良かったのだろう。
一投目から当たりがあり、30分程の間に小さなカマスが5尾釣れた。
「すご~い!Rさん、すごいです。魚釣りが上手なんですね。」
姫は大はしゃぎだ。
「Lさんも釣ってみますか?」 「はい、釣ってみたいです。」
姫にキャストの仕方を教えていると、
3度目のキャストでルアーが結構遠くに飛んだ。
「じゃ、リールを巻いて。」
「...あの、巻けません。あっ。」 姫がよろめいた。
姫の体を支えてリールを見ると、ドラグが効いて糸が出ている。
まさかの大物?マズい、いやマズくはないけど、ちょっと大変な事に。
「釣れてますよ。結構大きいのが。」 「ホントですか?」
「糸が出てる時は無理に巻いちゃ駄目。
止まったらこうやって竿をあおって、戻しながら巻きます。」
「はい、...でも重いです。」 「頑張って、だんだん寄って来てますよ。」
ローカルなのか観光客なのか、白人の男女が数人、近寄って見物している。
照れくさいが、当然、姫はそれどころでは無い。
頬を紅潮させて竿を支え、リールを巻く。
5分程経ったかという頃、魚の姿が見えてきた。
ハマフエフキだ。デカい、少なくとも50cmはある。
そこで気が付いた。これはマズい、リーダーシステムを組んでない。
釣れても小物だと高を括っていたので、リールの道糸を通しで使っていた。
取り込もうとしたタイミングで魚がエラ洗いをしたら、多分道糸が切れる。
どうする?水深は1m半くらい。桟橋から回り込んで砂浜に誘導するか?
考えているうちに魚がヒラを打って水面に浮いた。
止める間もなく、姫が思いきり竿をあおる。
案の定、道糸が切れた。コントロールを失った魚が水面を漂っている。
魚が元気を取り戻すまで、時間はほとんどない。
ポケットから取り出した財布と携帯を姫に渡し、桟橋から飛び降りた。
すかさず魚を両腕で抱き上げ、桟橋に放り上げる。
ギャラリーから大きな歓声が上がった。
姫は握手攻めに合い、少し照れ臭そうな表情。
俺は白人の女性からバスタオルを差し出され、辞退したつもりだったが、
その女性は俺の頭からバスタオルを被せ、ざっと上半身を拭いてくれた。
モデルみたいな体型に大胆な白いビキニ、少しドキドキする。
その女性には丁重に礼を言い、持参したレジ袋に魚をまとめて入れた。
袋はずっしりと重い。これなら3人の夕食にも充分な釣果。
姫はホテルへ帰る途中の食料品店で、調味料を買い揃えた。
小さな紙袋を抱えて歩く、姫の軽やかな足取り。
その横顔はとても、楽しそうだった。
『旅路(下)①』了
本日は一回投稿、任務完了。
明日は『旅路(下)②』、明後日『旅路(結)』を投稿予定。
頑張ります。