3802 鬼(中)
3802 『鬼(中)』
「...これで良いと、思うけど。私も、この術は初めてだから。」
一連の術式を終え、Sさんが立ち上がった。
図書室の奥、板張りの床に正座した姫は、眼を閉じたままだ。
「ただ、期限は最大でも十日。相性が良いから、かなり長い方だと思う。
でもそれ以上は、Lの体が負荷に耐えられるか分からない。
耐えられなくなったらどうなるのか、それも前例の記録が無い。」
姫の体が? それだけは絶対に、避けねばならない。
しかし、最大で十日...鬼の活動期限からして、殆ど余裕は無い。
「じゃ、R君。お願い。Lに、いいえ、御影に呼びかけて。
君の『言霊』が、この術を全うする。」
少しだけ、Sさんの声が震えていた。無理も無い、初めての術。
更に、この術の成否に、姫の命がかかっている。
そして『言霊』は、俺の役目。
呼吸を整え、心を静める。 深く息を吸い、下腹に力を込めた。
『眼を、開けて下さい。御影、さん。』
静かに時が過ぎていく。もし、『言霊』が届かなければ、それは。
再度、『言霊』で呼び掛ける。やはり、反応はない。
何秒経ったろう、いや何分か? 穏やかな声が、重い空気を吹き払った。
『見事だ。流石は○△姫。』
ゆっくりと姫が、いや、御影さんが眼を開いた。
見慣れた、美しい顔。でも、姫とは違う微笑。
安堵と不安が同居する、この感覚は一体?
「久しいな、R。」
ああ、そうか。
透明な笑顔と柔らかな声の、奥にあるものが同じ、なのだ。
自ら望んだ訳ではない、しかし『持って生まれたもの』に対峙する、覚悟。
だからこそ姫はこの役目を。
『御前は本当に、良い妻を持った。少々、気に触る程に。』
御影さんは立ち上がって微笑んだ。
だって、それは俺が望んだ訳では...いや、確かに俺が望んで。
『はい。2人とも、僕には過ぎた女性です。
ですから、この件でSさんとLさんに障りが出る事だけは、絶対に。』
『承知している。我に、任せろ。』
午後1時過ぎ。
ホテルのドアを開けて、御影さんが帰ってきた。
被害者が通っていた大学の近く。地方都市中心部のホテル。
事は一刻を争う。だから昨日、御影さんが目覚めた後、すぐに移動した。
遺体の発見現場と大学の両方からそう遠くない場所に鬼が潜んでいる。
それが榊さんの見立てで、御影さんも同意した。
今日は朝から、榊さんと一緒にあちこち調べていた筈だ。
「御影さん...それって。」
口元に、白く細い棒。ペロペロキャンディー?
きっと小脇に抱えた紙袋の中身も、大人買いか。
「今日は、あちこち調べるって、まさかそんな物食べながら。もっと真面」
次の瞬間、キャンディーは俺の口に押し込まれていた。手品?
「五月蠅い。朝から気を張っていたのだ。
菓子くらいで罰が当たる訳ありません。」
??? そう言えば姫はお菓子、甘いものが。しかし。
2人の意識にある程度の『共振』があるのか。
それとも御影さんが、姫の記憶の影響を受けているのか。
話し方や行動に少々混濁があるようだ。
御影さんはソファに腰掛けた。
紙袋をテープルに置いて、地図を広げる。
「面倒だな。あれが相手でなければ、こんなものに頼らずとも...」
市内の地図、しかしこの縮尺? ああ、榊さんが拡大コピーを。
赤い丸印が4つ見える。1つは被害者の大学、もう一つは遺体の発見場所。
なら、あとの2つは?
「二人目の被害者です。昨夜見つかったのだと、榊が。」
榊? 流石に呼び捨ては...いや、御影さんの方が遥かに年上だな。
思わず笑みが浮かぶ。 榊さん、どんな顔してたんだろう?
「それと、興味深い話を聞いた。」 「興味深い、話?」
「大学の茶屋で話しかけてきた男から、な。」
大学の茶屋って、学内のカフェ?
「大学って、被害者の大学ですか?」
「そう。榊が『黙ってお茶を飲んでいれば話しかけてくる男がいる』と。
その通りだったから驚いたぞ。ああ見えて、中々切れる男だな。」
少し、目眩がした。
まさか被害者の大学で、ナンパしてくる男から情報を?
「適当に相手をしていたら、はぁぶの話になって。」
はぁぶ? って、ハーブ...ドラッグか?
「阿片か、その類いだろう。大学にも使ってる奴がいるから気をつけろ、と。」
御影さんは小さな声で笑った。
「初見で馴れ馴れしく話しかけてくる男を避けていれば、
そんな災難には、生涯、縁が無いだろうに。」
「榊さんが、その件を調べてるんですね?」
「そうだ。何ぞ思い当たる節があるらしい。
しかし喋り方ひとつにも気を使うなど...疲れた。少し寝ます。」
ああ、だから姫の記憶を利用して学生と話を。
1時間程で、御影さんは眼を覚ました。
シャワーに入り、身支度を調えるのを待って、遅い昼食のためにレストランへ。
『どうも、今の世の味には馴染めぬ。』
大儀そうな表情。和食だから洋食よりはましだろうが、
食材も味付けも、御影さんが作ってくれた料理とはかなり違う。
しかし、食べてくれないと姫の身体に障るし、
結果、御影さんの能力にも影響が出る。
「さて、部屋で休んだら夜は街へ出よう。場所は調べてある。」
「街へ出るって、何しに?」
「勢子、だ。使い物になるかまだ分かりませんが。」
夜8時前、とあるビルに着いた。
その場所は、あの地図に記されていた赤い丸印。最後の1つ。
大きな自動ドアを潜り、御影さんは廊下を奥に進む。慌てて後を追った。
エレベーターのボタンは3F、エクササイズジムの表示がある。受付は若い女性。
「あの、電話で見学と体験をお願いしたRです。彼女が、その、体験希望者で。」
打ち合わせ通りだ。御影さんの妙な喋り方で不審に思われるのはマズい。
御影さんの真新しいジャージと運動靴のをチラリと見て、
受付の女性は事務的な笑顔を浮かべた。
「はい、予約は承って下ります。
あと5分程で通常のレッスンが終わりますから、中のベンチでお待ち下さい。」
ドアを開け、エクササイズルームに入った。 軽く頭を下げる。
涼しくて快適、軽快な音楽。 ボクシング? 思っていたより女性が多い。
上級者クラスなのか、皆、中々の動きだ。
やがてゴングが鳴り、音楽が止まった。
「OK、皆さんお疲れさま~。」
「ありがとうございました!」 「あざっした!」
生徒達の前で見本を見せながら、時折熱心な個別指導をしていた青年。
二十歳そこそこに見えるが、爽やかな営業スマイル。さすがにプロ。
突然、耳元に囁き声。
『R、あの男の声を聞け。心の声を。』 「心の、声?」
言われるまま感覚を拡張する。
生徒達は談笑しながら次々にエクササイズルームを出て行く。
あの男って、トレーナーっぽい笑顔の青年? あ。
全く息が弾んでいない、汗も...
一気に集中力が高まり、チャンネルが同調する。
最後の生徒がエクササイズルームを出た直後。
『これで良いのか、オレは。』
『いくらジムが繁盛しても、こんなんじゃ...』
溜め息。暗い、自虐的な笑顔。それは術者でなければ気づかぬ程に微かな。
ゆっくりと後退る。ガラス張りの壁に近付いて、護符を貼り付けた。
これで、今後エクササイズルームの中に注意を向ける者はない。
後は御影さんに任せるだけ。
「溜め息なら、未だ希みがある訳だ。」
青年は驚いたように振り返った。御影さんも立ち上がる。
「ああ、体験の方ですか。」
「体験...そうだな。◎の家が継承してきた武を貴様に。
それが、◆秀の遺志だから。」
青年の顔色が変わった。
「祖父の名を...成る程、アンタ達は一族の術者か。噂は聞いてるよ。
だが、オレなりに頑張って一族に貢献してる。咎められる筋合いはない筈だ。」
「なら何故、溜め息を?」 「それは...」
「分からないなら教えてやる。『つまらない』からだ。その生き方が。」
「つまらないって、オレは毎日。」
「武門に生まれた者が満足できる訳が無かろう。毎日、体育の指導では。』
「体、育?」 「見学した限りでは、体育。それ以外に言葉がない。」
すい。
御影さんは屈んで運動靴を脱いだ。姫と寸分違わぬ優雅な仕草。
けれど、一歩、踏み出した素足が柔らかなマットを掴む音に、腹の底が冷える。
「最初はこう。」 両の拳を顔の前に。左足が一歩前。
「そして、こう。」 床を蹴る破裂音が聞こえた。
拳が小気味よく風を切る、左・左・右。右・左・右。
すっ、と体が沈み、直ぐに弾ける。ごう、と右拳が天を突いた。
アッパーカット?
「左右入れ替えれば、こう。」
さっきとは完全に反転して、そして更に速く。
「アンタ、どこでボクシングを?」 「此所で。先刻、見学したから。」
「そんな、幾ら何でも...たった数分の、看取り稽古で?」
「疑うなら、自分で確かめろ。立ち会えば、直ぐに分かる。」
「馬鹿言うな。何でオレが女と。」
『○雷。』
その言葉に籠もる力が、エクササイズルームの空気を震わせた。
「一族最強の武を背負う号。
本来、それは貴様が継ぐ筈だった。◆秀の孫、◆成。
時代が変わったとは言え、その号の継承者が絶えてしまうのを、
◆秀は心の底から悔いていた。先達に申し訳ない、と。」
「アンタ、一体?」
「我が名は御影。当主様の命を受け、この体を借りて化生した。」
「『みかげ』って、まさか。」
「借りた身体の能力は極上、我が人であった時と遜色ない。
つまり、貴様は運が良い。今、貴様の眼の前にいるのは、紛れもない『○雷』。
勿論尻尾を巻いて逃げるなら好きにしろ。止めはしない。」
意地の悪い、笑顔。
何故そんな挑発を、もし事故があれば姫の体が。
「良いだろう。ただし、女の子相手。オレは『当てない』。大人気ないからな。
当たった、と、アンタが納得すれば終わり。それが条件だ。」
「構わん。それで、我は当てても良いのか?」
「好きにしろ。出来るなら。」
青年は浅く息を吸った。
そのまま左足を一歩踏み出そうとした瞬間、御影さんの身体がふわりと揺れた。
直後、青年は右足を前、両拳を顔の前に。
「おや、女子相手に本気とは。確か先刻『大人気ない』と。」
「馬鹿言え。女の子だろうが何だろうが『△歩』を使う相手。
此処からは全力。悪く、思うな。」
「それでこそ、だ。」
御影さんは微笑んだ。空気がぴいんと張り詰める。
ペタ、と、青年は尻餅をついた。
御影さんは右掌を前に...近い、青年の胸を?
多分、そうだ。ハッキリとは見えなかったが。そうとしか。
「ぼくしんぐ。長い時をかけて練られた、優れた体系なのは知っている。
しかし、あくまで規則の下で『競い合う』ためのもの。『武』とは違う。
『武』の目標は必勝、競い合いではない。故に、打たせてはならぬ。
力や体格で上回る相手なら、まぐれ当たりでも、当たれば敗ける。」
「...でも、あんな、体重移動。化け物め。」
御影さんは微笑んだ。姫と同じ顔、でも姫とは全く違う、闇。
「利き足と利き手に構え直したのは中々の嗅覚だし、
初見で体重移動の違いを見抜いたなら、褒めてやろう。」
「初見じゃない、思い出したんだ。
全く同じだよ。一度だけ、祖父さんに稽古をつけて貰った、あの時と。」
「長い長い時を費やして先達が積み上げた技術を基に、辿り着いた極致。
その速さ故に、継承者は『○雷』と号される。
だがこれは『出発点』。貴様が望むなら、立て。
我が◆秀の遺志を継ごう。」
数分後、青年は仰向けに倒れていた。マットに力なく伸びた手足、息も荒い。
「くそ、こんなにも差が...オレは一体今まで何を。」
『霊域』で、俺自身が身をもって経験した感覚。
きっとそれは、心の底から絞り出した言葉だったろう。
「貴様、笑ってるぞ。」
「そうさ。女の子に、良いようにあしらわれて、悔しくて堪らない。」
青年はゆっくりと上体を起こし、胡座をかいた。
「なのに、ゾクゾクする。心底、楽しい。何で?」
「貴様の体に流れる血故だ。
それは◆秀の、そして我の体に流れていた血だから。」
「ならオレはもっと強く、なりたい。俺の身体に流れる血の限界まで。」
「その言葉に、偽りはないか?」
「ない。」
一瞬の躊躇もなく青年は答えた。心地良い、微かな言霊。
「身体能力は申し分ないが、稽古だけで『武』は身につかぬ。」
「それなら、どうすれば良い?教えてくれ。」
「我等は明日にでも『鬼』を狩る。我も1人では手に余る、羆並みの怪物。」
「いきなり羆並み...オレが、その怪物を相手に?」
「限界を知りたいなら、望外の相手だ。勿論、無理強いはしない。」
「祖父さんが悔いていた、アンタはさっきそう言ったな?」
「そうだ。あの日、我は◆秀の臨終に立ち会い、その声を聴いた。」
御影さん自身が望んで、血縁の武人の臨終を看取ったのか。
それとも今際の際に、その武人が御影さんに呼びかけたのか。
「アンタでも手に余る相手。
もしオレが生き残ったら、祖父さんの心残りは消えるかな?」
「『○雷』の号を志す者が現れるなら、それこそが〇秀の望み。」
青年は居住まいを正し、深く頭を下げた。
「なら、オレを使ってくれ。頼む。」
「良い、心がけだ。」
御影さんの声は優しかったが、その眼は笑っていなかった。
『鬼(中)』了
本日投稿予定は1回、任務完了。




